シェイクスピアと音楽(7): 言葉か音楽か?
「Twelfth Night」という喜劇をご存知でしょうか?
シェイクスピアが人生の後半に悲劇ばかりを書き始める前に、集中して喜劇をたくさん書いた時期がありました。
「空騒ぎ」「お気に召すまま」「恋の骨折り損」そして「十二夜」などです。
最後の「十二夜」は、喜劇中の最高傑作であるとも呼ばれています。
「十二夜」の魅力は、主役のヴァイオラが男の格好をして、女であることを隠して彼女が思いを寄せる公爵に仕え、公爵が想いを寄せる貴婦人との間の務めること。
しかもヴァイオラは恋に苛まれている公爵に恋心を抱いていて、さらにはオリヴィア姫は男装したヴァイオラに恋心を抱くのです。
生き別れた、ヴァイオラそっくりの双子の兄セバスチャンは当然ながら劇の途中から登場して、瓜二つの二人は間違えられてしまい、騒動が起きます。
こういう喜劇なのですが、ヴァイオラの物語と並行して、途中からオリヴィア姫に仕える執事は貴婦人の取り巻きたちに揶揄われて、姫が書いたものであると仕組まれた偽の恋文を読んで、ご主人の姫に恋情を抱き、とんでもない悪巧みが行われるのです。
悲劇「リア王」同様に、公爵や姫の宮廷間を自由に行き来する道化師が登場し、道化は貴人たちのゴタゴタを外から眺めて、要所要所でウィットに飛んだ言葉を放つという具合。
道化は「夏の夜の夢」のパックのように狂言回しな存在で、物語の恋物語には当然ながら絡まないのですが、だからこそ彼の語る人間のさがへの深い洞察が素晴らしい。
妖精パックのように「人間どもは馬鹿だなぁ」とは語らずに、恋に翻弄される人間たちを温かく遠くから眺めている道化の姿はシェイクスピアその人の人間讃歌なのでしょうね。ヒューマニスト、シェイクスピアの面目躍如たる作品こそが数々の喜劇。
人間たちは馬鹿だけれども、だからこそ愛おしい。シェイクスピア物語には完全無比の絶対的な賢人は登場しない。賢人と呼ばれる人も所詮は阿呆な人間の一人。
これがシェイクスピアらしさですね。
言葉が先か、音楽が先か?
道化は劇中、何曲も歌を歌いますが、シェイクスピア劇で「十二夜」ほどに音楽的な劇はないのです。
そこで語りたいのは、シェイクスピアの音楽劇はどれほどに音楽的なのか?
ミュージカルやオペラといった音楽劇を語るとき、言葉と音楽、どちらがより大事という議論が数百年に渡って議論され続けてきました。
モーツァルトのライヴァルと見做されたアントーニオ・サリエーリには「最初に言葉、お次に音楽」という題名のオペラがあり、二十世紀のリヒャルト・シュトラウスは同じ主題のオペラ「カプリッチョ」を書いたりもしました。
言葉が最初ならば、言葉なしに音楽は存在できない。言葉から切り離すと音楽的に破綻してしまいます。
この質問、私の大好きなマイフェアレディのミュージカルステージ1956年版のレコードのための録音で、ヒギンズ教授を演じたレックス・ハリソン Rex Harrison は言葉が最初だと断言。ボーナストラックでそう述べています。イライザ役の二十歳のジュリー・アンドリュースは音楽だと言いますが、ビギンズ教授は喋りながら歌うという、なんとも難しい役柄です。
言葉は、音楽に捉われないで語られて、時にはメロディに乗って歌われる。本当にこのミュージカルは凄い。
言葉の発音をめぐるミュージカルなので、歌詞がなによりも大事。
ハリソンの言葉は「マイフェアレディ」に関しては全く妥当な言葉ですが、「オペラ座の怪人」のような音楽優位なミュージカルならば、やはり音楽が最初なのでは。
ですが、言葉がそれほど重要でなかったバロックオペラの時代には、パスティーシュ・オペラというものが流行。
いろんなオペラの名アリアを繋ぎ合して別のオペラを作り上げたのです。古いオペラの名場面の使い回しはバロック時代には普通に行われていた習慣。録音のない時代なのですから。
歌詞は自由に変更されて、神様への祈りの歌も求婚の歌に変容したりも当たり前。
有名な例では、モーツァルトの戴冠式ミサのアリアは、後年のオペラ「フィガロの結婚」や「コシ・ファン・トゥッテ」に再利用されたりもしました。
最近ではメトロポリタン歌劇場がシェイクスピアの「テンペスト」をパスティーシュ・オペラに仕立て上げたりもしました。
題名は「An Enchanted Island」。
歌詞はシェイクスピアの言葉を自由な現代英語に書き換えて、ヘンデルやヴィヴァルディ、ラモーの音楽を使って継ぎ接ぎして、バロックオペラを一曲作り出したのです。まるで17世紀や18世紀のオペラそのもの。音楽はシェイクスピアの時代に近いものだけど、英語は21世紀の現代英語なのです。
という具合に、オペラにおいて、「音楽が先か、言葉は先か」は、台本にも音楽にもよるのです。
シェイクスピア劇に音楽をつける場合
さて、言葉の魔術師シェイクスピアの場合は、間違いなく言葉が最初。
大事なのは、音楽が素晴らしすぎて言葉を圧倒してはいけないということ。
ゲーテがシューベルト作曲の自作の詩作品を一切無視したというエピソードを思い出します。音楽が素晴らしすぎると、詩は音楽の従属物になってしまいますから。ゲーテの気持ちも分からないではありません。
だからシェイクスピアのオペラ化は本当に難しい。
ゆえにオリジナルな英語をもとにしたシェイクスピア英語オペラは、20世紀のベンジャミンブリテンまで存在しなかったのです。
シェイクスピア劇にも音楽は大切。
でも言葉を損なわない程度の音楽を、となると、いわゆる大作曲家は本領を発揮出来なくなるのです。彼らの音楽は輝きすぎてしまいます。
シェイクスピア劇をオペラ化した最良の例は、詩人にして作曲家のアルゴー・ボイートとイタリアオペラ最大の巨匠ジュゼッペ・ヴェルディによる2人の天才による共作です。
ボイートはシェイクスピア英語を言葉の美しさを失わせずにオペラにしやすいイタリア語に翻訳したのです。ヴェルディ最晩年の大傑作「オセロー」と「フォルスタッフ(ウィンザーの陽気な女房たち)」はボイートなくしてあり得ませんでした。言葉が先なのですね。
でもヴェルディの音楽も西洋音楽史上最高の音楽。音楽史上の奇跡なのです。
「マクベス」も若い頃のヴェルディに作曲されていますが、やはり何度聞いても凄いのは、最晩年の二大傑作です。
「オセロー」は大作曲家ロッシーニにも作曲されています。ですが、台本のためか、作品はヴェルディに比べるべくもない。「ハムレット」はフランスのトーマに、「ロメオとジュリエット」はフランスのグノーとイタリアのベルリーニに曲を付けられていますが、音楽が物語の質に追いついていないような印象を受けます。
言葉が先なのか、音楽が先なのか。
「十二夜」の音楽
ほとんどのシェイクスピア劇には、歌われることを意図されて書かれた歌のセリフがあります。
「テンペスト」や「夏の夜の夢」にもたくさんありますが、数あるシェイクスピア劇の中で最も歌われるセリフが多い作品は、喜劇「十二夜」。
音楽に始まり、音楽に終わる作品です。
劇は開口一番、この言葉から始まります。
音楽が主題のシェイクスピア劇、それが「十二夜」なのです。でもだからこそ、誰もが二の足を踏んでオペラ化しようとはしなかったとも思われます。
十二夜の音楽
シェイクスピア劇には歌がたくさんあるけれども、歌を歌う俳優のだれもが素晴らしい歌手であるとは限らない。
だから歌のセリフにつけられる音楽は、極力単純なものがいいのですね。
「劇の上演で使用される場合には」という意味で。
喜劇「十二夜」には、シェイクスピア時代の楽譜も残されています。音楽的には単純極まりないけれども分かりやすくて、音楽は言葉を覆い隠してはしまわない。
とても大人気な歌詞で、英語圏の作曲家がこぞって作曲していますが、1996年の映画「十二夜」ではこんな風。ラブソングを歌ってと言われた道化師が歌います。
レディ・オリヴィアはヘレナ・ボナム=カーターによって演じられます。名作映画ですね。
劇で歌えない、美しいアメリカの女流作曲家エイミー・ピーチの作曲もどうぞ。
続いては「来たれ、死よ!」
劇中、道化師の歌は本当にたくさんあります。道化師フェステ役は歌も歌える俳優でないといけません。こんな言葉が道化師の口から飛び出してくる。
1996年の映画ではこんなふう。
最後の道化師の歌。こちらは後述します。
シェイクスピア時代のスタイルで
こちらは現代風
道化師のフェステは、人生の機知に富んだセリフを歌にこめます。
どんなに辛辣な言葉も、阿呆のフリしている道化師が語ると歌うと許される。
劇中ヴァイオラが語るように、フェステは本当に頭の良く回るインテリ。コメディアンは馬鹿には務まらない!アイロニーの達人。
道化師を馬鹿でないと見抜けるヴァイオラは人を見る目を持っているのですね。
大作曲家による作曲
歌詞にふさわしい言葉があれば、音楽家はメロディと伴奏を付けたがります。
でも上演においては、歌は単純なものでないといけません。
だから音楽的に立派だと、音楽的訓練を受けた音楽の専門家ではないと歌えないということになります。
完成度が高すぎて普通の人には演奏困難。
シェイクスピア劇に大音楽家の作曲は普通は使用されない理由です。
「夏の夜の夢」のメンデルスゾーンだけが偉大な例外ですが、メンデルスゾーンの音楽がステージで使用される場合は録音が使用されるのが通例です。生演奏は難しい。
さて音楽史に特筆される大作曲家が「十二夜」に作曲した例をどうぞ。
ハイドン作曲のヴァイオラの歌
一つは、十八世紀の世紀末に英国に二度も渡英して、彼の地で大変に愛された交響曲の父ヨーゼフ・ハイドンの書いた歌。
ハイドンが、ロンドン滞在中に「驚愕」のいう渾名の交響曲を始めとする12もの交響曲を書いたことは有名ですね。
ハイドンの歌曲は広く親しまれてはいませんが、いくつかの歌曲は大変に優れたものです。
男装しているヴァイオラが、自分が想いを寄せている公爵に自分の想いを自分の叔母がある方をこんな風に愛していましたと語る歌。
自分の名を出さずに自分の想いを相手に伝える歌。ヴァイオラは辛いですね。長いピアノ伴奏は彼女の躊躇いの気持ちの表れのよう。
このセリフは劇の中では歌われずに語られる部分。歌われない部分にわざわざ作曲したということは、ハイドンは英国滞在中にシェイクスピアを見て、感銘を受けたのですね。英語を渡英前に勉強したハイドンは英国滞在中に作曲、そして英国ですぐに出版されたのでした。ハイドン唯一のシェイクスピア歌曲。
喜劇「十二夜」のクライマックスとも言える名場面を音楽化したのですが、この歌曲は音楽的に高度でありすぎて、劇中で俳優に歌わせるのは無理です。ミュージカルではないのですから。
音楽的分類では、カンツォネッタという独立して単独で歌われる歌です。
わたしはハイドンをショパンやラフマニノフよりも好みますので、ハイドンが英語歌曲を作曲してくれたことがとても嬉しい。
シューマン、シベリウス、コルンゴルドの道化師の歌
次はドイツロマン派のローベルト・シューマンとフィンランドのジャン・シベリウスによる、喜劇の最後を締めくくる道化師の歌。
劇の最後を締めくくる大事な歌。「夏の夜の夢」では妖精パックが、「テンペスト」では魔術師プロスペローがエピローグを語りましたが、十二夜では、最後の言葉は語られずに歌われるのです。
道化師フェステによる「毎日雨が降るからさ」
まずはシューマンの歌曲、作品番号は127ですが、シューマンが数百曲の歌曲をたったの一年の歌に書いた1840年「歌の年」に書かれた歌曲。
シューマンがシェイクスピアの詩に作曲したただ一つの音楽。ドイツ語翻訳の詩に書かれたのですが、シューマンらしい佳曲です。
次は同じ歌詞のフィンランド語翻訳につけられた歌。
「フィンランディア」で知られる交響曲作曲家シベリウスは、ハイドン同様に、優れた歌曲作曲家でもあるのです。
シェイクスピアのオリジナルな英語にそのまま作曲したのは、神童としてオーストリアで十代でオペラを書いて、マーラーやシェーンベルクに認められるものの、ユダヤ人であるがためにアメリカに移住してハリウッド映画音楽作曲家として生きたコルンゴルドの歌曲。
ヘイホーとか、ホプハイサとか、ホッリロとか、掛け声は変わりますが、雨が降ろうが風が吹こうが楽しく可笑しく生きてゆこうという道化師精神溢れる、イキイキとした生命力溢れる歌。
これが喜劇の魅力。見終えた後に自分もまた、劇中の彼らのように楽しく生きてゆこうと、劇の跳ねた後に思えるならば、「十二夜」を見てよかったと思えますよね。
シェイクスピア壮年期の傑作喜劇「十二夜」。
引用できる素敵なセリフが劇中全編に散りばめられています。韻文で書かれている部分と散文による部分とが時々入れ替わり、韻を踏んだ言葉に深い意味が生まれます。
男女取り替えの物語の面白さもさることながら、劇中歌に込められたシェイクスピアの喜劇への想いを読み解くのも一興なのでは。
道化師の歌は一見、劇の物語に関係ないようで、彼の屁理屈に思えるような言葉にはいろんなものが詰まっているのです。
道化師フェステがいないと「十二夜」はただの恋のイザコザを物語るだけの喜劇にしか見えないけれども、逆説的な深い言葉を放つフェステの存在ゆえに「十二夜」は唯の笑劇に終わらない深みを湛えます。
シェイクスピアは深読みすればするほど、面白いのです。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。