シェイクスピアと音楽(9): 「シンベリン」の慰めの歌
英文学のみならず、世界文学最大の劇詩人と呼ばれるウィリアム・シェイクスピア(1564-1616) の生涯をおさらいしてみましょうか。
シェイクスピアの生涯とは
シェイクスピアは貴族の家系出身ではなく、それなりに裕福な庶民の出。
父親ジョン・シェイクスピアは市議会議員にまでなった地元の名士。成功した商人でした。ですので息子ウィリアムは当時の庶民としては最上級の教育を受けられたと考えられていますが、貴族の子弟のように正規の大学教育は受けていません。
シェイクスピアの教養はほとんど独学によるものと考えられています。
それを信じられない後世の人たちは、シェイクスピアとは同時代のトーマス・モアやフランシス・ベーコンなどという文学者や哲学者の偽名ではないかという疑惑が持ち上がったほどに、深い文学的教養を身につけることに成功した人でした。
シェイクスピア別人説はフィクションの格好の素材です。それほどに後世に伝わるシェイクスピアについての個人記録は限られていて、謎めいています。
代表作の「ロメオとジュリエット」のように、他の多くの作家に語り尽くされた古い文学素材を換骨奪胎して、あれほどに美しい詩文に仕立て上げたのは間違いなくシェイクスピアの功績。
この悲劇の題材が他の作者の作品のいいとこ取りしたパスティーシュであったとしても、詩文はまさに天才詩人の筆から生まれたオリジナルなもの。
シェイクスピアは弱強五歩脚の詩文や話し言葉の散文を的確に組み合わせて劇のセリフを書きました。スラングたっぷりの罵り言葉、演説から檄文、抒情的な恋文など、本当にさまざまな文体を使い分けたのでした。その多彩さがシェイクスピア文学の魅力。
初期作品にはライヴァルだったクリストファー・マーロウ(1564-1593) との共作、またはマーロウ作品からの盗作の可能性も文献ビッグデータ解析によって指摘されていますが、いずれにせよ、美しい英語こそはシェイクスピアの本領、晩年の「テンペスト」のように、シェイクスピア独自のオリジナルな素晴らしい作品もあるのですから。
シェイクスピアは故郷の田舎ストラトフォードを若くして去り、イギリスの首都ロンドンで俳優として下積みをして、やがて台本作家として台頭してゆきます。
シェイクスピアの人生にはどうにもわからない空白部分が多いのですが、日記はおろか、手紙さえもほとんど残されていない。
故郷を去る前に結婚して三人の子供を授かるも(長女と男女の双子)、妻アンは裕福な家庭出身でも、当時の習いに従い、字の読めない女性でした。異郷に暮らすシェイクスピアから家族宛の手紙さえも残されてはいないのです。
出世欲に燃えるシェイクスピアは幼い子供たちを妻一人の手に委ねて、一旗揚げんと劇場芸術の中心地ロンドンへと向かうのです。二十代前半の頃のこと。
シェイクスピア初期作品
シェイクスピアの名前が再び歴史に現れるのは、故郷を離れて数年後、俳優として舞台に立っていたらしいシェイクスピアは、1689年頃に「じゃじゃ馬ならし」や「ヴェロナの二人の紳士」、続いてデビュー作となる大作の史劇「ヘンリー六世」を完成させます。
続いて書かれた、表の顔と裏の顔を使い分ける主人公の心理描写が秀逸な「リチャード三世」は初期シェイクスピア劇の最高傑作。喜劇「間違いの喜劇」も人気を博します。
しかし1692年から黒死病が大流行 (2019-2021年のコロナウイルスと同じ状況になったのです) 。
シェイクスピアは大都会ロンドンを離れて田舎に避難します。
でも避難先は妻子の待つ故郷ではなかったようです。どこにいたのでしょうか?
しかしながら、この数年間の田舎暮らしで、「ヴィーナスとアドニース」などの物語詩を出版してベストセラーになります。英詩世界の最高傑作とも呼ばれるようになるソネットの執筆をも開始。最終的には154編もの数にのぼるソネット集が描かれることになるのです。
猖獗を極めた伝染病が1694年に収束すると、宮内大臣ハドソン卿による劇団が再び結成されて、シェイクスピアは劇場へと返り咲きます。ハドソン卿というパトロンを得て。
それから十年ほどがシェイクスピア創作の全盛期。現代でも絶えず上演される傑作群の数々を次々と発表します。
シェイクスピア全盛期
シェイクスピアは卿に劇場を任されて、名悲劇役者リチャード・バーベッジや名道化役にして喜劇役者のウィリアム・ケンプなどの名優を手駒として、創作力の翼を広げてゆくのです。
史劇「ヘンリー四世」、喜劇「恋の骨折り損」「夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」「ウィンザーの陽気な女房たち」「から騒ぎ」「お気に召すまま」に悲劇「ロメオとジュリエット」。
やがてシェイクスピアの劇場として知られることになるグローブ座が1599年に建てられます。
シェイクスピア最高の喜劇と呼ばれる「十二夜」も執筆され、グローブ座においてエリザベス女王の御前で「リチャード二世」が上演され、シェイクスピアの名声は頂点を極めます。
史劇は「ジョン王」や「ヘンリー五世」を経て、悲劇的傾向を極めた「ジュリアス・シーザー」より悲劇的世界へと傾倒してゆくのです。
1599年より「ハムレット」が書かれますが、1603年にパトロンのエリザベス女王が逝去。「オセロー」が書かれたのはこの頃で、シェイクスピアはカソリック教の新王ジェームス一世のお抱えとなり、劇団の名も、宮内大臣所属劇団から国王所属劇団と改められるのです。
シェイクスピアも作風も、エリザベス時代とは違ったものとなります。
暗くて深い「リア王」や「アテネのタイモン」、「アンソニーとクレオパトラ」そして悲劇作品の頂点「マクベス」に至ります。
シェイクスピア後期作品と晩年
四大悲劇より後のシェイクスピアは、現実主義的悲劇を離れて、魔法の世界、悲劇と喜劇が混在するハッピーエンドにも悲劇的カタルシスにも至らない、問題提起のみで解決が提示されない複雑な劇の創作に終始、シェイクスピアの人間不信時代とも言えます。
書かれたのはロマンス劇とも問題劇とも呼ばれる不思議な作品群。
「終わりよければ全てよし」「尺には尺を」「冬物語」「シンベリン」そして「テンペスト」などです。
「テンペスト」を書き終えたシェイクスピアは、史劇「全て真実 (エドワード八世)」を後継者ジョン・フレッチャー (1579-1625) と共作。しかしながら1613年、同作を上演中にシェイクスピアが長年、活躍の場としたグローブ座が火災で全焼。
シェイクスピアは引退を決意、田舎に二十年も顔を合わせることなく置き去りにしていた八歳年上の妻アンが住むストラトフォードに帰ります。
筆を折ったシェイクスピアが故郷のストラトフォードに葬られたのは、引退して三年の後の1616年でした。
日本史で言えば、豊臣秀吉が天下人となった桃山時代とシェイクスピアの劇作家としての活動人生は綺麗に重なり合い、豊臣家が滅ぼされた翌年に亡くなっています。
関ヶ原の戦いの数年の後にエリザベス女王が亡くなり、シェイクスピアの人生が大きく変わったことにも奇妙な偶然を感じますね。
スペインのセルバンテスとも同時代人。イタリアではモンテヴェルディが世界最初のオペラを書いたのもシェイクスピアの晩年です。
映画 「シェイクスピアの庭」(2018)
シェイクスピアの生涯には謎が多いのですが、故郷に帰りついたシェイクスピアの人生の最後の三年間を映画にした作品があります。
シェイクスピア俳優ケネス・ブラナー監督作品の 「All is true」です。邦題は「シェイクスピアの庭」。
映画は二十年以上も家庭を顧みずにいた夫であり父親でもあるシェイクスピアと再開した家族との確執がメインテーマ。
最愛の息子は幼くして死んでいて、成人した娘たちも人生の危機に直面しているという物語。
家族とのドロドロした愛憎ドラマなので楽しい映画であるとは言えませんが、「夏の夜の夢」や「テンペスト」のセリフが効果的に家族によって語られて、シェイクスピア劇に精通していると微笑ましく思えます。
映画の最後、家族のための遺言書を書き上げたシェイクスピアは息を引き取り、遺された家族はシェイクスピアが書いた最も美しい哀悼の歌を三人で読み上げます。
ロマンス劇と呼ばれる「シンベリン」からの有名な歌。
映画はこの歌で締めくくられます。とても美しい歌です。気に入りました。
全ては塵に帰るという創世記の言葉に通じる、苦難の人生を終えたものへの慰めの言葉。
Fear no more
「シンベリン」第四幕、男装していた王女イモージョンが死んでしまったと、彼女の正体を知らない実の兄たちがこの歌をフィディーリという偽名のままの妹に捧げるのです。「シンベリン」の中で最も美しい場面。
実はこの歌のことを学生時代にある漫画を通じて知りました。何百年も主人のもはや帰らぬ墓を守り続けていた、感情を持ったロボットの王女を悼む場面。
第三聯と第四聯が含まれていないので、訳してみます。
「シンベリン」は、悲劇「オセロー」と「マクベス」と「リア王」の悲劇要素を全て足して、三で割ったような不思議な劇です。
邪悪な王妃はマクベス夫人に似ていて、純真なイモージョンはコーディリアの分身のよう。悪人ヤーキモーと信じすぎるリーオネータスの二人は、イアーゴーとオセローのコンビに似ていなくもない。
これだけ色々詰め込むとマンネリズムを感じさせ、だからなのか、最後の第五幕は雷神ジュピターを登場させて解決させるというシェイクスピアらしからぬ劇の終わらせ方をしています。
ヴィクトリア英国の劇作家バーナード・ショウは最終幕を失敗であるとして、改訂版を書いているほど。My fair ladyの作者です。
ですのでマンネリズムの「ロマンス劇」という分類の上に「問題劇」というレッテルさえ貼られて、「シンベリン」はシェイクスピア作品の中で、現在では最も上演機会の少ない作品。
ですが、シェイクスピアの書いた最も美しい哀歌が歌われるのはこのロマンス劇。
第二幕には、シューベルトなどの作曲家に音楽を付けられた、美しい「聞け聞け、ひばり」の歌もある。イモージョンに横恋慕するクロートンという邪悪な王妃の連れ子によって歌われるのが、なんとも滑稽なのですが。
劇中のセリフはあまりに美しい言葉が連ねられているのに、劇としてはどこか破綻を来しているという問題劇が、シェイクスピア晩年の「ロマンス劇」群。
「シンベリン」はその代表ですね。
マクベスやリア王と言った、人生の深淵と陰に光を当てたような悲劇を書き上げた後のシェイクスピアは、何を思っていたのでしょうか?
「もう人生のゴタゴタにはうんざりだ」と生きることに疲れていたのかもしれません。そんな感慨が「シンベリン」の美しい言葉に溢れ出しているかのようです。
この音読するだけでも美しい歌詞に付けられた音楽はたくさんあります。
上記の映画のエンディングソング同様に、哀感がしみじみと味わえるクィルターとフィンチの音楽は素晴らしいですね。
映画「シェイクスピアの庭」からの言葉
遠い遠いブリテン人がローマ人と戦っていた頃の、つまり伝説のアーサー王の頃の物語が「シンベリン」。
あまりに古すぎて、どんな悲劇ももはや伝説、そうした舞台ゆえにロマンス劇と呼ばれるのです。中世騎士物語に通じる悲しい歴史物語。リア王やマクベスはどんなに古くても、良い舞台で見れば、今現代に書かれたようなリアルな物語として蘇りますが、「シンベリン」では感情移入し難い。
そんな後期シェイクスピア劇は、きっとあまりに生々しい悲劇に辟易した、人生に疲れた老シェイクスピアのような人にはピッタリなのかも。
Fear no more… もう心配しなくても、思い悩まなくても、怖がらなくてもいいよ。
人生からの休息を求める人のための慰めの歌なのかもしれません。