19世紀ベルリンの誕生日プレゼント:メンデルスゾーン家の場合
「メンコン」と言えば、世界三大ヴァイオリン協奏曲。
モツレク、ハルサイ、ブル8、チャイ5、ブラ3、ドボコン,ラフ2、ショスタコなど、日本のクラシック音楽界は訳のわからない言葉でいっぱいです。
英語では Jargon と呼ばれて、内輪の人にしかわからない言葉。隠語とも訳されますね。
長い単語を縮めてしまう日本語の造語力は世界的に見てもユニークなものです。
メンコンはメンデルスゾーン・コンチェルトの短縮形。
ドイツ初期ロマン派の大作曲家フェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn 1809-1847) のホ短調のヴァイオリン協奏曲は、ヴァイオリンのために書かれた音楽のなかでも、世界で最も美しい音楽のひとつ。
メンデルスゾーンのコンチェルト(協奏曲)には他にも二曲のピアノ協奏曲がありますが、メンコンの陰に隠れてほとんど演奏されません。
また、知られざるヴァイオリン協奏曲も一曲あります。
メンデルスゾーンが13歳の頃に作曲した作品のことです。
存在はメンデルスゾーンの死後すぐから知られていましたが、演奏されるようになったのは第二次大戦の後のこと。
あまりにメンコンが素晴らしすぎるので、誰も演奏しようとしなかった不遇な曲ですが、作曲者メンデルスゾーンには極めて思い出深い曲でした。
神童13歳の作品
フェリックス・メンデルスゾーンは母親レアからピアノを教わり、クレメンティの弟子ルードヴィヒ・ベルガーについて、幼くしてピアノ奏法を極めた神童でした。
ヴァイオリン演奏を始めたのは12歳の1821年から。
既に19歳にして名演奏家としての名声を確立していた、8歳年上のエドゥアルト・リーツ(Eduard Rietz 1802-1832)が教師として選ばれます。
エドゥアルトの指導の下、フェリックスは翌年の1822年までにヴァイオリン奏法を完璧にマスターして、あっという間に
を作曲するほどでした。
両曲ともエドゥアルトに献呈されています。
既にほぼ完ぺきなピアノ演奏技術を身に着けていたとはいえ、どちらもフェリックス・メンデルスゾーン13歳(14歳?)の頃の作品。1822年か1823年の作品。
両曲の出来を知ると、なんという少年なのでしょうかと呆れてしまいます。
現在でいえば中学一年生。
でもただの中学一年生ではありません。
メンデルスゾーン少年はセレブの中のセレブでした。
自宅の庭園があまりに広くて自宅内で迷子になるようなお話が少女漫画などによく出てきますが、それをノンフィクションで実現していたのが、ドイツ有数のユダヤ大銀行の長男だったフェリックス。
金に糸目をつけない英才教育の成果とはいえ、13歳のフェリックスは間違いなく大天才でした。
祖父のモーゼスは高名なユダヤ教哲学者でした。
天才は隔世遺伝をすると言われていますが、それを地で行ったのがメンデルスゾーンの子供たち(お姉さんのファニーも大天才でした)。
モーツァルトも最初のイタリア旅行に13・14歳の頃に赴いていて、大傑作「ザルツブルク交響曲K.136-138」を書き上げていますが、この時点における音楽的才能はメンデルスゾーンの方が上であるとよく思うのです。
でも若い頃に完成されすぎてしまっていたメンデルスゾーンは10代の頃以上の作品を超えるものを後年書けなかったのに対して、モーツァルトは更なる高みへと上ってゆくところが違うのですが。
さて13歳の少年の作品、第二楽章のしっとりとした味わいも良いですが、メンデルスゾーンのニ短調協奏曲はフィナーレが大傑作。
「メンコン」ホ短調のフィナーレの舞曲を先取りしたような踊るヴァイオリン楽章です。
またモーツァルトと比較して悪いですが、メンデルスゾーンにはモーツァルトが書いたような不滅のアンダンテやアダージョは書けなかった。
やはり憂いのための音楽を書いてメランコリーを夢見る必要もなかった出自のためでしょう。
だからなのでしょうか、生きていることが楽しくて仕方がないような音楽を書くことにメンデルスゾーンは誰よりも優れていました。
シューマンやショパンやリストには書けなかった音楽。
メンデルスゾーンの最良の音楽は「真夏の夜の夢」の妖精パックを描写した「スケルツォ」みたいな飛び跳ねる音楽です。
協奏曲のダンシングフィナーレは、まさにメンデルスゾーンの得意中の得意だった音楽です。
もちろん第一楽章や第二楽章にも聴くべきものはありますが、白眉はフィナーレです。
全曲聴かれたい方は、初演者のメニューインの演奏をどうぞ。
エドゥアルト・リーツ(1802-1832)
フェリックスにヴァイオリンを教えたエドゥアルトは、プロイセン宮廷楽団のヴァイオリン奏者である父ヨハン・フリードリヒから幼くしてヴァイオリンを習い、作曲家カール・ツェルターが総裁を務めるベルリンジングアカデミーで音楽教育を極めます。
若くして優れたヴァイオリニストとして頭角を現し、また教師として子供のメンデルスゾーンの英才教育の一環をも担います。
エドゥアルトは健康問題から宮廷楽団の職を辞めざるを得なくなりますが、音楽教師としての仕事は続けて、やがては独自に管弦楽団を立ち上げて指揮者にも就任。
エドゥアルト・リーツとフェリックス・メンデルスゾーンは師弟関係を超えて親友となり、メンデルスゾーンが16歳の時に書き上げた大傑作「弦楽八重奏曲」はリーツに献呈されます。
作品完成は1825年10月15日。
エドゥアルトの誕生日は三日後の10月17日でした。
誕生日に間に合うようにフェリックスは作曲して、リーツ先生に感謝を込めて誕生日プレゼントとして贈ったのでした。
1825年の弦楽八重奏曲変ホ長調は、メンデルスゾーン全作品の中でも最高傑作の一つ。
二組の弦楽四重奏団のために書かれたというのが新機軸。
優れた弦楽四重奏団が二組集まると、八人で演奏できるという作品です。
第一楽章冒頭のメロディは、ほぼ3オクターヴにも及ぶユニークな上昇系メロディにゆえに耳に残ります。
でも大げさすぎないのは、独特のロマンが古典的な形式の枠組みを壊すこともなく込められているのです。
第一楽章展開部は静けさに包まれますが、哀しくはならないのがメンデルスゾーンらしさ。そうして音楽はだんだん勢いを取り戻して再現部で最初の主題が再現される素晴らしさ!
良い弦楽アンサンブルが演奏すると室内楽の醍醐味を味わえる名作です。
でもこれが16歳の高校生の作品???
メンデルスゾーンってほんとにすごい。
翌年の17歳のときには序曲「真夏の夜の夢」も完成させているし。
管楽器によるハーモニーがあまりにも幻想的な序曲「真夏の夜の夢」は、もしかしたら「メンコン」や「スコットランド交響曲」や後期のオラトリオよりも優れているかもしれない超名作です。
マタイ受難曲の楽譜
メンデルスゾーンのその後の事績として、常に特筆される歴史的な快挙であるバッハ「マタイ受難曲」の復活上演は弦楽八重奏曲作曲の四年後のこと。
上演のきっかけに関して、
と、メンデルスゾーン関連のほぼ全ての文献に書かれていますが、実はその楽譜は、エドゥアルト・リーツが美しい筆跡で書き写したものでした。
メンデルスゾーンの作曲の先生だったベルリンジングアカデミー総裁カール・ツェルター先生から借りた楽譜(バッハ自筆譜?)をベラから依頼を受けたエドゥアルトが書き写したのだそうです。
楽譜は現存していて、イギリスのオックスフォード大学の所有です。遺産を大学に寄贈したのはメンデルスゾーンの孫だということです。
おばあちゃんのプレゼントは
だと書かれていますが、ユダヤ人にとっての偽救世主キリストの生誕祭をユダヤ教徒ベラ・サロモンが祝うわけもないので、これは誤りだと思われます。
誕生日プレゼントとして贈られたというのが正しいと、メンデルスゾーン研究者の星野宏美教授(立教大学)は指摘しているそうです。
わたしは星野説を信奉します。
いずれにせよ、ベラとエドゥアルトはフェリックスに秘密にしておいて「マタイ受難曲」の楽譜をプレゼントしたというわけです。
誕生日プレゼントだったとすれば、エドゥアルトは先の誕生日に弦楽八重奏曲を送ってもらったことへの返礼だったのかも。
バッハの大曲は数百ページに及ぶものです。
一人で手書きでコピーするのは大変な労力。数週間はかかったことでしょう。
音楽の勉強にこれほど役立つことはありませんが。
メンデルスゾーンはおばあちゃんのプレゼントを見て、先生だったエドゥアルトの筆跡にすぐに気が付いたに違いありません。
有名な復活上演を行ったときには、ピアノから弾き振りするメンデルゾーンのすぐ横で、エドゥアルト・リーツがオーケストラのコンサートマスターを務めていたことは当然のことだったことでしょう。
エドゥアルトはバッハの大曲全部を丁寧に書き写した人だったのですから。
エドゥアルト・リーツのその後
マタイ受難曲の記念碑的な復活上演の後、メンデルスゾーンは当時の裕福な家庭の子女の習いに従い、グランドツアーに出かけます。
1829年から1831年にかけてのこと。
ベルリンから旅立って、イギリス、オーストリア、スイス、イタリア…
ああ大金持ちのお坊ちゃんはいいなあ!
そしてグランドツアーを終えて、1832年2月にフランスのパリに立ち寄った時、思いもかけなかったリーツの訃報がフェリックスのもとに届きます。
リーツの死因は結核。
メンデルスゾーンは激しく嘆き悲しみ、家族に深い悲しみを書き綴っています。
享年29歳。
友人への手紙に
と書き、半年後の手紙にも
と親友の死を長く悲しみ続けたのでした。
弦楽五重奏曲作品18
そののち、メンデルスゾーンは数年前に書かれていた「弦楽五重奏曲第一番」作品18の第二楽章メヌエットをエドゥアルトのための追悼のアダージョに差し替えるのでした。
メンデルスゾーンのアダージョは、親友との楽しかった日々を回想する憂いの歌です。
音楽史には追悼音楽がたくさんあり、どれも例外なく名曲です。これほどに想いが込められている音楽はないからです。
未出版だったリーツのために書かれたヴァイオリン協奏曲ニ短調は遺作となりました。
メンデルスゾーンの遺族は「メンコン」ホ短調協奏曲を初演した大ヴァイオリニストのダヴィード(Ferdinand David 1810-1873)に遺作を紹介しますが、ダヴィードはあまり関心を示さずに、作品はお蔵入りとなります。
そして20世紀も半ばを過ぎた1952年になってようやく、ユダヤ人ヴァイオリニストのユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin 1911-1999)によって初演されます。
ニ短調協奏曲は、ヴァイオリンをたった一年習っただけで書き上げたメンデルスゾーンの末恐ろしい才能が結実した名作ですが、「メンコン」があまりにも有名で名作過ぎて、いまもなお上演機会は限られたままに甘んじています。
でも13歳のメンデルスゾーンの作品は、エドゥアルト・リーツは良い先生だったのだなと心から敬意を表したくなる佳品です。
ヴァイオリン習いたての頃の協奏曲に、ハッピーバースディのための書かれた素敵な贈り物だった八重奏曲。
お祝いのための音楽や記念品はいつの時代にも素晴らしいものですね。
弦楽八重奏曲作品20
エドゥアルトの死後、メンデルスゾーンは指揮者として大活躍します。
初演に失敗して以来、誰も演奏しようとはしなかったベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の40年ぶりの復活上演(三大ヴァイオリン協奏曲の一つとして愛されるようになります)、シューベルトの大ハ長調交響曲の世界初演など、過去の偉大な作品をコンサートのプログラムの中核に組むという新しい音楽鑑賞の定型を確立します。
優れたピアニストだったメンデルスゾーンは、バッハの「半音階的幻想曲とフーガ」BWV903をコンサートホールでロマンティックな解釈で演奏して、ロマン派ピアノ音楽の中にバッハのチェンバロ音楽をピアノ曲として位置付けて、またオルガン奏者としても、19世紀で誰よりも早くに「トッカータとフーガニ短調」BWV565を演奏した人物でした。
大指揮者メンデルスゾーンは作曲も行いながら、演奏活動も精力的に行い、ヨーロッパ中を飛び回りました。
メンデルスゾーンの大活躍はまさに八面六臂。
わずか38年で生涯を終えてしまったのも過労死のためといわれると、そうだろうと頷いてしまうほどに働き続けた一生でした。
大金持ちなので、何もしなくても一生遊んで暮らしてゆけた人だったのに仕事中毒だったメンデルスゾーン。
作曲でもメンデルスゾーン作品は現在において、オーケストラや室内楽にはなくてはならないレパートリーです。
特に若き日の大傑作、エドゥアルトに捧げられた弦楽八重奏曲は弦楽合奏の醍醐味を最高に味わえる名作なのでフルオーケストラにして演奏されることもあります。
有名な例では、メンデルスゾーンの交響音楽の指揮を得意としたイタリアのアルトゥーロ・トスカニーニとNBC交響楽団の演奏がいまでも圧巻の名演です。
コントラバスパートが増えて低弦の厚みが増して、管楽器のカラフルな響きはメンデルスゾーンの新作交響曲みたいにも思えるほど。
ヴィルチュオーソ集団のNBC交響楽団の鉄壁のアンサンブル!
寸分の狂いもなくブレンドされる分厚いハーモニーの妙技は、この曲が新しいメンデルスゾーンの交響曲であるかのような錯覚を覚えさせるほど。
イタリアの大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(プッチーニの「ラ・ボエーム」「トゥーランドット」の初演指揮者)はメンデルスゾーンが大好きだったのです。
トスカニーニが指揮したメンデルスゾーンの音楽はどれも22世紀になってもメンデルスゾーン最良の名演として記憶されているであろう超名演です。
第三楽章はメンデルスゾーンが最も得意としたスケルツォ。
古典派の教養に19世紀風ロマン派情緒を足して二つに割ると出てくるのがメンデルスゾーンの作風。
まさにその最良の実例のような音楽。
エドゥアルト・リーツは英語や日本語ウィキペディアに項目も存在しない不遇な人なのですが(ドイツ語ウィキペディアには項目があります)、「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」や「ヴァイオリンソナタヘ短調」や「弦楽八重奏曲」の作曲の傍にいた人として、わたしには忘れがたい名前です。
名曲誕生の陰には必ず誰かがいる。
決して作曲家一人ではないのです。
作品は誰かのために書かれている。
創作のための最大の原動力は「誰かのために」という思い。
モーツァルトやショパンの作品だって同じです。
名曲はきっと誰か具体的な人のために書かれている。
バッハやヘンデルやハイドンみたいに人間を超えた「神様のために」という場合もありますが(笑)
作品の背景にいる人たちのことを想えば、ただのニ短調協奏曲も、先生だったエドゥアルト・リーツという思い出のために永遠に記憶されてゆくものです。
人は記憶されていないといけないのです。
忘れられたら本当に世界から消滅してしまう。
わたしはこうして古い音楽史の本を読んで、彼らが生きていたことを描き起こすことに喜びを見出しています。
こうして忘れられている誰かのことを想うと楽しくなります。
もちろん私の周りで一緒に生きてくれている人のことの方が自分には大事だけれども、ある作品に接して、その作品は誰かのために書かれたと知ると、心が温かくなるのです。
凡庸な音楽でも、この思いがあれば名作として記憶されるのかもしれない。
同工異曲で大量生産された作品に感動できないのはそのためです。
誰かのために。
これがないとどんなに素敵な音も、ただの物理的な音響でしかない。
書かれた言葉も同じ。
優れた優れた創作は決して一人だけでは生まれないのです。
AI創作がどれほどに巧みだとしても、結局はわたしたちに心には共鳴しない最大の理由です。
そしてハッピーバースデーの贈り物ほどに尊いものはないかもしれない。
という思いが込められているからです。
そういう思いを込めて、わたしも友人の誕生日を祝いたい。
という他人事ではなく、
という自分のためにも感謝を込めて祝いたい。
次に作るバースデーケーキにはそんな想いを込めてみたい。
大切な誰かは、いつまでも生きていてくれはしないのだから…
メンデルスゾーンがバッハの超大曲「マタイ受難曲」の百年ぶりの復活上演を行おうとしたとき、メンデルスゾーンの先生の海千山千のカール・ツェルターは反対しましたが、それを押し切ってベルリンの音楽界で最も権力を持っていたツェルターの全面支持を勝ち得たのも、きっとリーツのような人のためにバッハを蘇らせてみたいという熱い思いがあってことだったのだと思います。
まとめ:エドゥアルト・リーツのために書かれたフェリックス・メンデルスゾーンの音楽
ヴァイオリンソナタヘ短調作品4(1823年): 献呈
ヴァイオリン協奏曲ニ短調<遺作>(1823年): 献呈
23歳のエドゥアルトの誕生日のための弦楽八重奏曲変ホ長調作品20(1825年): 献呈
弦楽五重奏曲作品18:追悼の第二楽章(1832年)
メンデルスゾーン(1809年生まれ)が同世代のショパン(1810年生まれ)やシューマン(1810年生まれ)やリスト(1811年生まれ)やヴァーグナー(1813年生まれ)ほどには人気がないことをいつも残念に思っています。
そういう思いを込めてのメンデルスゾーン推しの記事でした。もっとメンデルスゾーンのことが知られてほしいです。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。