英語の言葉遊び(17):「スナークを求めて」その八、最終回と考察
八回も続けて書いてきた物語詩 The Hunting of the Snark (1876) の最終回です。
「スナークとは何か」というミステリーを物語詩は語り継いできましたが、何であるかを解き明かすことなく、物語は唐突に終わりを告げます。
スナークとは何であるかに作者は答えを与えてくれません。
でも、だからといってがっかりすることもないのです。
「スナークとは何だったのか」の答えは各人で考えればいいもので、なんだっていいのですから。
物語の核心はそこに至るまでの過程にあります。
必死になって追い求めて、挙句の果てに最後まで手に入らないもの。
そういうものは人生にたくさんあるものです。
どんなに追いかけても、どうしても手に入れることのできないもの。
それがスナークなのでしょう。
文学はエニグマ
フランス象徴派の詩人ステファヌ・マラルメ (1842-1898) は
といったそうです。
Enigma エニグマとは謎という意味。
またマラルメは次のような言葉も残しています。
わたしはこのマラルメの言葉が好き。
詩の中で「思想」を必死に語ろうとするような詩人よりも、詩なんてものは言葉遊び、知的な娯楽なのだという詩人のほうが好きなのです。
ですが、日本語ではなかなか言葉遊びに徹して詩を書く詩人はあまりいません。
徹すると真面目な文学者とみなしてくれないのが、日本文学の伝統。
駄洒落や川柳、狂歌は大人気。そういう言葉遊びを楽しむ人はいたわけですが、そういう詩に長けた人で大詩人と呼ばれた人はいなかったのは残念至極です。
漱石の「吾輩は猫である」は遊び心満載の大傑作ですが、晩年の暗くて深刻で遊びこごろに乏しい作品よりも優れているとは評価されません。
日本語の詩はより思想を求めていたと言えるでしょうか。
言葉で遊んだ大詩人は西洋にはたくさんいました。
ドイツのヘルマン・ヘッセ (1877-1962) は、子供の頃に「言葉の魔術師」になりたいと、詩人になることを生涯の願望としました。
詩人としてよりも、むしろ小説家として知られていますが、ヘッセは言葉を弄ぶことを生涯の目的とした人でした。ドイツ文学は思想性の深さで知られますが、やはり詩は音の遊びなのです。
最晩年の「ガラス玉演技:英名Glass Bead Game」はまさに言葉のゲームの小説でした。
ヘッセの先人であるイギリスのルイス・キャロル (1832-1898) は人生をゲームの探求に費やした人でした。
「不思議の国のアリス」の物語にはカードゲームやなぞ解きがたくさん隠されていて、「鏡の国のアリス」の前文にあるとおりに、物語はチェスのルールに従って展開されてゆくのです。
キャロルはわたしがこうして語っている「スナーク」においても、あるゲームに基づいて物語を展開していると気が付かされたのは、次のNoteの記事からです。
わたしはビリヤードに親しんだことがないので全く分からなかったのですが(記事を読んだ後に勉強しました笑)、「スナーク」という物語詩の発想の源はナインボールのビリヤードだったのです。
月草さんの考察は素晴らしいですね。
ボールの数だけ登場人物がいて、Nine Ballsだから、皆がBで始まる名前を与えられていていたのでした。登場人物の数はビリヤードのゲームに従うならば、九人と一匹。ビーバーは番号なしの白いボールでしょう。
Bellman
Boots,
A Maker of Bonnets and Hoods (このキャラは詩文からは
Billiard Marker
Baker
Barrister
Butcher
Beaver
Banker
Broker
9人(正確には9人と一匹)の登場人物たちはボールの分身。
でもゲームは途中で中断したようで、だからほとんど出番のなかった人もました。
物語の発想がビリヤードならば、物語で何度も言及されてきた、恐るべき Boojum がなんであるのか、なんとなくわかってしまう。
ビリヤード的には第八のボールを突いた時に、自分のボールがビリヤード台の四隅にある穴であるポケットに落ちてしまって失格になってゲームエンド。
だからBoo!のブージャムでしょう。英語ではしばしば期待外れなことが起こると「ブーイング」するのです。
子供たちはよくふざけてBOO!って言い合います。
ビリヤードはビリヤード審判役が登場人物にいるばかりで、「不思議の国のアリス」のカードゲームほどにも、ビリヤードは物語には関わり合いのないもの。
やはりスナークは謎のままで、ブージャムもまた謎でいいのでしょう。
人は未知なものが大好き。
見知らぬものに好奇心を覚えて、知りたいと思うことに最も興奮します。物語の中で推理小説が最も人気なのも、未知がテーマだから。
でも答えがわかってしまうと再読したいと思える作品が少ないのが、推理小説の欠点。最近の推理小説はなぞ解きよりも、犯人の動機に焦点を置くものが多かったりもします。
謎解きには興味深い世界設定や人物設定が大事。
人は隠し絵を見て、隠されたものを見つける喜びに通じます。
大作曲家バッハの作品の多くには、音の組み合わせによるいろんな記号が隠されています。例えば3は三位一体、上昇と下降形のメロディはしばしば十字架に準えられたりします。バッハの同時代人ヘンデルの作品には政治的暗示が作曲動機そのものです。
ですが、作者が意図したものが芸術作品においては全てではないのです。
そんなものがわからなくても、隠し絵は隠された意味を理解しなくても鑑賞できるし、バッハの音楽も宗教的仄めかしを理解しないで聞いても構わないし、数多くの詩もまた、隠されたメタファーを知らないまま読んでいたりもします。
そういう作者が仄めかしたり隠したりしたものから離れても、作品は別の読み方ができれば名作なのですから。
また大切なのは、物語は答えを与えてくれるものではなく、問いを提示してくれるものだということです。
ある物語を読んで、物語が中途半端で終わっていると不満を述べ立てる人が数多くいますが、物語の目的とは、登場人物たちがゴールインすることではなく、そのゲームのプロセスで様々な問いかけをして、読者に考えさせることこそが物語の本質です。
ボーイ・ミーツ・ガールな物語で、最後に二人がハッピーエンドになる必要はなく、その物語の中で二人が何を体験して何を我々がそこから読み取るかこそが物語を読む価値。
恋が成就しようが、悲恋に終わろうが、中途半端のままであっても、それでもいいのです。
例えば、村上春樹の小説にはいつも結論が欠如しているようで、物語的には完結していなくて最後が不完全燃焼な印象を与えますが(「ねじまき鳥」や短編集など)でもそれこそがマラルメの言うところのエニグマ。
だからこそ、意味深いのでは。
もうひとこと付け足しておくと、作品は発表された瞬間、作者の手を離れて、読者の解釈にゆだねられて、作者の意図したことがなんであろうと、読み手の恣意に物語の理解はゆだねられるものです。
だから「スナーク」がビリヤードゲームの展開から翻案されたものであろうと、スナークはいつまでも謎のままであり、Bの字から始まる、個性豊かなノンセンスな登場人物たちは愉快。
前回紹介したように後の世ではミュージカルにさえなり、21世紀には新解釈によるスナークの正体を詩文の独自解釈から考え出した新しい絵本が出版されるほど。
アリスを読んだヴィクトリア時代の子供たちは、堅苦しい道徳が社会的に支配していた空気の中で大人に厳しく躾けられていましたが、キャロルはそうした時代の礼儀作法に反する人物たちを作品中にナンセンスだというカモフラージュで配することで社会を風刺していたのですが、わたし個人としては、キャロルの詩文は物語の突拍子なノンセンスな発想や展開よりも(常識はずれな言動や比喩など)英語の言葉の面白さが存分に楽しめることが好きなので、何度読んでも愉しいですね。
英語詩としてリズムと音の面白さを最高に味わえるのが素晴らしい。
スナークやアリスは文芸トリックアートなのです。
長い前書きでしたが、さて詩を読んでみましょうか。第八部は短いです。
Fit the Eighth: The Vanishing
第八部:消滅
「スナーク」の二次創作:後日譚
こうして「スナーク」は謎に包まれたまま、終わります。
求めていたものは知ってはならないものだったとか(人生には知らなければよかった何でことが多々あります)などという解釈も成り立ちます。
わたしはそうなのじゃないかなと思います。
人生は航海で探し求めて最後に手に入れたと思った瞬間、人生は終わってしまう。そんな結末の暗示とも寓話とも読み取れます。
いずれにせよ、ルイス・キャロルの作品は作者の死後も、児童文学の二冊のアリスに次ぐ作品として読み継がれて、舞台作品になったりしてきたのでした。
デイヴィッド・エリオットの絵本
「その二」の投稿で紹介した絵本には、ブージャムの後に起きた後日譚と、作者独自のスナークの正体が書かれていますが、この本は日本語訳されていないので、少しだけ紹介します。
面白いと思われた方は大変重量のある、この大型本を購入されるなり、図書館で見つけられるなりして楽しんでみてください。
英語は古風な19世紀のルイスキャロルのスタイルを模していて、読みづらいかもしれませんが、とても楽しい読み物です。
220ページにも及ぶカラフルな水彩イラスト付きの大型絵本には物語詩の後日談が創作されていて、さらには詩の世界の難解な箇所の自由でユーモアあふれる解説が載せられています。
例えば、第一部でパン焼きの紹介に
とありますが、本によっては HyaenasはHyenasとも綴られます。
いずれもアフリカなどで腐肉を漁ることで知られる野生犬のハイエナの複数形の単語ですが、aeはæという一語のラテン文字で描かれることもあるようにフランス語から英語になった言葉。
イギリス英語 Common wealth English では
Aesthetics
Achaelogy
Aeroplane
Encyclopaedia
なんて綴りが日常的に使われます。
さて、イギリスなんかに絶対生息していないハイエナがなんでこんな詩に出てくるかと言えば、キャロルの生きている時代に産業革命の副産物として、いろんな土地が掘り起こされて、おかげでさまざまな地質学的大発見があったのです。
恐竜を含めた古生物の化石などが出てきたりしましたが、当初はノアの方舟の時代の大洪水で死んだ動物たちの骨が出てきたと信じられたのです。1821年に発掘されたイギリスの北ヨークシャーのカークデール洞窟からは大量のハイエナやクマやカバなど、イギリスには生息しない動物たちの骨が大量に出土して、これがルイスキャロルのインスピレーションになったとされています。
またBathing Machineは「Disrobing Carriage」と呼ばれていると紹介されるなど、ヴィクトリア文化の百科事典のような詳細な解説がついています。
第七部のBandersnatch は、オーストラリアのタスマニアン・タイガー Thylacine (フクロオオカミ) がモデルなのだとか。
ジャブジャブ鳥の発想もまた、ニュージーランドの絶滅した巨鳥モアがらイメージされたことも疑いないことでしょう。ニュージーランドもオーストラリアも当時の大英帝国の一部で、その気になればルイス・キャロルも訪れることができた憧れの土地だったはずですから。
さて、絵本の二次創作物語では、スナークは語源らしいスネーク (蛇) ではなく、巨大化するスネイル (カタツムリ) として語られ、捕獲されると巨大化してブージャムとなるという解釈でした。
なかなか愉快な解釈で後日譚も読み応えありますが、紹介するには長すぎます。機会があればご自身で手に取られて、素晴らしい物語の世界を堪能なさってください。
物語詩では出番のなかったBootsが書き残した手記という体裁。
ルイスキャロルの物語詩「スナーク」への最高のオマージュだと思います。
それでは八回も気長にお付き合いしてくださった皆様、読了ありがとうございました。
わたしとしては関心を持っていたヴィクトリア時代への知見を深めることができて、さらには最高の英語の言葉遊びを対訳する事で存分に味わうことができました。
詩は小説よりも何度も読み返しやすいのがいいですね。私は何度も暗唱しました。
このスナーク探しの心構えは、何かを探し求める時に役立ちそうですね。
指抜きは相手の好きそうなものの象徴、フォークは創意工夫のための道具や手段、そして笑顔はポジティブ思考に不可欠なもの。
こんな合言葉を作って、何かを追い求めてゆく。
あらゆる探検や探索の心得になるのかも。
わたしもまた、自分にとってもスナークをいつまでも探してゆきたいものです。