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ジェンダーバイナリーな時代の音楽:知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(7):前編

ジェンダーバイナリーの時代

日本はいまもなお、女性の社会的地位が世界で最も低い国のひとつなので、

女性はこうあるべき
男性はこうあるべき

という社会的な圧力が色濃く残っている社会であると思います。

女のくせに生意気だ!

などと心の中で思ってしまう年配男性がどれほどに多いことか!

そして

男なのにそんなこともできないの?

男性は生物学的に
筋力を女性よりもつけやすいのですが
だからといってすべての男性が
力持ちであるはずもありません

とふと口にしてしまう女性もいないはずがありません。

こういう伝統的な男女の固定的な役割や行動の違いを厳格に分ける考え方を

Gender Binary

男女の社会的役割分担があること

と呼び表します。

男女の権利などの較差ランキングでは
日本は世界で最低に近い125位
女性リーダーの少なさが決定的
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/backstories/2538/

昭和の昔には

男だから泣いちゃダメ
女の子はおしとやかに

などと誰もが自然に口にしたものでした。

けれども21世紀の現代の多くの国はジェンダーレスを標榜しています。

女子がラグビーやボクシングや相撲をするなんて、半世紀前には考えられなかったけれども、いまではごく当たり前(相撲は当たり前でないかも笑)。

ジェンダーレスな時代!
女子ラグビーは世界中で大人気

男の子が編み物に夢中になってもいいだろうし、父親が子供のおむつを替えることもごく普通なこと。外国では。日本はどうかは知らないのですが。

女性だけが担わされていた家事や子育ても男女均等の共同作業となり、女性が社会的に男性のように活動できるようになったことは、社会における固定された役割を特定の性が演じなくてもよいという考え方が社会全体に浸透したからであるといえるでしょうか。

21世紀になって、女性は家庭を守るべきという考え方は時代錯誤も甚だしいと誰もが眉を顰めるわけなのですが、家事は女性だけの仕事ではないという考え方は実はそれほどに新しいものではありません。

女性参政権が女性に初めて与えられたのは19世紀の終わりの1893年のニュージーランドでの出来事でした。

女性の誰もが教育を受けられるようになったのも、同じ頃のこと。

歴史的に男女の社会的役割の明確な線引きは世界中のどこにでも存在していたのです。

歴史は男女の社会的役割が固定されていたジェンダーバイナリーな時代から、男女の社会的役割や行動が自由なジェンダーレスな時代へと移り変わろうとしています。

作曲家は男性の仕事、女性は家庭での演奏ならば許される!

さて、ここで19世紀の欧州の音楽文化に転じると、女性音楽家の悲劇にわたしの関心は向かいます。

つまり、ヨーロッパ中がジェンダーバイナリーだった時代のお話です。

そこで取り上げたいのが、19世紀の女流音楽家として最も高名だったドイツの大作曲家ローベルト・シューマンの細君のクララ(クラーラ)・シューマンです。

わたしはまだ目を通していませんが、最近日本で子供でも読めるという本格的(らしい)伝記が出版されていて、そのラインナップにクララが含まれていたことには驚きました。

また漫画版伝記などもあります。

これまで何度か映画化されていて、ユーロ通貨登場以前のドイツのお札の肖像にも選ばれていたので、19世紀の偉大な音楽家の代表と言えるでしょう。

かのように、クララは世界的にも大人気。

けれども、大作曲家ローベルト・シューマンの細君クララが女流作曲家として注目されるようになったのは、20世紀も後半のことでした。

20歳のクララ

クララ・シューマンは歴史に名を残すほどに作曲家なのか?

ドイツロマン派音楽の全てを体現していた、クララの夫である大作曲家ローベルト・シューマンは大変に通好みの作曲家なので、一般的人気はあまり高いとは言えません。

それでも少しでもクラシック音楽が好きな人は、クララとシューマンの大恋愛のことを知っているものです。

大恋愛の末に、結婚に反対する父親フリードリヒと裁判までして最終的に結ばれた二人!

まさにロマンティック💛

でも幸せな時代は長く続かず、その後、梅毒末期症状による精神錯乱と肉体的機能の喪失の果てにボロボロになり果てて精神病院で死んでいったローベルトを失ったクララの傍には、まだ20代前半の金髪碧眼の内気な美青年だったのちの大作曲家ヨハネス・ブラームスがいました。

こうして生涯喪服を着て過ごした未亡人クララはブラームスにプラトニックに愛されながらも、夫ローベルトの芸術を後世に伝える使徒として数多くの子供たちと孫たちに囲まれながら長寿を全うしました!

というのがクララ・シューマンの世間的な美談物語です。

でもローベルトの死後、黒い喪服に身を包んで長い余生を過ごしたクララはどこまでヨハネスを男性として愛したのでしょうね。

このあたりの考察はもうすでにこれまで数多くの方が言及されていますので、屋上おくを架すことはしたくはありませんが、クララはローベルトとヨハネスに愛された女流音楽家・ミューズとして記憶されています

けれども、この美しい伝記物語ってあまりにジェンダーバイナリーなステレオタイプではありませんか?

クララはローベルトやヨハネスの傍にいたから偉大なのでしょうか?

クララの物語の主役は本当にクララなのでしょうか?

クララの生涯を読み解くと、ジェンダーバイナリーな時代に生きていた哀しい女性の肖像がわたしの脳裏には浮かんでくるのです。

「女は三界に家無し」???

類まれなる音楽的才能を持ちながらも、男性に対して従順であり続けたクララはあの時代においては、ああいう生き方しかできなかったともいえるかもしれません。

神童としてピアノ教師の父親フリードリヒに徹底的に音楽を教え込まれて、父親のパペット(人形)であるかのように、欧州中を演奏旅行した姿は、半世紀ほど昔のヴォルフガング・モーツァルトと父親レオポルトの姿とぴったりと重なり合います。

やがてフリードリヒの弟子ローベルト・シューマンと恋に落ちて、結婚したのちには亭主関白そのものなローベルトに家事と育児を期待されるも、稼げない作曲家の夫のために演奏旅行を繰り返すのでした。

いつでも妊娠していて小さな子供を抱えながら。

生活能力に乏しいローベルトは家庭的には最低の夫でした。

子どもはいくらでもいればいいと言いながらも子育てはせずに、クララが立派な作曲をすれば、女の手による作品だと貶して男である自分の作品の方が偉いと言い出す始末。

ローベルトの死後は幼い子供たちに父親の音楽を伝えて、子どもや孫たちのためにやはり演奏旅行を繰り返して、たくさんのお金を稼いでいました。

クララが子供たちを家政婦に任せて旅行に行くと、ローベルトは酒に溺れました。

けれども、ジェンダーバイナリーな時代に生きたクララはそういう夫を受け入れて愛して、自分の作曲活動をしたくても、ローベルトの面子のために作曲をしないことを選ぶのでした。

クララという人は非常に古い時代の「女性的な」美徳をたくさん持ち合わせていた女性だったのです。

女性である以上、

女性的

であることが何よりも社会的に求められていたのです。

女性的でない振る舞いは社会的に忌避されました。

19世紀の音楽世界では、男女差は決定的なものでした。

そしてその伝統は長く音楽文化を支配してきました。

20世紀の音楽事情

20世紀の終わりまで欧州で最も格式高いオーケストラとされるウィーンフィルでは女性団員は採用されませんでした。

格式あるウィーンフィルの伝統でした。

1960年代のレナード・バーンスタインの教育番組、テレビで全米中継されて大人気だった

「若い人のためのコンサート」

Young People's Concerts

はニューヨークフィルの常任指揮者バーンスタインがNYPを自由自在に操って偉大な古典的音楽作品の秘密を分かりやすく解説するという、歴史的にも最も優れた音楽教育番組でしたが、あの偉大なニューヨークフィルの管弦楽団員はすべて男性でした。

21世紀になってこの番組を見直すとこのような当時の当たり前に気が付いてしまって驚かされます。

現代では男女機会均等どころか、LGBTQの平等を信奉するアメリカでも、半世紀前にはそんな風でした。

女性そのものな楽器!

19世紀には女性がヴァイオリンを弾くことは許されませんでした。

窮屈な姿勢で腕を激しく動かす動作は「女性的」ではないとされたからです。

さらに、丸みを帯びた弦楽器の形態は女性そのものだと見做されていました。

19世紀の男性音楽家にとって、女性の形をしたヴァイオリンを演奏するとは、弓による愛撫であり、結婚なのだと、ツゴイネル・ワイゼンで有名な名ヴァイオリニストのパブロ・サラサーテはいみじくも語っています。

20世紀になってやたら女性弦楽楽器奏者がもてはやされるようになりますが、曲線美を魅力とする造形を誇るヴァイオリンやチェロを多くの男性演奏者は「女性」である弦楽器を弾く女性の姿に違和感を持つこともしばしばでした。

現代でもその形と演奏する姿からチェロを女性とみなす演奏家は後を絶たないし、女性演奏家のヴァイオリンが彼女自身の声だとするならば(彼女が愛する相手の声を鳴らしているのではなく)女性演奏家はナルシストではないのかと宣ったのは20世紀を代表する名ヴァイオリニストのメニューインでした。

19世紀には女性が弦楽器を奏でることは許されなかったのです。

ヴァイオリンをイタリアのクレモナで
世界で最初に発明したのは
絶対に男性でしょう
女性の丸い体系がモデルの楽器
余りに女性的な丸みを持つ弦楽器
腰のふくらみから
お腹のくびれまでそっくり

19世紀において、女性が演奏してもよい数少ない楽器がピアノでした。

家庭の中央に祭壇か王座のように鎮座しているピアノに仕えるのが女性。

父親を頂点に頂く家長制度の時代にふさわしい楽器がピアノ!

ピアノは女性が弾くにふさわしい楽器、というわけです。

19世紀とは、女性のための「ピアノ」の世紀と呼ばれるほどに、家庭にピアノが普及しました。

家庭を守る女性たちの最も徳の高い嗜みがピアノだったのです。

ある意味、そのような女性たちの頂点に位置していたのがクララ・シューマンでした。

19世紀で最も偉大な女性音楽家はクララ。

でも演奏家として

実はクララは、数は少ないにしても作曲もしていました。

当時は演奏家が演奏会で自作を演奏することが求められていたからです。

自作を演奏しない演奏家は失格でした。

だから神童クララはピアノ教師で我が娘のプロデューサーである父親に求められるがままに作曲していたのです。

13歳ごろに書いたとされる『ピアノ協奏曲イ短調』は、名前を伏せあれると女性が作曲した作品とはとても思えないと初演時に批評家に言われたほどに立派な作品。

けれども、社会的には女性はピアノを弾くもので、作曲すべきではないという決まりがあり、彼女の作品を演奏する男性は皆無でした。

女性の作品を男性が弾くのは不自然だからという当時の常識のため。

ドイツとは異なる音楽文化を持つ隣国フランスでは、女性でも作曲家として成功することになるルイーズ・ファランク(Louise Farrenc, 1804‐1875)という人もいました。

ファランクの作品17の変奏曲を評論家ローベルト・シューマンは絶賛しています。

奥さんクララの作品は褒めないくせに。

フランスの音楽文化事情はドイツのそれとは異なりましたが、それでもやはり彼女たちも、女性の作曲家として求められている典型的なスタイルの音楽を書くことでキャリアを積み上げたのです。

仮に女性が作曲しても、当時の常識である「女性的な」音楽を書くことが女性には求められたのでした。

女性的な音楽!

日本の和歌の世界でも「ますらおぶり」や

「たおやめぶり」

優美で繊細で
抒情性に富んでいること
これが女性的な詩の美徳

という言葉もあるように、女性的な表現、男性的な表現というものは文化的に世界中にどこにでも存在しました。

だから男性作曲家たちは作品を求めてくれる相手の好みを考慮して、あえて「女性的な」作品を書く作曲家もいました。

特に女性が喜ぶような音楽を意図的に書いていたのがブルジョワ家庭にピアノが普及する時代に活躍した作曲家たちです。

  • 無言歌のフェリックス・メンデルスゾーン(フェリックスは極めて男性原理の強い音楽も書けるという超才人でした)

  • 夜想曲のフレデリック・ショパン(女性の聴衆が大部分を占めたサロンのための音楽をあえて作曲することで糊口をしのぎました)

  • ローベルト・シューマン(若いシューマンはウィーンで成功しようと、芸術至上な作品を書くという志を曲げて、ウィーンの令嬢たちの受けを狙って「アラベスク作品18」「花の歌作品19」を書いています)

  • フランツ・リスト(サロン向けの歌曲を編曲した「愛の夢」や「慰め」などは明らかに女性受けを狙った作品です)

現代日本でも登場人物の関係性ばかりを重要視する少女漫画というジャンルが存在するように(お花が登場人物のバックグランドに描かれる漫画です)女性受けするというジャンルは存在します。

女性のための女性による女性の作品???

ガラスの仮面
第一巻より

19世紀の音楽世界では、女性は少女漫画的な音楽を書くと評価されますが、そうでない場合は

はしたない
みっともない
女の子らしくない

などとディスられたのでした。

クララの作品はそれほど多くはありません。

作品番号で22番まで。

未出版もそれほどの数の作品は残されませんでした。

それでも彼女の作風の変化を追うことは興味深い。

初期の作品は父親に言われたとおりに聴衆受けする技巧的なものや少女漫画的な抒情を醸し出すような作品が主でした。

たとえば、作品10のスケルツォ第一番ニ短調。

一聴されてどう思われましたか?

わたしの耳にはフレデリック・ショパンのスケルツォそっくりに聞こえました。

ベートーヴェンの代名詞だったスケルツォ=諧謔曲を改変して、劇的性格を持つ音楽へとスケルツォを昇華させましたが、クララの作品はショパンと同じジャンルの作品になっています。

けれどもショパン作品に見られる男性原理的な押し付けがましさが希薄です。

こういう分かりやすい作品はいわゆる「俗受け」をします。

両腕は派手に鍵盤の上を動き回り、派手に「魅せる」作品なのですから。そしてどこか中性的。

男性の暴力性を感じさせるようなアクセントの強調が特徴的なベートーヴェン風のスケルツォでは一般受けしません。

演奏会でこの曲を自作自演したクララは大変に褒められたことでしょう。

でもこの作品をダメ出ししたのは彼女と結婚することになるのちの大作曲家ローベルト・シューマンでした。

「偉大な芸術は俗受けしないような高尚な世界から生まれる」

という持論を持つローベルトは、手紙の中でこの作品を認めないのですが、まったくクララとローベルトの二人の音楽的思想の相違をよく描き出しているエピソードだと思います。

スケルツォ第二番ハ短調(作品14)はショパン的スケルツォらしさがさらに洗練されています。

芸術至上主義者ローベルトの作品のほとんどが現在もなお、ほとんどの音楽愛好家から理解されていません。

クララのように流行の作風による作品はほとんど書かなかったからです(例外的なのが上述の「アラベスク」や「花の歌」)。

父親との醜い裁判の上でローベルトと結婚したクララは生計を立てるために演奏活動に勤しみ、毎年妊娠していつだってお腹の大きな状態でコンサートをヨーロッパ中で開いてお金を稼ぎだします。社会性がなく、着実に進行してゆく梅毒に脳を侵されてゆく夫を献身的に支えながら(死後、解剖されたローベルトの脳は極度に委縮していたことが医学的に認められています)。

聴衆は、絶えず妊娠しているクララが女性であることを嫌でも意識せざるを得なかったはずです。

ローベルトと出会ってからクララの作風はシューマン風に変化しますが、ローベルト・シューマンはクララが作曲することを喜びませんでした。

作曲するのは男性である芸術家の自分であり、クララは自分の作品を賛美すればいいという考え方(昭和親父のような男尊女卑?)の持ち主がローベルトだったからです。

ローベルトは「女の愛と生涯」という、極めてジェンダーバイナリーな古い考えに基づく歌曲集を書いたほどなので、やはり大変に保守的な人だったのでしょうが、19世紀とはそのような時代でした。日本は江戸時代の後期、黒船来航の頃のお話です。

シューマン最美の歌曲集の一つですが、あまりに古臭い詩の内容にわたしはいつも呆れてしまいます。

そして大事なのは、19世紀女性クララは、そのような家父長的なローベルトの教えに心から従順に従ったのでした。

父親フリードリヒにそんな風に育つように教え込まれた優等生な子供だったクララだったのですから、父に仕えたあとには、夫に従順に仕えたのはクララらしさでした。

ファニーとの出会い

転機は1847年に訪れました。

クララはベルリン在住のファニー・ヘンゼルという女性と親交を結んだのです。

当時欧州中に名の知られていた、コミュ力抜群で社交性に富み、抜群の政治力も持っていたという、ローベルトと真逆の大作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの四歳年上のお姉さんです。

運命的な出会いだったでしょうか。

実は上述のクララのピアノ協奏曲を1835年に初演したのは、フェリックス・メンデルスゾーン率いるライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団でした。

ピアノ協奏曲初演当時、クララは僅か15歳。

そして五年後にローベルトとようやく結婚して、1843年にメンデルスゾーンの本拠地であるライプツィヒへと夫婦で移住します。

その折にメンデルスゾーン一家はシューマン夫婦の新居に招かれて、ベルリンからライプツィヒを訪れていた姉のファニーも一緒にシューマン宅を訪れていますが、この時には二人は会話は特にしなかったようです。

ローベルトの日記には

精神性と感情の深さをその目が物語るヘンゼル夫人(ファニー)

とばかり記されていて、知性溢れるファニーがローベルトの目にも印象的だったようです。

クララやファニーの日記には何も書かれてはいないようです。

この三人は絶えず日記を書いていたので、彼らの生活は21世紀になってもわたしたちは詳しく知ることが出来ます。

1819年生まれのクララに対して、1805年生まれのファニーは14歳も年上でした。

だからクララにとって、ファニーは常に年配のヘンゼル夫人

ファニー・メンデルスゾーンはヴィルヘルム・ヘンゼルというプロイセン王室付き宮廷画家と結婚してヘンゼル姓になっていました。だからヘンゼル夫人です。

ヴィルヘルムはファニーよりも9歳年上。クララとローベルトの年齢も10歳離れています。

夫との年齢差がほぼ同じなことで二人は共通しています。

ヴィルヘルム作「ファニーとヴィルヘルム」
ヴィルヘルムの描いたファニーはかわいいですが
実は当時の肖像画にありがちな理想化が施されていて
ファニーはクララとは違って美人ではありませんでした
「めがねブス」と酷い言葉を書き残している人もいるほど(無礼な男です)
眼鏡をかけた肖像画は残されていませんが
シューベルトのように眼鏡をいつも掛けていた背の低い女性だったようです

1847年3月のこと。

ローベルトの作品としては珍しく大成功を収めた作品のオラトリオ「楽園とペリ」をプロイセン王国の首都ベルリンでも上演しようと、夫婦はベルリンを訪れます。

シューマン夫婦は18日のオラトリオ上演に先立つ3月4日、ローベルトとクララはドイツ有数の大富豪メンデルスゾーン家の大邸宅における二週間ごとの日曜日に開催されていたヨーロッパ最大のサロンコンサート「定期日曜ミュージカル」に招待されます。

演奏会に出席する上流階級ゲストたちの社会的地位の高さに圧倒されながらも、クララはファニーの音楽性と教養の高さに憧れて、「女性の」演奏家で作曲家であるクララにファニーは類まれなる関心を示して、二人は親しく交際を始めるのでした。

ファニーはクララにとって、社会的地位においても年齢においても圧倒的に目上の存在でしたが、クララはファニーに請われて、ローベルトの名作「ピアノ五重奏曲」変ホ長調の譜読みを一緒にしたり、ローベルトの斬新な歌曲を紹介したりするのでした。

ヘンゼルさん大好きです。
音楽に関してほんとに魅了されてしまいます。
ピアノを一緒に弾くとほんとに良く調和し合います。
彼女との会話はいつも興味深い。
ただ彼女のぶっきらぼうなところに慣れないといけないのだけれども

クララの3月15日の日記より
ピアノ連弾を楽しんだのですね
息が合わない相手と合奏すると疲れます
音楽性の高さにおいて
ふたりは共鳴したのです
ファニーがぶっきらぼうというが面白い
あまりしゃべらない女性だったのでしょうね
作曲に何時間も独りで没頭するオタクな人だから

シューマン夫人は、ほとんど毎日私のところに来てくれて、来るたびに彼女のことが好きになるわ。

クララの日記の五日後の
ファニーの3月20日の日記より

「女性」音楽家の同志として、魂レベルで心を通い合わせたファニーはシューマン夫妻にベルリン移住を勧めて、クララは本気でプロイセン王国の首都の大都会ベルリンへの移住を考えます。

シューマン夫妻は二年前にライプツィヒからドレスデンに移り住んでいましたが、庇護者となってくれるであろうファニーが住む大都市ベルリンはザクセン王国の旧都ドレスデンよりもずっと魅力的だったことでしょう。

ファニーは資産家として文化人としてベルリンの上流階級に深く通じていて、メンデルスゾーン家の持つソーシャルキャピタルは大変なものでした。

クララはファニーが音楽活動を支援してくれるベルリンの生活にどれほど心躍ったことでしょうか。

ベルリンはクララの母親(フリードリヒとは離婚して別の男性と再婚)の街でもあったので、ベルリン移住計画は楽しいものだったはずです。

ベルリン滞在中、クララはピアノ演奏会を四度催したのですが、そのうちの一つではファニーの歌曲を演奏品目に選んでいます(どの曲なのかは不明)。ファニーに対する敬意をこめて選ばれたことは間違いありません。

そうしてベルリンでの公演予定を全て終えた4月の初めには、二人は別れを惜しみながら、またすぐに再会することを約束したのでした。

しかしながら、二人の別れからまた二月にもならない同年5月14日のこと。

悲劇が起きたのです。

生涯に450曲もの作品を作曲して、女性指揮者・女性音楽監督として観客数300人という大ホールが常にいっぱいになる定期演奏会を十年以上も行っていた大音楽家ファニーが脳卒中で急逝したというニュースがドレスデンのクララの元へと届きます。

(後編に続く)


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