シェイクスピアと音楽(4): 薔薇は別の名で呼ばれていても、甘い香りを湛えているはず
ロミオとジュリエットほどに時代を超えて愛されてきたシェイクスピア作品は他にはありません。
オペラ、バレエなど、インスパイアされて生み出された音楽や映像作品は本当にたくさんあるのです。
1936年、1968年、1996年、2013年と何度も映画化されていて、それぞれに味わい深い。
20世紀版ロメオ
現代アメリカに置き換えられたレオナルド・ディカプリオ主演の1996年版など、舞台装束は自由に改変されたりもしていますが、映画のセリフはシェイクスピアの書いた台本そのまま。
Youの代わりに、thouやtheeの飛び交う古い英語の世界。
ですので、英語圏の高校生は国語の授業では、「ロミオとジュリエット」が教材で取り上げられるときには、ディカプリオ二十歳主演の映画を授業中に見るのが決まりです。
モンタギュー家とキャピュレット家の骨肉の争いを現代アメリカのマフィアの抗争に置き換え、剣の代わりに拳銃を振り回すギャングたちがシェイクスピア英語を喋る倒錯さが自分には非常に興味深い。
何度見ても楽しいシェイクスピア劇を映画化した最高の成功例でしょう。
現代的なギャング映画に不可欠な放送禁止用語のFxxxが出てこないので、高校生にも大丈夫。シェイクスピア時代の酷い罵倒語もこの劇にはあまり出てこない。
個人的には1996年版は音楽には特に見るべき部分がないのが少し残念。
1968年のオリヴィア・ハッセー Olivia Hussey をジュリエットにした1968年版の映画のテーマは、映画音楽の名作として広く知られています。
哀愁の調べは名門両家の対立よりも、若い二人の純愛に焦点を当てる効果を持っていると言えるでしょう。
「ゴッドファーザー」作曲でも知られる、イタリアのニーノ・ロータによる名旋律。映画音楽史上最高傑作の一つ。
バルコニーの場面
ロミオとジュリエットの最も有名な場面は、通称バルコニーシーンと呼ばれる、出会いの夜の後に、ジュリエットが窓の外を見ながら、この言葉を一人呟く場面。
このセリフからジュリエットの独白は続きますが、実は窓の下では忍び込んだロミオはジュリエットの喋る言葉を聞いているのです。
シェイクスピアのオリジナルには、この場所は「窓の下」としかト書には書いていないので、バルコニーというのは本当は正しくない。
でも今日的な演出ではバルコニー、ベランダなのです。
ジュリエットを見つめるロミオは東の方角にい彼女を太陽にさえ見立てます。
薔薇の名前
より大切なのは、続くジュリエットの言葉。
どうしてあなたは敵のモンタギュー家の人でロミオなの、と口にして、名前とは何であるのかと自問します。
非常に有名な言葉。英語圏の高校で英語の授業をとった人はきっとみんな知っている。
この13歳の無垢なジュリエットの言葉は深い。
大切なことはどう呼ばれるかではないと、現代的に言えば女子中学生のジュリエットは語ります。
薔薇の名前。
日本語では薔薇、英語ではRose, アラビア語ではairtafae。
どう呼ばれても、このたくさんの花弁を持ち、心地よい香りを放つ花の本質は変わらない。
とジュリエットは呟く。
いずれにせよ、この愛の言葉を語り合う場面は古今の全ての物語の中の白眉。
作曲家の二次創作
作曲家がこの場面につけた音楽には、残念ながら素晴らしいものが多くない。
プロコフィエフの名作バレエも、グノーのフランス語オペラも、わたしにはいまいち。
一番好きなのは、アメリカのレナード・バーンスタインの「ウェストサイド物語」のトゥナイト。
1961年版と2021年版と二つあります。
プロコフィエフの言葉のないバレエ版は次のようなもの。
わたしはこのバレエ、三度も舞台で観たほどに大好きですが、バルコニーシーンはウェストサイドに軍配を上げます。
動画の主役二人の舞は見事なものです。
作曲家たちが最も力を入れた場面
ジュリエットの従兄ティボルトがロミオに殺される場面など、舞台芸術的に大事な場面は幾つもありますが、全ての作曲家が最も己が作曲的才能を注いで作曲したのは、第五幕の墓場の場面。
特別な薬を飲んで仮死状態のジュリエットのもとに赴くロミオ。連絡の行き違いから、ロミオはジュリエットが本当に死んでしまったと信じ込み、後追い自殺するロミオ。
ロミオが死んでから目覚めたジュリエットは全てを悟り、剣で胸を刺して自死します。
死ぬ必要がないのに、若い二人は死んでゆく。
若いベートーヴェンはこの二人の死の場面を最も純音楽的な音楽であると言われる弦楽四重奏曲の中に描き出します。
初期ベートーヴェン作品の中でも特に素晴らしいアダージョ。
プロコフィエフのバレエのクライマックスは、間違いなくこの場面。
ソヴィエト連邦のプロコフィエフが古典的な作風で作品を書くことを強いられていたとしても、彼が当時書き得た最良の音楽。
19世紀に大人気作曲家だったフランスのグノーのオペラに置いても最良の場面。死にかけている二人がこんな立派な歌を歌えるのかという問題は別にしても。
1996年版のディカプリオ版ロメオでは、なんとリヒャルト・ヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のクライマックスの愛の死の音楽が引用されています。
トリスタンはヨーロッパ中世最大の恋愛物語。
愛と死
まさにロメオとジュリエットのテーマはトリスタンと同じく「愛と死」。
何ものも隔てることの出来ない若い二人の美しい恋は、憎み合う家同士の醜い争いに置いて対比されます。
愛し合う二人が敵対する陣営の恋人同士で無ければ、こんなドラマにはならなかった。
クラシック音楽の基本はソナタ形式ですが、ソナタとは性格の異なる二つの音楽的要素の対比から出来ています。
だからこそ、ロメオとジュリエットは音楽化しやすい。激しい暴力と盲目な恋。
この二つの要素の対比を見事に音楽化したのは、やはり若いチャイコフスキーでした。
幻想序曲と題された20分もかかる長大な序曲。でも美しい愛のテーマに戦闘的な両家の対立の音楽はわかりやすく、聞き手を飽きさせません。
歪み合う両家は、若い二人の死後、和解します。原作ではそう書かれています。
馬鹿な大人たちを諌めるために人柱として犠牲になった二人がいた、というのが原作のメッセージ。
でも、劇を見る人のほとんどは美しいバルコニーシーンか墓場の場面を最も愛している。
ロメオとジュリエットのために作曲された数多のとろけるように美しい愛のテーマ音楽を聴きながら、愛し合う二人の犠牲による和解こそが、この劇の最も大事なメッセージなのに、二次創作のオペラにもバレエにもこの部分は含まれてはいないなと改めて思いました。
劇作品では、いつだって二人の死の場面で劇的に幕を閉じて、和解の場を省略します。
1996年版の映画は、次の言葉で締めくくられます。
このセリフに続く、両家の親たちが手を取り合って和解する場面はバレエにもオペラにも、1968年版の映画にも、ウエストサイド物語にもない。
原作ではAll are punished の後に、モンタギューとキャピュレットの当主同士の和解の言葉が続く。でも二次創作では劇の悲劇性を高めるために、教訓的にしないために含まれない。
ならば何のためにロミオとジュリエットは死んだのか?
こういう答えのない不条理が現代的なのですね。
薔薇の花は、どんな名前でも芳しい。
でも名前や世間体にこだわらずにいられないのが、自分を含めた普通の人たち。
若く曇りのない目から見える世界のことも忘れてはいけないなと、20年前には感情移入できたロミオに今では共感できずに、ロミオやジュリエットの両親と同じような年齢になった自分は思うのです。
自分の子供は自分が好ましいと思う家の子と結婚させたい (例えば、貧乏な親を持つ子女には結婚させたくないとか)とさえ思えるほどに自分は歳をとったのかと驚愕します。同時にこういう感慨を引き出させるシェイクスピアのドラマの普遍性に心打たれます。
大切なのは、名前ではなく、本人たちの幸福なのですから。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。