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ジェンダーバイナリーな時代の音楽:知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(8):後編
前編からの続きです。
クララの言葉
クララはファニー急逝の報せに慄きます。
大変なショックを受けたことを日記に次のように書き記しています。
ヘンゼル夫人の訃報を受けて大変に動揺しました。
この驚くべき女性を尊敬していたし、もっともっと彼女を知ることを楽しむべきだったから。
ファニーの死から四日後のこと
6月にはクララは友人に宛てて次のような手紙をしたためています。
彼女(ヘンゼル夫人)は彼女の生きた時代の最も優れた音楽家であり、ベルリンの音楽生活全体にとって非常に重要な人物であったことは間違いありません。
私は彼女に私のピアノ三重奏曲(作品17)を捧げたのです!
私たち夫婦はこの出来事(ファニーの死)に大きなショックを受けました!
1847年6月15日
最大の支援者と成るべきだったファニーがいなくなったベルリンに移住することは夢物語となってしまいました。
ベルリンの文化人で知らぬものがいなかったメンデルスゾーン家の大音楽家ファニー・ヘンゼルとクララ・シューマンの実質的な交友関係はわずか数週間にしかならないものとなってしまったのです。
ファニーの住んでいたベルリンにシューマン夫妻が暮らすようになっていれば、クララの生活はどれほど大きく変わったことでしょうか。
ファニー・ヘンゼル(メンデルスゾーン)享年42歳。
母親レアも同じように脳卒中で亡くなっていて、ファニーは不規則に訪れるひどい頭痛に生涯苦しめられていました。ファニーの死に大変な衝撃を受けた弟フェリックスが同じ死因で亡くなるのは半年後の同年11月のことです。
作曲家クララ・シューマンの全作品の中の最高傑作かもしれないピアノ三重奏曲は、ファニーの死の前年の1846年に完成した作品でした。
出版が翌年の1847年に計画されていましたが、結局ファニーの死のために作品17の初版楽譜の最初のページには「献呈者なし」として出版されました。
死者に対して献呈することが躊躇われたのでしょうか?
ジェンダーバイナリー時代の女流作曲家
ファニーはいろんな意味でクララの模範となるべき人でした。
女流作曲家の先輩ファニーから学べることは数多くあったことでしょう。
ファニーもクララも、
女性は男性のように作曲家となって作品を公表すべきではない
と言われた社会文化の中の女性たち。
けれども演奏家としてならば作曲活動は社会的にも許容されるという事実はファニーには複雑だったのでは。
ファニーは自分が資産家の娘であるがために、世間体が考慮されて公に音楽家になることは許されませんでしたが、普通の庶民でしかないクララには演奏家であることは社会的に許容されていたのです。
けれどもクララは作曲家にはなれませんでした。
社会がそうした「女性にあるまじき行為」を許さなかったからです。
ファニーの場合、大富豪であるがために自宅で聴衆数百人を集める私的演奏会を定期的に行うことが出来て、自作を常に私的な演奏会で発表することができました。
公に出版しない限りにおいては。
作曲しても演奏することが出来なかったフランツ・シューベルトよりはずっと音楽環境に恵まれていたといえるでしょう。
ファニーは自分が
ディレッタント
であると自嘲的に日記に書き記していますが、プロの演奏家でも演奏会にいつも数百人の質の高い聴き手を集める演奏会を開催できることは難しいものです。
女性であるにも関わらず、男性的な音楽とされる管弦楽序曲やカンタータやオラトリオを作曲して、女性的なジャンルとされたピアノ作品においても組曲「一年」のように長大なピアノ作品集を作り上げるという知性と情熱。
ファニーの存在はアイロニカルなものでした。
19世紀に女性として社会的に成功した作曲家はドイツ・オーストリアにはいませんでした。
演奏家として公的な立場を持っていたクララの作曲活動は様々な理由から実現しませんでしたが、公的な立場を持たなかったファニーはローベルトに匹敵するほどの数の作曲を行い(450曲ほど)その質の高さは弟フェリックスにもおさおさ劣るようなものではありません。
1970年代にメンデルスゾーンの素晴らしい新曲がフランスで発見されたと大ニュースになりましたが、のちにその作品はフェリックスではなくファニーの作品であると判明して、当時だれもファニーのことを知らなかった音楽関係者たちは驚愕しました。
ファニー作曲の「イースターソナタ」はそれほどの作品でした(次回紹介します)。
イースターソナタのような独創的な作品は、社会的束縛から自由だったファニーだからこそ、作曲することが出来たのでした。
書いても発表する場のなかったがために一人で独創的な音楽を書いていたシューベルトとファニー・ヘンゼル(メンデルスゾーン)は十数年のずれがあるにせよ、二人とも19世紀という時代を変革するフランス二月革命以前を特徴づけたビーダーマイヤー文化を代表する音楽家だったのです。
作曲家クララ・シューマンはピアノの世紀である19世紀を代表する演奏家となりましたが、作曲家として大成するには「ビーダーマイヤーな」環境に欠けていました。
ファニーのように、女性でも独りで好きに創作することは可能でしたが、クララには家に籠ってばかりの(つまりビーダーマイヤーな)夫ローベルトがいて、ローベルトはクララの創作活動を阻害しました。
クララの苦悩多い人生は、大衆受けする伝記に書かれているような立派なものではなかったはずです。
クララもまた、典型的なジェンダーバイナリー時代の哀しい女性でした。
クララはファニーの死後、ベルリンではなくデュッセルドルフに移住します。
幸運にもローベルトが音楽監督の職を得たからですが、夢想家ローベルトは音楽監督として全く無能でした。
すぐにクビになります。
やがてローベルトは病症が悪化して、1954年2月、真冬のライン川に投身自殺を図り、ボン郊外のエンデニヒの精神病院に入院すると、七人の子供たちをただ一人で育ててゆかなければならなかったクララはデュッセルドルフの家で独りになりました。
1855年、ローベルトのいない子供たちの駆けまわる広い家で、ローベルトとの最後の子供であるフェリックスを身籠っていたクララは前年に完成させた変奏曲に続いて、作品21と作品22となる「ロマンス」を完成させます。
ローベルトがいた頃には不可能だった豊かな創作活動期間でした。
二つの「ロマンス」曲集は、ローベルトに替わってクララの傍にいた若いヨハネス・ブラームスに献呈されています。
ローベルトの死の直前、クララは最後に一度だけエンデニヒを訪れて、ローベルトと最後の面会を果たします。
精神病の悪化を恐れて、医師はクララをローベルトには逢わせなかったので、クララはどれほどにローベルトの症状が重いものなのかを知ることもなかったのでした。
ローベルトの死後、クララはもう一曲だけ作曲します。
「ロマンス・ロ短調」という非常にシューマネスクな作品。
ある意味、ローベルト・シューマンのためのレクイエムとも呼べそうな哀しい音楽です。
その後、クララ・シューマンは作曲の筆を折り、未亡人となった三十年もの長い時間、新しい創作活動は行わず、また自作の演奏も二度と行わなかったのでした。
例外は晩年になって演奏会で一度だけ、作品20の「ローベルト・シューマンの主題による変奏曲」を弾いたことだけでした。
主題はローベルトの作品99の「色とりどりの小品」と題された小品拾遺集の第四曲から採られたものです。
クララが短い間だけ深い友好を持ったファニー・ヘンゼルの作品はクララは何度か紹介しようと努めたらしい記録があります。
1855年にファニーの歌曲を演奏会で取り上げたそうです。
けれどもクララを除いて、ファニーの作品を演奏しようとする試みは20世紀の終わりまでほとんどありませんでした。
19世紀の聴衆には女の手によって書かれた音楽を聴きたいと望む人はほとんどいなかったからです。
父アブラハム・メンデルスゾーンの言葉
ファニーとフェリックスの父親アブラハムは
音楽はお前の人生の装飾音であるべきで通奏低音であるべきではない
「天才である弟の作品を
理解できるということだけでも
すごいのでそれで満足せよ」
と音楽的教養の高さを感じさせる、音楽的な比喩をもって、娘ファニーの公な作曲活動を禁じました。わざわざ手紙に書いて彼女に伝えているのです。
装飾音とは文字通りメロディの飾りです。
メロディは通奏低音という低音部(ベース)の上に乗っかている音の横の流れです。
通奏低音は人生の基軸、装飾音は人生の中の趣味のようなものと解されることでしょう。
貞淑な女性は夫に仕えて子供を育てて、その上に飾りとして音楽や詩や絵画の才能を持つことが19世紀的女性の鑑。
弟フェリックスに勝るとも劣らぬ才能を持っていて、結果としてローベルト・シューマンの全生涯の作曲量にも匹敵する数と質の作品を遺したファニー。
娘の作曲の出版を禁じた父親アブラハムの死後、ファニーの母親レアは作曲を出版したい娘の願いをかなえてやりたいと大作曲家の息子フェリックスにファニー作品の出版の承認を求めます。
けれどもフェリックスは姉ファニーの作品の出版に対して賛同しないのでした。
女性が出版して成功するなど不可能だ
が、誰よりも姉の作品の質の高さを知るライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団の経験豊かな名指揮者は母親に対して無情に答えた言葉でした。
開明的な頭脳を持ったフェリックスにしてもまた、19世紀の常識に縛られた男性だったのです。
母レアの死後、フェリックスはようやくファニーの出版に渋々同意することになります。
けれどもようやくフェリックスの祝福を得ることが出来たファニーの余生は僅か一年でした。
そして出版に選ばれた曲は当時の社会事情を考慮して女性受けするピアノ独奏曲とソロ歌曲ばかりが選ばれました。
作品1は歌曲集。
作品2は「ピアノのための歌」というピアノ曲集という具合に。
生前の出版はそこまで。
女性の作品出版はそれほどに時代に反するものだったので、女性受けする作品ばかりが選ばれたのでした。
ファニーの作品群には
ベートーヴェン張りの力作「弦楽四重奏曲変ホ長調」:超男性的!
独特の詩情を秘めた三つのピアノソナタ(次回紹介します)
独創的なロマンが溢れる「ピアノ三重奏曲イ短調」
バッハ風のカンタータやオラトリオ:ジェンダーフリーな深い宗教感情の込められた力作
フェリックスの作品にも匹敵する本格的な管弦楽序曲ハ長調
さえもあったというのに。
女性的な女性のための女性による音楽
作曲家としてのクララはファニーの遺作の出版の難しさをどれほどに共感したことでしょうか。
ファニーの死後、精神的に回復不可能なほどに衝撃を受けたフェリックスは義兄ヴィルヘルムのために姉の遺作を校訂して出版を続けますが、彼もまた半年後に姉と同じ脳卒中で急逝。
その後、大作の「ピアノ三重奏曲」が1850年に出版されますが、もはやだれもファニーの作品を顧みる人もいないのでした。
1848年のフランスのパリからはじまった革命の火の手は欧州中に広がり、ビーダーマイヤー文化(私的なサロンが文化活動の中心となった文化)の時代が終わり、ファニーの音楽もまた、古い時代の音楽として忘れ去られることとなります。
家庭ピアノの時代はなおも引き継がれてゆきますが、社会時代が変わると求められる音楽も変わります。
女性的な音楽と男性的な音楽の較差はますます広がってゆくようになります。
クララ・シューマンはロマンスという非常に女性的なピアノ曲を何曲も作曲していますが(作品11・作品21)こういう音楽は女性たちに欲せられていた音楽でした。
けれども革命騒動の果てに新しい時代が訪れると、国民主義・国粋主義が音楽文化の中にも取り入れられるようになり、ファニーやクララの作風もまた、過去の時代のものとされてしまうことに。
クララが作曲の筆を折ったのは、ローベルトの死ばかりが原因ではなかったはずです。
ファニーとクララの作曲が見直されるようになるのは20世紀も後半になってのこと。
19世紀はフェリックス・メンデルスゾーンの家族でしかない女性であるにも関わらず作曲家として世に出ようと試みたファニー・メンデルスゾーンを忘却の彼方へと押しやってしまいました。
20世紀のナチスドイツは大作曲家メンデルスゾーンを顕彰するライプツィヒ市の銅像を溶かしてしまい、肖像画も焼却炉へと焼べてしまうほどで、ファニーが復権する土壌などありえなかったのです。
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2008年になって
ようやく建て直されたメンデルスゾーンの銅像
下にいる女性は音楽の聖人チェチリア
ちなみにお姉さんファニーのミドルネームは
チェチリアです
ファニーもベルリンで
いつか顕彰されるといいなと思います
20世紀の終わりになってフェミニズム運動の高まりの中、女流作曲家の復権が行われます。
最初にクララの作品が脚光を浴びるようになり、多くの人がローベルトの作品よりも分かりやすいと絶賛しました。
クララが知られるようになると、ファニーに脚光が当てられるようになりますが、それは1990年以降の20世紀の大スターだったカラヤンやバーンスタイン死後のことでした。
ファニーとクララの二人の作品を鑑みるとき、常に頭の中に思い浮かぶのは、女性的・男性的という言葉。
けれども、21世紀は「女性的・男性的」という言葉があまり意味をなさなくなってきたジェンダーレスな時代です。
彼女たちの作品を聴いて、この作品は女性的だとか男性的などと言う古いジェンダー的偏見やレッテル張りから自由になれたとき、彼女たちの作品が初めて世間的に認知されるようになったといえるのでしょうか。
忘れられた作品群のその後
女性は女性らしくあるべきという時代生きたファニーとクララ。
昭和生まれのわたしは、子供の頃に
男のくせにめそめそ泣くな
と躾けられたことを覚えています。
女々しいぞ
という「女」という漢字が使われるジェンダーバイナリー究極な言葉もよくききました。
男は男らしく、女は女らしくあれという昭和時代の100年前の時代には (日本の江戸時代) どんなに努力しても社会の規範から外れた行動は褒められませんでした。
クララの音楽を聴いていると、あまりに男性優位の世界での女性視点からの作曲という印象を受けます。
「ロマンス」という少女漫画的なタイトルが目に付いて、内容もタイトルに恥じないロマンティックなものだからです。
ファニー・ヘンゼルは女性的な音楽にはこだわりませんでした。
出版しないという前提で作曲していたので、社会的因習から自由な創作をしていた彼女はメンデルスゾーン姉弟独自の無言歌の世界を開拓して、彼女はフェリックスの作品と区別するように、
ピアノのための歌曲
というジャンルを創作して、独自な作品を数多く作曲しました。
バッハとベートーヴェンの作品を知り尽くしていたファニーの創作は今もなお世間的に広く知られてはいませんが、彼女のの音楽には男女の別を超えた普遍的な有限の性を受けた人間の悲しさと寂しさが思い浮かぶのです。
男性だから女性だからという性別の枠組みを超えた、人間存在の普遍性のことです。
これからの時代、男性的な作品女性的な作品などと芸術作品にレッテルを貼ることはますます憚られるのだろうけれども、わたしは女性であるがために女性らしいと見做された作品を書いた女流作家や芸術家にますます関心を払いたい。
そういう社会的な制約や桎梏の中でしか作り出すことが出来なかったであろう特別な真実に出会えると思うからです。
女性視点な音楽には彼女にしか書けなかった真実がある。
クララの初期の音楽を聴くと、
ああ女の子っぽい作品だなあ
とわたしは感じるけれども、ファニーの音楽には
女性という家庭の中に押し込められていた、抑制された性を超えた何か
人間実存の深さ
を感じずにはいられない。
作品の実存的な深みはいつだって前向きで内に籠らないフェリックスの音楽よりも上なのかもしれない。
フェリックスの最高傑作オラトリオ「エリヤ」を聴くと、英雄的預言者エリヤの生涯を通じて時代を超えた人生肯定の素晴らしさに感動を覚えます。
けれども、ファニーの女性的なジャンルとされたピアノのための歌曲というピアノ作品や歌曲を聴くと、彼女の嫌ったローベルトシューマンや後年のフーゴー・ヴォルフが志向した実存主義的な人間存在を問うような音の世界を想起せずにはいられないのです。
梅毒感染という緩やかな死刑宣告にゆっくりと侵されて死んでいったローベルト・シューマンやフーゴー・ヴォルフ 、フランツ・シューベルト同様に、ファニーやクララたちには「女性であること」は人生の限界を教える人間の条件だったのでしょうか?
わたしは日本語で書かれたクララの伝記をどれも読んだことがないのだけれども、クララの伝記の中でファニー・メンデルスゾーンについてどれだけの言葉が費やされているのでしょう?
ヴィルヘルムとファニー
誰も知らないファニーと彼女の夫ヴィルヘルムの物語は、クララとローベルトに勝るとも劣らぬほどにロマンティックなものです。
宮廷肖像画家ヴィルヘルムは、ローベルトと違ってファニーの芸術活動を常に支援して、次に見せるような楽譜に挿絵を描いたりするなど、夫婦して創作活動を楽しみました。
「女性の作曲出版などあるまじき」という時代にヴィルヘルムは彼女の出版を後押しして、ファニーの死後には遺作をフェリックスと共に出版しました。
わたしには旧弊な価値観の中で苦悩したクララとローベルトよりも、上流階級ゆえに社会的束縛から比較的自由だったヴィルヘルムとファニーこそが本当に理想的なロマンティック・カップルです。
けれども理想的な伴侶ファニーを失った、ヴィルヘルムの余生は哀しいものでした。
ファニー無き17年間の余生において、宮廷画家ヴィルヘルムは芸術創作意欲を一切失ってしまいます。
そして笑いを知らない人であるかのように、悲しく生きたのだそうです。
ピアノ曲集「一年 Das Jahr」より
最後にヴィルヘルムの挿絵付きのファニー作曲の楽譜を掲載します。
仲睦まじい夫婦が二人して作り上げた家庭用楽譜。
でも私家版として保存されていたために、出版は20世紀の終わりまで行われなかったのでした。
ピアノ組曲としてはローベルトの大傑作のピアノ小品集にも比する作品。
今後の正当な評価が待たれます。
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https://furore-verlag.de/en/produkt/das-jahr-ein-klavierzyklus-faksimile-2/#
まとめ:
男性的、女性的というものは文化的社会的に形成されるもので、人類すべての文化において普遍的なものではないけれども、ファニーやクララの生きていた19世紀前半のドイツでは間違いなく、男性的、女性的という概念は存在していました。
昭和日本で、女の子はしとやかに、男の子は元気よくと、子供の個性を考慮せずに、誰もが典型的な男性的と女性的の型にはめられることを期待されていたように。
クララはピアニストという19世紀女性として、社会的に認知された存在として成功したけれども、
女性は作曲家になってはいけない
女性視点の音楽は社会的に認められない。
という文化的偏見と、創作への理解を示さなかった夫ローベルトのために、作曲家として大成できませんでした
ファニーは上流階級の令嬢であるがために、サロン以外での音楽活動を一切禁じられました。
作曲をしても出版は世間体のために許されませんでした。
あれほどのピアノの名手であるにもかかわらず、(私的日曜演奏会以外の)公開の場で演奏をしたのは、ある慈善コンサートで弟の『ピアノ協奏曲第一番』を弾いた一度限りのことでした。
ご令嬢が一般大衆の前でお金のためにピアノ演奏するなど、常識では考えられないことでした。
「慈善」という無償で「施しを与える」という名目でのみ、公開演奏が可能になったのでした。
もしファニーがクララのような中流家庭に生まれていれば、演奏家になることは十分に可能だったのではとしばしば言及されています。
けれども経済的な裕福さゆえにプライヴェートである限り、作曲は許されて、自宅の大サロンで作品を発表し続けることが出来たことは幸運でした。
ファニーの音楽生活はあまりにもユニークなものでした。
世間的な批判にさらされることなく作曲や演奏活動をすることが出来たファニーは、極めて特殊な作曲環境で自由な創作を続けることができたために、「女性的な」という枠組みではまとめることが出来ない作品を数多く生み出すことができたのです。
クララにとって先輩作曲家ファニーはインスピレーションでした。
交友期間がわずか数週間という、あまりにも短すぎたことが残念で仕方がないことだったのだけれども。
歴史に「もし」は禁物ですが、二人が切磋琢磨して新たな創作や演奏活動を行うようなことが実現していたとすれば、19世紀の音楽文化的地図はどれほどに見違えるものとなったことでしょうか。
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「モーゼの妹ミリアムと彼女の息子」に擬された
ファニーと息子セバスティアン
1833年作
大バッハの名前をもらった息子セバスティアンは
長じて父の後を継いで肖像画家となりますが
晩年の1879年には
大著「メンデルスゾーン家:1829年から1847年まで」
を出版して、革命前の祖父アブラハム、
叔父フェリックスやパウル、母ファニーらが
ベルリンの文化や経済活動にどれほどの貢献を行ったのか
詳細な記録を書き上げます
セバスティアンは母ファニーや叔父フェリックスの
貴重な書簡や楽譜を現代の21世紀まで
伝える原動力となりました
主要参考文献:
Beer, Anna. (2016). Sounds and sweet airs: The forgotten women of classical music. Oneworld.
Todd, R. Larry. (2010). Fanny Hensel: The Other Mendelssohn. Oxford University Press.
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