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アニメになった児童文学から見えてくる世界<14>:赤毛のアンのモデルになったピッパ

ルーシー・モード・モンゴメリ Lucy Maude Montgomery (1874-1942) の書いた名著「赤毛のアン Anne of Green Gables」は20世紀初頭の1908年に出版されましたが、作者自身の少女時代の19世紀後半の世界(1870-1880年代)がアンの物語の舞台。貧しい子供たちは満足に学校にも行けず、新しい鉄道が走り、アイスクリームを食べられることがとても特別な体験だった時代。

「赤毛のアン」は百年もの間、愛され続けて不朽の英文学の一部として知られています。二次創作もたくさん作られて、映画や漫画もたくさん作られました。

1979年の世界名作劇場アニメはそのような二次創作の白眉ではないでしょうか。実写映画にも素晴らしいものはたくさんありますが、アンの物語を一年かけて放映したということは画期的でした。

はてには百周年を記念して、モンゴメリ財団の依頼を受けたカナダの児童文学作家のバッジ・ウィルソン女史が11歳から始まるアンの物語の前日譚を書くことを依頼されて、見事な物語を書き上げたのでしたが、その2008年、作品アニメ化がすぐに決定して、翌年の2009年の世界名作劇場の「こんにちはアン」として映像化されたのでした。

BSデジタル放送で、毎回観れる美しいカナダの夕焼けの風景を眺めているだけで心休まる美しいアニメ。あまりにシビアな現実を生きている人間たちの世界と神々しい自然との対比が際立ちます。

類稀なる天性の比喩力を持つおしゃべりで空想好きなアンがいかにして育ったかを描いたウィルソン作「こんにちはアン Before Green Gables」は、モンゴメリの原作の世界観そのままの、本当によく書かれた物語です。

女性の社会参加を賛美するヘンダーソン先生に「まるで野に咲くひまわりのような人だわ」とアンは形容します

でも、この周りにいるみんなを楽しくさせる愉快で聡明で強い心の女の子アン・シャーリーはいかにして生まれたのでしょうか?

「赤毛のアン」に引用されたブラウニング

前回書いたように、「赤毛のアン Anne of Green Gables」の物語はロバート・ブラウニング (1812-1889) の詩によって締めくくられます。

“‘God’s in his heaven, all’s right with the world,'” whispered Anne softly.
「神様は天にいらっしゃって、この世界は調和に満ちている」とアンは優しく囁きました

このすぐ前の締めくくりの部分も素晴らしい。暗誦するにも良い名文です。

彼女の足元の前にある道がどんなに狭くても、静かな幸福の花が、道端には花開くことだろうとアンは知っていた。
誠実な仕事を成す喜び、自分に相応しい憧れ、そして、お互いを求めあう友情は彼女のものとなる。空想すること、そして理想的な世界を夢見る生まれ持った才能を彼女から奪い取るものは何もない。By モンゴメリ

実は冒頭にも標辞として、別のブラウニングの言葉がおかれているそうです。つまり、Anne of Green Gablesという物語はブラウニングに始まって、ブラウニングに終わるのです。

作者モンゴメリはそれほどに英詩人ロバート・ブラウニングに傾倒していたのでした。

赤毛のアンの冒頭の標辞

わたしは英語版の原作を所有していますが、普及版だからでしょうか。ブラウニングの標辞はわたしの本には掲げられてはいません。子供向きの本として仕立てられている出版物には、なぜだか標辞は割愛されているのです。

大人向きの古い体裁のアンの原作。ブラウニングの標辞が書かれています。

ブラウニングの別の詩の夭折した美少女の死を歌った「エヴリン・ホープ Evelyn Hope」の

なんじは良い星の下に生まれ、 精霊と火と露より創られたのだ

というエヴリンの輝かしきかるべき人生を予言した言葉。でも彼女は16歳で亡くなるので、どこか悲劇の予兆のよう!

日本では、ブラウニングは「春の朝」以外はあまりよく知られていません。それどころか、一概に英文学は日本ではドイツ文学やロシア文学ほどには人気がない。

ウィリアム・シェイクスピアを知らぬ人はいませんが、格調高い17世紀の英語は、ほとんどの外国人にはあまりにも難しすぎるのです。

立派な英語の古典文学は大抵韻文で書かれています。

アメリカのホイットマン Walt Whitman (1819-1892) 以降の近代詩は、それ以前の韻律や定型を重んじた古いスタイルの詩の伝統から自由になり、まさに自由な形式で独自な韻律を編み出して「自由詩」を作り出しました。

我々が普段目にして親しんでいる者はほとんど自由詩。でも本来の詩とは「歌われる」ために書かれた韻律のある詩でした。自由詩の多くは歌えません。音読しないで読むための文章です。

バイロンやミルトンなど、英文学の最高峰は韻律のある詩文でしょう。19世紀になってディケンズやブロンテ姉妹やジェーン・オースティンなどが出てきましたが、やはり英文学の伝統は詩文にあり、と英文学には門外漢のわたしは思わずにはいられません。

詩は欧州文学の神髄

ホメロスの「イーリアス」も詩文。ダンテの「神曲」も詩文。ゲーテの「ファウスト」も詩文。プーシキンの「オネーギン」も詩文。

言うまでもなく、シェイクスピア劇は詩文で書かれています。

リサイタル=詩の朗読会

欧州でリサイタルと言えば、詩の朗読会のことでした。

赤毛のアンには詩の朗読のリサイタルの話が出てきます。

ピアノもヴァイオリンもないリサイタルなのです。独奏楽器によるリサイタルを世界で初めて開いた音楽史上最高のピアニストであるフランス・リストに対して、世の人は「ピアノでどうやってリサイタルをするのだい」と首をかしげたそうです。

詩は一般的に、

  • 抒情詩

  • 叙事詩

  • 劇詩

の3種類あるとされています。

そして赤毛のアンの愛したブラウニングが得意としたのは、劇詩。

詩の中で、何人もの登場人物が出てくる詩です。物語詩とも呼ばれます。

ゲーテで言えば「魔王」や「魔法使いの弟子」。魔王には何人もの語り手が登場することで有名です。ミッキーマウスで有名は魔法使いの弟子も実は物語詩なのです。

叙事詩は語り手が英雄の物語を歌うものですが、優れた劇詩は舞台で上演しても素晴らしいもの。

「赤毛のアン」の前日譚「こんにちはアン」には、何度もブラウニングの話が出てきますが、上述のアンに引用される「季節は春」で始まる「ピッパは通る Pippa passes(1841)」の歌は長大な劇詩の一部。

そこで、この機会に初めて長大な全文を読んでみましたが、題名にあるお喋りで人生の明るい面を見ることを得意とする少女ピッパは、アン・シャーリーに通じるところがたくさんあるのだと気がつきました。 

作者モンゴメリはきっとピッパにインスパイアされてアンの物語を書いたのだと思います。

ロバート・ブラウニングの劇詩

ブラウニングは19世紀のヴィクトリア女王時代の詩人。

のちに妻となる詩人エリザベス(Elizabeth Barret Browning 1806-1861) との恋愛でも知られていますが、ピッパの詩の舞台でもあるイタリアのフィレンツェで長く生活した詩人でした。ブラウニングは英文学者である夏目漱石も愛唱したことで知られています。代表作「三四郎」にもブラウニングの詩が出てきますね。

ブラウニングの「春の朝」は、上田敏の「海潮音」で紹介されて以来、広く日本語でも親しまれているようですが、「春の朝」は劇詩「ピッパが通る」の一部。

残念ながら劇詩全部が通読されて親しまれることは、ほとんどなかったようです。でも全部を読み通してこそ、「春の朝」という詩を本当に理解できるようになるのだと思います。

Dramatic Poetry "Pippa Passes"(劇詩「ピッパが通る」)

ピッパ Pippa という名前は、フィリパ Phillipa という名前を短くしたものですが、12使徒のフィリップ Phillip(フェリペ・ピリポ)の女性形です。キリスト教徒の伝統的な名前にはこういうタイプがたくさんあります。

パウロ Paul(ポウル)の女性系は英語式だとポーリーン Paulineですね。ジョゼフ Joseph の女性形は、ジョゼフィーヌ Josephine。 アンドリュー(アンドレ)Andrewは、アンドレア Andrea、などなど。

とにかくピッパはキリスト教的な名前。だから信仰心篤く、詩を歌いながらなんども神様に言及します。

使徒フェリペはイエスの死後、ユダヤ人のイスラエル地方を離れて、ヨーロッパ南部のギリシア地方にキリスト教を広めた聖人としても知られています。

きっとピッパが野を歩いて神の世界の美しさを野蛮な人たちの世界で歌いながら歩く姿は、使徒フェリペを彷彿とさせるものです。

長大な「ピッパが通る」は四部からなる長大な劇詩。

こういう赤毛のアンを思わせるピッパの饒舌から劇詩は始まります。とてもリズミカルな少女の歌。

Day!
Faster and more fast,
O'er night's brim, day boils at last :
Boils, pure gold, o'er the cloud 一 cup's brim
Where spurting and suppressed it lay,
For not a froth-flake touched the rim
Of yonder gap in the solid gray
Of the eastern cloud, an hour away ;
But forth one Wavelet, then another, curled,
Till the. whole sunrise, not to,be suppressed,
Rose, reddened, and its seething breast
Flickered in bounds, grew gold, then overflowed the world.

Dayという言葉は、今日という日と, 陽の光と、どちらも意味しているので、日本語には美しく訳しようがないですね。

今日のお日様、もっともっと速く。夜の淵を沸騰させて黄金の輝きで満たして。
説明的な訳ですが、こんな感じ

こんな感じで朝日の素晴らしさを褒め称える歌から長い劇詩の始まり。わたしにはこのピッパが天真爛漫なアンと重なり合います。

明るくて天真爛漫に神様を信じているピッパのおしゃべりな独白モノローグと、続きの暗い人生を後ろめたく生きている様々な登場人物たちの世界が対比されてゆきます。

続く部分では不倫カップルは女の旦那を密かに殺しています。
男女ふたりはピッパの無垢な歌「春の朝」を聞いて、罪の意識に慄くのです。

神、空にしろしめす
全て世は事もなし

名前は意味深いものです。

また14,15歳とされるピッパと同世代の、男に媚びを売ることで生計を立てている世間知に富む貧しい娘たちや、遺産を受け継ぐために身内を殺した司祭に管財人、芸術家の卵と病弱な恋人など、いろんな人生を送る人たちの傍らを、年に一度の休日の春の日の道を歌を歌いながら、ピッパは歩いて行くのです。

誰もがピッパの歌を聞いて、自分とピッパの信じる世界との違いへと思いを馳せて心動かされるのです。

ピッパの最後の言葉

朝の目覚めから始まったピッパの一日の物語、夜には家に帰り着いてこういう詩で劇詩を締めくくります。

All service ranks the same with God - 
With God, whose puppets, best and worst,
Are we: there is no last nor first.
全ての仕事は神においては同じもの、
誰もが神様の操り人形のようなもので、最良も最悪もない、
私たちには。最後の人も最初の人もいない

神の目の前には誰でも平等で、こんな諍いや偽善に満ちた世界でも神様には美しい世界。ピッパはこんな想いで生きているのです。

非常に「赤毛のアン」的な世界ですね。

モンゴメリはこんな楽天的なブラウニングの世界を小説にしたのでは、とわたしは思うのです。

「赤毛のアン」の百年後に書かれたウィルソンの前日譚には、何度も何度もブラウニングが引用されます。創作に作者ウィルソンがブラウニングの世界観を下敷きにしようとしていたことは明白です。

そしてだからこそ、「こんにちはアン」は続きとなる本編「赤毛のアン」の世界観そのままで破綻なく子供時代の幼いアンを見事に描き出したのだと思います。

希望に満ちた言葉「曲がり角の向こう」

曲がり角に何が待っているのか分からないけれども、でも一番いいことがあるんだって信じるわ

どんなに悲惨な中でも明るく生きてゆけるアンの生き方は、誰にでも希望を与えてくれるのです。ピッパの分身のような少女なのですね。

でもピッパとは違って、アンは悲劇的な世界を傍観者として通り過ぎるだけではなく、孤児として苦難を乗り越えてゆきます。ピッパのような朗らかさを忘れないで。

ピッパは休日に街を歩き回るだけ。でもアンはその先まで、曲がり角を曲がって別の世界へと足を踏み入れます。絹糸紡ぎのピッパとは違って、孤児のアンには帰る家はないからです。

モンゴメリのThe Bend という言葉、何度も「こんにちはアン」に登場します。

赤毛のアン原作の最終章は「道の曲がり角」The Bent in the roadと題されています。

「いまは休み時間だって思えばいいんだよ。
人生にはたくさんの曲がり角がある。
次の曲がり角を曲がったら、全く別の人生が開けているんだ」
今は亡きアンの父親ウォルター・シャーリーの言葉
「こんにちはアン」第22話より

小さなアンの曲がり角の向こう。

「こんにちはアン」の物語の後半は悲惨なものです。でもそれでも、その先には、やはりブラウニングのピッパの言葉のような明るい世界があるのだと願っても止まないのです。

子供の本、そしてアニメには勇気づけられます。

希望を信じることは素晴らしい。物語のアンは苦難の中でも、想像力で明るい世界を切り開いてゆくのです。

何にでも名前をつけたがることも、世界を明るく変えてゆく力が備わっているアン。

名前を与えることとは、自分の世界に希望を与えること。希望とは想像力の力であり、明るい世界を夢見る想像力とは、生きる勇気なのだと思います。

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Logophile
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