ナポレオンとクラシック音楽(5): ネルソン提督と愛国者ハイドン
ナポレオンは大陸軍 La Grande Armée と自ら名付けたフランス軍を縦横無尽に駆使して、欧州大陸において、自身が指揮した戦闘においては、ほぼ無敵の天才軍事指揮官でした。
フランス革命後のナポレオンの擡頭は、イタリア戦線における大活躍のため。
旧・体制のオーストリア
当時のイタリア半島の多くがハプスブルク帝国に支配されていました。
ナポレオン率いたフランス軍の相手は、古い秩序を重んじる誇り高き騎士団に率いられたオーストリア軍だったのです。
騎馬隊を重んじる貴族中心の部隊からなるオーストリア軍は (貴族とは戦う階級なのです)、ナポレオン率いる徴兵や志願兵と言った平民部隊に蹂躙されます。
騎馬隊相手に鉄砲でシステマティックに相手を仕留めてゆく新しいフランス軍に対して、無惨にも敗れてゆく古いオーストリア軍は、我が国の長篠の戦いの武田騎馬軍と軍事訓練を受けた足軽隊の鉄砲との対決にもどこか似ています。
1796年から1797年のイタリア戦役において、カスティリオーネやロディ、アルコレなどで、オーストリア軍は連戦連敗。
一年のうちに四度もフランス軍に打ち破られてしまうことで、伝統あるオーストリア帝国軍の権威は失墜。イタリア方面指揮官の若きナポレオンは一躍解放者として全ヨーロッパにその名を知らしめます。
オーストリアにとっては、まさに悪夢以外のなにものでもありませんでした。
愛国者ハイドン
ハンガリー・オーストリア二重帝国=ハプスブルク神聖ローマ帝国に忠誠を誓う愛国者のヨーゼフ・ハイドン (1732-1809) は、愛国心を鼓舞する愛国歌を作曲。弦楽四重奏曲の第二楽章に歌詞を付けて「皇帝讃歌」を苦境にある皇帝フランツ二世に捧げるのでした。1797年から1798年にかけての作曲。
しかしながら、ハプスブルク神聖ローマ帝国の瓦解は時間の問題でした。帝国は1805年のアウステルリッツの三帝会戦の後に消滅します。
現在にまでドイツ国歌として伝わる名曲は、こうした状況下で生まれたのでした。ナポレオン率いるフランス軍の脅威なしには決して生まれることのなかった国歌なのです。
1790年代後半、祖国オーストリアをこよなく愛する老ハイドンは、祖国の存亡の危機への恐怖に苛まれて精神的に追い込まれてゆくのです。
二度の英国遠征旅行により、世界的な大作曲家と名実ともになった老大家は、三十年勤めたエステルハージ家の新当主ニコラウス侯爵二世 (1765-1833) に依頼されたミサ曲を毎年書き上げていましたが、 度重なる軍役により、オーストリア経済は破綻して、帝国一の大貴族エステルハージ家の管弦楽団さえも人員削減。
1798年の新作ミサ曲は、音楽を華麗に彩る木管奏者なしという、弦楽器とトランペットと打楽器という異例な編成で書かれたのです。柔らかな音色の木管楽器がないと、先鋭的な響きの金管楽器が極端に際立ち、また打楽器と喇叭の響きは軍楽隊を思わせるものです。
英国より帰国後、ハイドンは交響曲はもはや書かずに、ミサ曲の作曲に専念していたのでしたが、これらのミサ曲は、カトリックの典礼形式に基づいた合唱付きの交響曲ともいうべき、ハイドン晩年の大傑作となるのです。
ハイドン晩年の宗教音楽の大作として、ミサ曲が六曲とオラトリオが二曲、作曲されるのです。
ネルソン提督とミサ曲「ネルソンミサ」
そのようなミサ曲の一つが、ミサ曲第11番「不安の時代のミサ」、別名「ネルソン・ミサ」。1798年の作曲。
ハイドンの住むオーストリアが最も危機的状況に作曲された、ニ短調というモーツァルトのレクイエムと同じ調性の音楽。
「ネルソンミサ」のネルソンとは、英国海軍ホレーショ・ネルソン提督(1758-1805)、ナポレオンの天敵として知られた名将です。
イタリア遠征の後、英雄ナポレオンの大人気を持て余した、時のフランス政府は、イギリスの経済基盤であるインドからの貿易路であるエジプトへの遠征をナポレオンに許可するのです。エジプトを征すればイギリスは経済的に苦境に追い込まれることになるという目論見からでした。
ナポレオンはアレクサンダー大王を気取り、たくさんの学者を引き連れて(その成果の一つがロゼッタストーンの発見でした)南フランスのトゥーロンより地中海を横切ってアフリカ大陸へと向かいますが、ネルソン英国艦隊はナポレオンのフランス艦隊を捕捉できずに、ナポレオンのエジプト上陸を許してしまいます。
しかしながら、ナポレオン陸軍の上陸後、ネルソンはフランス艦隊を完全撃破。いわゆるナイルの海戦(アブキール海戦 1798年8月1日-2日)です。
ナポレオンのフランス軍は退路を断たれて、エジプトにおいて孤立してしまいますが、エジプト侵攻を中止せずに、やがて首都カイロを制覇。ピラミッドの傍らで兵士たちに対して「4000年の歴史が諸君らを見下ろしている」という有名な演説を行うのです。
ナポレオンに逃げられたネルソンは地団駄踏みますが、ネルソンのナイル沖海戦大勝利のニュースは約一月後にオーストリアにも届けられ、それがちょうどハイドンの新作ミサ初演の直前というタイミングだったのでした。
ハイドンは苦しみの中から生み出したニ短調の暗くて厳しい色調のミサ曲を指揮しながら深く感動して神に感謝します。
やがて地中海より英国に帰還したネルソンは、愛人であるハミルトン夫人と共に、1800年夏にオーストリアへと凱旋旅行を楽しみます。9月にウィーンを訪れた英雄ネルソン提督はハンガリーの大領主エステルハージ侯爵によって離宮へと招待され、彼の地で4日間を過ごすのでした。
ニコラウス一世(二世の祖父)の建てた離宮エステルハーザにおいて、ハイドンは救国の英雄と謁見。
歓迎式典では新作ミサ曲ニ短調が演奏されたとされていますが、信頼に足る一次文献は存在しません。
ネルソンのエステルハーザ滞在は9月6日から9日の四日間に及んだそうで、ミサ曲が書かれた目的であるニコラウス侯爵夫人の聖名祝日は、確かにネルソン提督滞在時だったので、ミサ曲が演奏されていてもおかしくもないのですが、演奏記録は残されていないそうです。
カトリックでは、自分の名を受け継いだ聖人の日を誕生日同様に祝うのです。マリア・ヘルメンゲルド夫人の名の日は9月8日でした。
いずれにせよ、19世紀にはネルソンのエステルハーザ訪問とニ短調ミサ曲は自然と結び付けられるようになるのでした。
1796年の「戦時のミサ」
「ネルソンミサ」に先立つこと2年、オーストリア軍が負け続けていた頃にも別のミサ曲を書き上げています。1796年のミサ曲第10番。
ハイドンがオーストリアの危機の時代に書き上げた音楽として「戦時のミサ (ハイドンによる呼称)」または「太鼓のミサ」という綽名で親しまれています。
太鼓とは、軍楽隊のドラムのこと。当時の戦争には、喇叭と太鼓の響きは欠かせないものでした。
不安を煽るドラムロールが大活躍するミサ曲を聴く者は、フランス革命の後すぐに勃発して、この時点で既に4年も続いていた終わりのない戦争を思わずには、このミサ曲を聴くことはなかったはずです。
ハイドンの交響曲第100番ト長調が「軍隊」という綽名を与えられているのは、第二楽章のティンパニとトランペットによる軍楽隊の響きの模倣ゆえです。
ハイドン晩年の六曲のミサ曲は、交響曲の父ハイドンが英国のために書き上げた十二曲のロンドン交響曲を超えています。ハイドンの作曲家人生の集大成に相応しい大傑作群です。
エンタメではない、シリアスなハイドン。これもまたハイドンなのです。
反戦の歌としてのハイドンのミサ曲
同じ思いを抱いた音楽家が二十世紀のアメリカにいました。
泥沼化していたベトナム戦争(1955-1975)の最中、ニクソン大統領はベトナム戦争早期終結を約して就任式典を行いますが、そこで選ばれた音楽は、ユージン・オーマンディ (1899-1985) 指揮によるチャイコフスキーの序曲「1812年」。
チャイコフスキーの音楽は、侵略者ナポレオンに対する、ロシア軍の勝利の音楽。この選曲がほのめかしているのは、アメリカのベトナムにおける勝利以外の何物でもありません。
一方、同じ日に無料の演奏会を近くの教会で催したのが、大人気指揮者レナード・バーンスタイン (1918-1990) でした。バーンスタインの選んだ曲目は、勝利者を讃える音楽ではない、勝者も敗者もいない、平和を希求する音楽。つまりハイドンの戦時のためのミサ曲でした。
「雨のコンダクター」
手塚治虫 (1928-1989) は、ニクソン大統領就任式典前夜祭の様子を短編漫画化しています。
ニクソン大統領の大統領就任は1969年1月22日。在任は1974年8月9日まで。この漫画はウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任時に雑誌掲載されたようです。漫画初出は1974年8月初出。
著作権侵害にならぬ程度に作品を引用してみます。
ナポレオンと立ち向かったオーストリアの危機を体現する音楽を最良の形で書き上げ、後世の我々に伝えてくれたハイドンの平和のための祈りの音楽に、より多くの方が興味を持っていただけると幸いです。
太鼓ミサの由来となった、不安を煽るドラムの響きが支配する終曲アニュス・デイをお聴きください。