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ニュース:「赤毛のアン」再アニメ化

わたしの過去記事を読まれた方はご存じかもしれませんが、わたしはルーシー・モンゴメリ作「赤毛のアン」が大好きです。

何度もアン・シャーリーについて書いてきました。

自分の人生に影響を与えた文学作品の一つとしても選び、英語学習の教材として原書を読みまくり、また実写映画やアニメなどの二次作品にも親しんできました。

Xを眺めていると、次のようなツイートを見つけました。

「赤毛のアン:Anne of Green Gables(グリーンゲィブルスのアン)」が来春NHKから「アン・シャーリー」としてアニメ化されるのだそうです。

公式Xより

日本での本格的なアニメ化としてはこれが二度目。

名作「赤毛のアン」は、1979年の世界名作劇場作品が最初のアニメ化でした。

毎週日曜日に一年をかけて放映された、全50話という本格的で長大な作品。

1979年の作品は、海外でも不滅のアニメとして、いまも愛されています。

ハイジが嘘だらけであるとして本国スイスで嫌われているのとは異なり、アンはカナダ本国でも愛されています。

アン大好きというカナダ在住の方が日本の古いアニメを見つけて、世界中のどんなアンの二次創作よりも素晴らしいと絶賛していたのを以前ネットで読んで、我が意を得たりとほくそ笑み(笑)日本アニメの凄さを改めて誇らしげに思ったものでした。

1985年の実写映画は素晴らしかったですが、実写では撮影が難しいことも手書きのアニメだったら全て可能だったのは良かったですね。

46年ぶりのアニメ化。

昭和の「赤毛のアン」は今では伝説となった高畑勲・宮崎駿コンビがスタジオジブリを立ち上げる前に手掛けた作品でした。

あまりに原作に忠実すぎてドラマがない!と不満を漏らした宮崎駿が途中で抜けてしまうというハプニングなどもありました。

一抜けした宮崎駿は自分が好きな冒険活劇の「ルパン三世・カリオストロの城」を作ったということです。

本国カナダをはじめとする世界中で映画などの「赤毛のアン」の二次作品が作られる中、世界で最も「原作に忠実」な日本の昭和アニメはいまもなお、そしてこれからも記憶され続けるであろう、20世紀の偉大なアニメです。

音楽は日本の現代音楽を代表する大作曲家三善晃と弟子の毛利蔵人が主題歌を担当したなど、今日の水準と比べても音楽は特に格調の高いものです。

世界名作劇場の音楽はどれも素晴らしいのですが「赤毛のアン」は特に素晴らしかった。

わたしは作曲家毛利氏と三好氏が監修したピアノスコアを持っていますが、アニソンなのにあまりにも難しい音符。

初見では全く弾けなくて、何度も練習してようやく弾けるようになったという思い出深い曲です。

シンコペだらけで縦の線揃わず、リズムがとても難しい、まさに20世紀の現代音楽がそのままアニソンになっているのです。

だから新作アニメ、前作を超えようとはしないで、全く別の作品を志向するのが良いですね。リメイクはダメです。

わたしが注目したのは

原作:モンゴメリ著・村岡花子訳「赤毛のアン」シリーズ(新潮文庫刊)
『赤毛のアン』
『アンの青春』
『アンの愛情』

と公式ウェブサイトに書かれていた点です。

原作「赤毛のアン」は、11歳の孤児アン・シャーリーが男の子と間違われてカスバート家に引き取られて16歳の大学受験までの成長物語が描かれる、いわゆる

Bildungsroman ビルドゥングスロマン

教養小説と訳されます
ドイツ文学では
若者の精神的成長を描く小説
が規範となりました
ゲーテ・マン・ヘッセなどが代表作家
フリードリヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラ」
も同じタイプです

なわけですが、本書の売れ行きがあまりに良かったために、作者モンゴメリは続きを書くことを出版社から乞われて、続きを書き続けたのでした。

アンシリーズは何年にもかけて書き継がれました。

モンゴメリは最初の「赤毛のアン」以外は、出版社のために嫌々書いたのだそうです。

そしてご本人の言葉通り、確かに続編以降は最初の本ほどには魅力がありません。

けれどもアンの小学校教員時代を描く16歳から18歳までの二冊目「アヴォンリーのアン(アンの青春)」はそれほど悪くないです。

「結局のところ」アンはマリラにこういったことがあった
「最も素敵で気持ちのいい日っていうのは
華麗で素晴らしいことや刺激的なことが起こる日ではなくて
単純で小さな喜びが
まるで真珠が結ばれたひもから真珠がすべり落ちてくるように
そっと続いていくような日
なのだと思うの」
平凡な幸せが一番、幸せは毎日の中にある
 というモンゴメリの哲学
「アンの青春」より

三冊目「アイランドのアン(Anne of the Island: アンの愛情)」になるとアンは裕福に暮らしながら勉強だけしていられるという大学生になります。

全然面白いと思いませんでした。

アンは苦学生ではありません。

確かに教員をして自分でお金を貯めて自分のお金で大学にゆくのです。何の問題もありません。経済的に他人に頼らないのでむしろ立派なことです。

でも問題がないからこそ、面白くない。立派過ぎる。

大学生らしい恋愛だとか、19世紀終わりの学生生活や風俗のお話が中心となり、最初の本の言葉を借りれば、想像力を働かさなくても、毎日がそれなりに楽しいのです。

「赤毛のアン」の魅力は、恵まれない孤児として充たされなかった想いを思い切り想像力を働かせて幸福になろうとしていたことでした。

極度のおしゃべりも空想癖もみじめな境遇に置かれていた劣等感の産物でした。

コンプレックスが彼女の想像力の源泉

だから赤い髪を「にんじん!」とからかわれると過剰反応してしまう。

けれども、アンはカスバート家という良い家庭に拾われて、女子は大学などほとんど行けなかった時代に大学まで行けるほどの恵まれる境遇の女の子になります。

さらには小説が懸賞で認められるなど、ほとんど成功ばかりが描かれる物語は自分にはあまり興味深いものではありませんでした。

後半の物語には苦難があまりにもなさすぎるのです。

波乱万丈だった一冊目の感動は、二巻以降にはほとんど認められないのです。

古典作品と歴史的作品の違い

続編以降は20世紀初めのラノベ(ライトノベル)レベルの本。

古典的価値はありません

歴史的な作品としてファンには読まれているけれども。

古典作品と歴史的作品の違いについてはまた別の記事で語ってみたいですが、全ての古い作品は古典にはなりません。

クラシック音楽の例では、交響曲の父ヨーゼフ・ハイドンの数多いオペラ作品は18世紀を代表する歴史的な作品ですが、古典ではありません。

あれほどに偉大な「古典の中の古典」作品をたくさん遺したハイドンでしたが、劇場作品創作に関しては、努力の人ハイドンの作品は凡庸でした。

当時の水準以上の力作を数多く完成させて、ハイドンを寵愛したエステルハージ侯爵を喜ばせましたが、ハイドンはモーツァルトに出会って、己の才能のなさに絶望しました。

ハイドン作品は当時の人気作曲家サリエリの作品などと比べても遜色ないものですが、モーツァルトには劇作に対する天賦の才がありました。

劇をどのようにすれば面白くなるのかに関する優れた人間心理への洞察力とそれを音化することのできる音楽的才能が備わっていたのがモーツァルト。

18世紀のモーツァルトが、19世紀のヴェルディ・ヴァーグナーや20世紀のプッチーニ・リヒャルト・シュトラウスらと同じく音楽史上最大のオペラ作家であるゆえんです。

モーツァルトオペラはいまもなお、世界中の歌劇場のどこかで必ず上演されています。22世紀になってもきっと上演され続けています。

モーツァルトオペラには18世紀音楽の枠組みを超えた普遍的な人間真理の真実が音楽として描き出されているからです。

けれども、ハイドンやサリエリのオペラは18世紀という時代の中においては価値を持っていても、時代背景が変わり、風俗文化が変わると理解することが難しくなる作品でした。

例えばハイドンには「月の世界」という、18世紀人が考えた月の生活を描いた喜劇がありますが、まだ科学的に月面がどのようなものかを知らない18世紀人が月の暮らしを空想することは面白いけれども、21世紀人にはあの頃の人たちはこんなことを考えていたのかという歴史的興味以上には面白くはありません。

音楽も、やはり台本が荒唐無稽なのに宇宙的な広がりを感じさせるモーツァルトの魔笛と比べると、想像力を喚起させる点においてまさに月とスッポンです。

ハイドンのオペラはヒストリカルだけれども、クラシックと呼ばれるに値しない。

ハイドンオタクな自分にはあまりに残念な事実です。

わたしはいつも、時代を超えているモーツァルトのオペラはクラシックだけれども、宮廷文化と貴族社会文化の産物であるサリエリやハイドンのオペラはヒストリカルだと語ります。

史実のアントニオ・サリエリは、映画「アマデウス」のサリエリは違って名教師で良い人でした。

けれども良い人、善人であることと優れた芸術家であることは別問題です。

自分の文学的評価としては現実世界では恵まれなかった孤児アンが類まれなる想像力を膨らませてまだ見ぬ世界を誰も知らない視点から考え直させる「赤毛のアン」は普及の名作、世界文学史上の古典です。

映画の大傑作の2や3のついた続編が第一作目の水準に達したり第一作を超えるようなことがほとんどないように、第三作「アンの愛情」以降の物語には古典的価値は皆無であると私は思います。

自分としては惰性で書かれたシリーズをもう一度読みたいとは思いません。

第三作目も英語原作で読みましたが、読みながら何度もあくびが出て、読み終えるのに苦労しました。

二作目の「アンの青春」は新しい双子の話や二十年前に恋人同士だった二人が再び結ばれるお話など、なかなか面白いかった。こちらはすぐに読めました。

けれども三冊目、一番最後に最初の本で赤い髪を「ニンジン🥕」とからかって、怒りに任せて石板で頭を思い切り打ちのめして絶交したギルバートと終に恋仲になるので、やはりここまでは読むべきかもしれません。

第四作目は婚約した二人が遠距離恋愛をして手紙を交換し合う日々の物語。

というわけですが、新作アニメ「アン・シャーリー」は世界名作劇場の「赤毛のアン」のリメイクではなくて、原作は最初の三冊分(後半の原作第二巻第三巻をどう扱うかはアニメ制作者次第)

アン・シャーリーと呼ばれた赤毛の孤児院の女の子がギルバート・ブライスという聡明な男性と結ばれるまでのお話に新作アニメ「アン・シャーリー」はなるのでしょう。

したがって世界名作劇場の「赤毛のアン」のような密度は期待できませんが、これまで映像化されることのなかった「アンの青春」や「アンの愛情」の興味深いエピソードはアニメとして初めて映像化されるのかもしれません。

現時点(2024年12月:放映まで4か月前)ではまだXにもアニメの舞台となるアートイメージなどしか出てきていません。

来年の放送開始が待ち遠しいですね。

まとめ:

「赤毛のアン」の古典性:

  • 孤児として児童労働しないと生きてゆけなかった、学校にもゆけなかった幼いアンは、友達も誰一人いなくて、鏡の中の自分に別の名前を与えて話しかけていたような孤独な女の子

  • 想像上の友達(Imagenary Friend)を持ち、誰よりも豊かな想像力とまだ見ぬ世界に憧れを持つ少女となった

  • 自己肯定と自己顕示のためにおしゃべりをやめられないアンは、他の子供ならば与えられて当たり前だった権利や経験を持ち得ていなかった劣等感ゆえに誰よりも努力した

  • 自分で考えて必死にトライ・アンド・エラー(試行錯誤)する小さなアンの姿は、大笑いしてしまうような失敗談も含めて、読者の誰もが共感して、彼女を愛さずにはいられない

  • いつの時代にもいるかもしれない、やせっぽちであまり見栄えの良くないけれども誠実な心を持つ赤毛の女の子、それがアン・シャーリー

  • 古典の中の古典:少女文学ではなく、劣等感を持つ人が回り道をしながら自己肯定を学んでゆく物語は男の子も男の人も読むべきで、わたしのようなアラフィフ男性さえも感動させる

「アンの青春」「アンの愛情」が古典たりえない理由:

  • 孤児のハンディキャップを乗り越えた十代後半のアンは、もう誰にも負けることのない優秀な女の子

  • 二作目以降のお話の面白さは、孤児となって新たにカスバート家に引き取られた双子のディヴィーやツンデレの隣人とのエピソードなど、むしろアン以外の登場人物の魅力にある

  • もはや優秀過ぎるアンの苦労譚は物語の中核とはなりえない、読者は共感できない

  • のちに戦争(第一次世界大戦)に巻き込まれて子を失うなどの悲劇が時折訪れるけれども、大人になったアンは家庭を持ち良い夫と子宝に恵まれて平凡な幸福を獲得する

  • 孤児として苦労したアンを幸せにしてあげたかった作者モンゴメリのアンへの思いやりだったとしても、幸福になったアンの物語は筋書きを追うだけのお話で文学的価値は希薄

アニメ「アン・シャーリー」はギルバートとのラブストーリーをロマンティックなラブコメとして演出すると楽しいかも。ギルバートは仲直りしようと十年もかけてアンに執着して気にかけていたのですから。

だからギルバート視点をアニメで膨らませてラブコメにすると、アニメとして素晴らしいものになると期待しています。原作のイメージを壊すことのない範囲内で思い切り原作から逸脱するといいですね(笑)

原作ではあまり活躍しないギルバートに光を当てるとアニメはきっと成功します。作者モンゴメリは男性心理を書くのが苦手だったみたいですから。

アニメが原作に忠実である義務はないのですから。


おまけAI画像:

赤毛のアンのAI画像を作ってみました。

孤児院から電車に乗って一人でアヴォンリー駅までやってきた11歳の女の子アン・シャーリーです。物語の一番最初の場面。

アニメと違った感じにしてみたかったので、AIまかせにすると、なんだか不良少女みたいですね(笑)

アンを実の娘のように可愛がったマシュー・カスバートと16歳のアン・シャーリー。

もっと歳を取ったらマシューのようになりたい笑。

なぜか赤毛にならなかった
マシューのイメージは完璧
詩を詠唱するアン
アイスクリームを食べるアン
チビアニメ(笑)
アメコミ風
ファンタジーアート風

遊んでいるとキリがないですね。

アニメが始まるまでに、是非原作を読んで下さいね。

英語が読める人はできれば英語で。

古典の素晴らしさは物語を知っていても何度でも楽しめること。

読むたびに新しい発見がある本が真の古典です。

2025年の「アン・シャーリー」

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