ノクターンの歴史:知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(3)
夜を意味する
は、次のようなヨーロッパ語を生みだしました。
Night(英語)
Nacht(独語)
Nuit(仏語)
Notte(伊語)
Noche(スペイン語)
19世紀になると、これらのキーワードが特別な意味合いを持って理解されるようになり、芸術家たちの創作意欲をそそるようになります。
音楽の世界では夜を想う音楽が盛んに書かれるようになるのです。
未知なるものへの憧れを特徴とするロマン派音楽は、夜という「昼間ではない」世界を特別視することにも大きな特色があったのです。
夜は物理的に太陽の光がない不便な世界。
陽が沈んだ後の家庭を照らす光はか細い蝋燭の灯りだけ。
月明かりでは明るさが足りなくて仕事はできません。
ランプのための灯油はとても高価なものでしたからね。
休息や眠るための時間が夜というのが18世紀以前の世界でした。
個人が世界で最も尊いと見做した19世紀のロマン派の芸術家たちは、しかしながら、そのような不便な夜を
として神聖視するようになったのです。
19世紀に生まれた新しい考え方です。
欧州における夜の概念は、フランス革命前後を境にして、全く変わってしまったのです。
新しい夜のポジティブなイメージ:いわゆるロマンティックで甘美な月夜みたいな世界。宗教的な法悦、眠りの延長である甘美な死への憧れまで。シューベルトのノットゥルノ、ジョン・フィールドやフレデリック・ショパンのノクターンはこの部類。ドビュッシーのノクチュルヌも。
新しい夜のネガティブなイメージ:漆黒の闇の恐怖と孤独と絶望。魑魅魍魎の蠢く世界。ローベルト・シューマンやエクトール・ベルリオーズやグスターフ・マーラー、モーリス・ラヴェルの夜の音楽はこの部類。
創始者ジョン・フィールド
18世紀にも夜のための音楽は存在していましたが、それは1日の愉しみを引き延ばすための娯楽音楽でした。
炎を灯して人工的に夜中に薄暗い昼間を現出させて楽しんだロココ貴族のための音楽が、モーツァルトのノットゥルノやナハトムジークでした。
19世紀の個人主義の時代になると、18世紀のロココ貴族にノットゥルノやナハトムジークと呼ばれた小夜曲は姿を消してしまいます。
夜という言葉は新しい意味合いを与えられて、まったく別種の音楽を生み出したのです。
小夜曲から夜想曲へ
18世紀の夜の音楽は「小夜曲=昼間ではない夜のためのおとなしい音楽」と一般的に翻訳されますが、19世紀のロマン派時代の夜の音楽は「夜想曲=夜を想う音楽」と訳されるようになります。
ロマン派音楽の在り方を想うとき、「夜想曲」という訳語は見事です。
夜を想う音楽は、ロココやバロックの伝統とは全く関係のない世界から生まれました。
新しい音楽ジャンルを創始したのはアイルランド出身のジョン・フィールドだったのです。
若いフィールドは守銭奴の師匠ムツィオ・クレメンティにロンドンでこき使われて、ロシアのペテルブルクやモスクワにまで連れてゆかれます。
1802年のことでした。
阿漕な楽器商人の師匠の片棒を担がされてピアノを売る傍ら、練習曲を書いて売りまくる師匠クレメンティとは違って、師匠とは全く異なる芸術的な作品の創作を心掛けたのがジョン・フィールドなのです。
日が昇らない時間が長い北方のロシア。
冬には白夜やオーロラさえも拝める幻想的な星空。
というロマンティックな19世紀の考え方は、永い夜を過ごす人たちには画期的でした。
ロマンティックな夜という発想がフィールドのノクターン創作のインスピレーションとなったことに間違いないことでしょう。
フィールドの最初のノクターン、第一番は1812年に書かれました。
いやいやながらも師匠に連れられて住むことになったロシアに30年近く暮らすことになるフィールド。
文化後進国とみなされていたロシアにあまりに長い間暮らしたために、フィールドは西欧的音楽をロシアに普及させた功労者として知られるほどにもなります(西欧諸国はロシアを文化的に野蛮な国だと見下していました)。
寒くて暗いロシアにおいて、フィールドは西洋音楽普及に尽力したのです。
ロシア音楽の父ミハイル・グリンカに数回ピアノレッスンを授けていて、グリンカはフィールドを生涯尊敬したといわれれています。
1828年に24歳のグリンカが作曲したノクターンは恩師フィールドへのオマージュです。あまり知られていませんが素敵な曲ですよ。
この同じ年1828年に、最晩年のシューベルトがウィーンでピアノ三重奏曲「ノットゥルノ」を作曲していますが、大天才シューベルトをもってしても、ドイツ音楽の伝統からは新しいタイプの夜の音楽は生まれませんでした。
シューベルトの名作「ノットゥルノ」はモーツァルトの小夜曲の伝統を引き継いでいる音楽で、夜を想う音楽としてのフィールドの独創性は大変に際立っています。
やがてアイルランド人フィールドがロシアで書き続けたノクターンの楽譜を入手して、ノクターンを作曲したのがフレデリック・ショパンでした。
最初のノクターン(遺作のホ短調)が書かれたのは1830年。
現在ではノクターンと言えば誰もがショパンを思い浮かべて、ほとんどの人がフィールドを知らない有様です。
そしてショパンのノクターンと言えば、誰もがまず「作品9の2」を思い浮かべます。
クラシック音楽にまったく親しまない人も「作品9の2」のメロディを
として認識できるくらいに。
この世界で最も有名なピアノ音楽には「星月夜」のような特別な渾名はありません。
「ショパンのノクターン」と言えば、誰もがこの曲を連想するので、ニックネームなんて必要ないのです。
実はこの曲はフィールドの「ノクターン第五番変ロ長調」の剽窃と呼んでも語弊がないほどにメロディラインと曲構成がそっくり。
複合拍子であること(八分の十二拍子)も全く同じ。
調性はフィールドの変ロ長調と5度の近親関係にある変ホ長調。なのでこれもほぼ同じと言えるでしょう。
ショパンがフィールドの音楽を模倣したのは歴史的事実です。
けれどもショパンとフィールドは全く違う。
フィールドのハーモニーは当時の標準の語彙を少し効果的に用いただけだけれども(減7和音はとても美しい)ショパンは彼以外には誰も書きえなかった独創的なハーモニーでメロディを彩ったのでした。
この有名曲の和声を分析してみると、ショパンが数百年に一人の大天才であることが分かります。
フィールドの明るくて楽しい白夜の世界は、ショパンの天才によって超現実なロマンティック世界に変貌したのです。
しかしながら、あくまでサロン音楽が意図されているので、ローベルト・シューマンのような邪悪で不気味な闇を描き出そうとはしていません。
シューマンのあまりに深刻で難解な音楽は全く売れずに、サロン音楽のショパンが大好評を博したのは当然のことでした。
ショパンのノクターンはどれほどに内に沈んでしまっても、どこまでも愛らしくて甘美なのです。
ショパンとフェリックス・メンデルスゾーン
フィールドやショパンとは全く違った夜の音楽を描き出したのはメンデルスゾーン姉弟でした。
幼少よりヨハン・ゼバスティアン・バッハの厳格な対位法と曲構成の音楽に慣れ親しんできたファニーとフェリックスには、フィールドやショパンの幻想世界はあまりに異質なものでした。
ちなみにフェリックス・メンデルスゾーンは、1832年2月25日の記念すべきショパンのパリ・デビューコンサートに出席しています。
ショパンは自作からは室内楽版の「ホ短調協奏曲」や「お手をどうぞ変奏曲」を演奏しています。
フランツ・リストやクララ・ヴィーク(結婚前のクララ・シューマン)らも同席していましたが、メンデルスゾーンはショパンの繊細で詩的な演奏表現を絶賛、握手して手紙などにも書いてコンサートの模様などを伝えていますが、メンデルスゾーンはクララやリストのようにショパンの音楽に夢中になることは生涯ありませんでした。
バッハを徹底的に教え込まれていたメンデルスゾーンには、ショパンの幻想世界はあまりに異質だったのです。
ロマンティックな古典主義者メンデルスゾーンの書くノクターンがショパンのものと全く違う音楽になるのは当然なことでした。
フェリックスの作曲した劇付随音楽「夏の夜の夢」(作品62:1842年出版)のノクターンから響いてくる夜の歌は、明るい月夜の妖精たちの歌。
ノクターンと呼ばれるけれども、フィールドや、フィールドに倣ったショパンとは何の関係もないのは、フェリックス・メンデルスゾーンのノクターンはシェイクスピア原作の英語由来のノクターンだからです。
フェリックスのノクターンの描き出す夜の森の中には、シューマンやリストが描き出すような暗い魑魅魍魎はどこにも潜んでいなくて、ロマンティックな恋の夜の調べを笛や角笛で奏でる無邪気な妖精たちばかりが遊び回っているのです。
なんて美しい夜なのだろう。
ファニー作曲のノットゥルノ
さて、ようやく本題ですが、弟フェリックスとも全く違ったメンタリティを持っていたお姉さんファニーは素晴らしい夜の歌を書いています。
もちろん生前には未発表だった遺作です。
いまでもこの曲はプロのためのコンサートホールの定番演奏曲には含まれていないし、ピアノ学習者もまずほとんど知らない。
これほどの名作なのに。
わたしはフィールドやショパンのノクターンよりもファニーの知られざる名作を愛しています。
ファニーの夜の歌
たくさんの音素材を使わないで限られた素材だけを使って音楽を展開してゆくというのがヨハン・セバスティアン・バッハ以来のドイツ音楽の伝統。
ファニーのノットゥルノは厳格に四拍分の長さのテーマが同じ音型を保ちつつ、次第に色合いを変えてゆくことで展開してゆきます。
この執拗さがファニーの音楽の秘密。
薄暗いト短調でノットゥルノは始まります。弱音の三度の和音から。
繰り返されるたびに、音型は同じでも微妙に音の高さがずれてゆき、色合いを変えてゆく(和声分析は専門的になりすぎるので控えます)。
淡い光がほんのりと薄暗闇の中に浮かび上がるかのような微妙な音の変化。
明るい光が差し込んだとしても、光が自分自身を照らし出して、作曲者ファニーはその影を見つめている、そんな趣の作品です。
残念ながら、20世紀から活躍している巨匠演奏家たちでこの曲を取り上げて演奏している人は全くいないのです。
名曲は名演奏家が作り出すものです。
音楽的につまらない曲でも、名演奏家が取り上げると名曲として脚光を浴びるし、世紀の名作だとしても(このファニーのノットゥルノのように)名演奏家が取り上げてくれないと、いつまでも忘れられた作品のままであり続けるのです。
バッハの無伴奏チェロ組曲がそうでした。
存在はずっと知られてたけれども、作曲されてから180年後の20世紀の初めにスペインのパブロ・カザルスが演奏会で頻繁に公開演奏するようになって、初めて名曲の仲間入りをしたのです。
フェリックスの「無言歌集」を全曲録音しているダニエル・バレンボイムのような現代有数の大音楽家が弾いてくれたら、この曲の知名度も上がるのですが。
この曲の楽譜が一般的に知られるようになったのは、つい最近の21世紀になってからのことです。
だから古い名演奏家たちのレパートリーには入っていないのは仕方のないことなので、有名になるとすれば、まだまだこれからのこと。
20世紀には楽譜入手は困難でしたが、いまでは楽譜はIMSLPで無償でダウンロードできます。もっと演奏されてほしいものです。
1838年の作曲
次の録音は、ファニーの時代の低い調律(現代の標準442hzよりも低い432hz)に合わせられたピアノで演奏した録音です。
暗い色調には低めの音がよく似合います。
この曲が書かれたのは、ショパンやフェリックスやシューマンやリストが大活躍していた1838年。
1838年のショパン:ドラクロワがショパンとサンドの肖像画を描き、11月にはマヨルカ島に逃避行。
1838年のローベルト・シューマン:シューベルトの遺作「大ハ長調交響曲」を発見して友人フェリックスに世界初演を依頼(上演は翌年1839年)。「子供の情景」を作曲するも、クララとの結婚を猛反対する父親との醜い裁判の真っ最中だったのがローベルトの1838年。
1838年のフランツ・リスト:愛人マリー・ダグーとイタリア各地を転々。故郷ハンガリーで起こった大洪水の被害者のためのチャリティーコンサートを開催(リストはフェリックスに勝るとも劣らぬ善人です)。1847年のピアニスト引退まで平均で三日に一度、ピアノリサイタルを続けるという超人伝説が始まろうとしていたのが1838年でした。連続演奏会は翌年から。
ベルリンのファニーは、大好評だった日曜日ごとの私設管弦楽団による定期演奏会を組織することに忙しい日々を送っていました。
ファニーのコンサートは大都市ベルリンの知識人たちの集いの場として有名だったのです。
主な常連は:
弟フェリックス
大家族メンデルスゾーン家の面々
フェリックス同様に神童としてゲーテに可愛がられて、ベートーヴェンとゲーテを引き合わせたことで有名なベッティーナ・フォン・アルニム(旧姓ブレンターノ)
高名な地理・博物学者アレクサンダー・フンボルト教授
ベルリンを訪れたときにはリストやクララも必ず出席。
おそらくパリやロンドンでもあり得なかった、当時最高レヴェルの絢爛豪華なコンサートをほぼ毎週主宰していたのがベルリンのファニーだったのです(日曜日定期演奏会の詳しいお話は次回以降に)。
ファニー作曲の「ノットゥルノ」は、日曜日コンサートでファニー自身の手によって初演されたことでしょう。
もしいつか、彼女の肖像画が弟フェリックスと一緒に日本の学校の音楽室の壁に飾られるようになるとすれば、彼女の第一の代表作として紹介されるようになる最有力候補のひとつは「ノットゥルノ・ト短調」です。
ショパンやフィールドとは全く違った夜の音楽。
暗い影の中で光を追い求めているような音楽。
渦巻く暗い情念の果てに差し込んでくる光。
ファニーのノットゥルノ、できるだけ多くの人たちに知られるようになってほしいです。
次回は4:「無言歌誕生秘話」。