図形楽譜よりも面白い楽譜
楽譜は、読み方のわからない人には、記号でしかないものです。
古代エジプトやマヤ文明の象形文字とか、表意文字ならば、意味がわからなくても、立派なアートですよね。
現代語でも、アラビア文字には幾何学的な美が宿っているものです。こういうアートなアラビア文字もあります。
アラビア文字は表音文字ですが、本当に独特ですね。モンゴル文字やタイ語も素敵です。
もちろん象形文字の漢字を今も継承していている日本語も図形的に素晴らしい。
前衛書道は現代アートそのものでもありますね。普通の書道でも流れるような名人筆先から生まれる文字は芸術です。
楽譜は記号?
さてここから本題です。
楽譜にはたくさんの音符が書かれています。休符さえも、もちろん音符の一部。多彩な表情記号も山のようにあります。
ですが楽譜は作曲家の音によるコミュニケーションの手段としてはひどく不完全。どんなに作曲家が頑張っても、解読は困難を極めるものです。
音符とは、作曲家の意図した音に込められた思いを半分すらも伝えられない記号であると言われます。作曲家の頭の中に思い浮かんだ音響をこのように演奏して欲しいとどんなに音楽家が願っても、楽譜には限界があるのです。
曖昧極まりない、演奏家に解釈のほとんどが委ねられる音符というものは、詩の言葉のようなものですね。ですので、優れた指揮者だった作曲家マーラーは、自作の行間に山のような注意書きを書き込んだのでした。
記号だらけの楽譜は視覚的にアートに通じます。
音楽に親しまれない方も、幾何学模様=アラベスク(アラブ風の模様)として、楽譜の美を鑑賞する事もできます。最近ではインターネット上でたくさんの図形楽譜を見つけることができます。
現代作曲家のなかには、意図的に、演奏不可能な実用性の低いアートな楽譜をたくさん書いています。
アートな図形楽譜
こんなのはいかがでしょうか?
現代作曲家ジョージ・クラム (1929-2022) の楽譜です。この人の代表作である無伴奏チェロ作品を何度か聴いたことありますが、ああいうコンサートホールで実際に演奏される楽譜はもう少し伝統的な形式で書かれています。
ですが、これは演奏不能でしょう。
さらに別の作曲家から。すごいスラー。
これなら弾けそうかな。でも演奏できないならば思い切り遊びましょう。
ついでに余白も埋めて
こういう楽しいものがネットではたくさん見つかりますよ。ピンタレスト Pinterestがいいですね。
でも五線譜が発明される以前の中世の修道院でだって、楽譜書く人は飾り立てて遊んでたのです。
下の美麗な楽譜はグレゴリオ聖歌。五線譜発明以前に使用されたネウマ譜の時代は紙そのものか貴重だったので、神への捧げ物として、楽譜も美しく彩られました。
次のジョン・ケージのアリア、ある意味、非常に分かりやすい楽譜。音符なしの表情記号だけの作品。音符はもはや必要なし!
連なる音符は図形化して、音符間の数学性に着目すれば、幾何学的な図形的楽譜が白い紙の上に現出するのです。
ヨハン・セバスチャン・バッハの最も美しい図形楽譜
究極の数学的楽譜オタクはもちろんヨハン・セバスチャン・バッハ (1685-1750)。
バッハの真骨頂は、音符でできた個性的な音形が楽譜上で追いかけ合うフーガ、別名は遁走曲。つまり同じ音型(図形)が何度も遅れて違った音程から出て来たり、リズムが引き伸ばされたり、反転されたりして、楽譜上に何度も現れるのです。
でもフーガは音形がひっくり返ったり複雑に重なり合い、図形楽譜的にはイマイチなので(複雑すぎて視覚的な美しさがしばしば損なわれてしまうようです)、最も美しい楽譜として同じ音形が変形しないカノンを紹介しましょう
カノンというのは、「カエルの歌が聞こえてくるよ」を時間差で歌い継いでゆく輪唱のことです。小学校のカエルの歌は単純ですが、クラシック音楽の世界では、カノンの技法は何百年にわたって極められたのです。
セザール・フランクのカノン
このカエルの歌のようなカノンの最も美しいものは、19世紀フランスの作曲家セザール・フランク (1822-1890) のヴァイオリンソナタ・イ長調。
誰が見てもすごいと思わせて演奏して美しいクラシック音楽の楽譜の最高傑作です。
セザール・フランクのヴァイオリンソナタのフィナーレ、ヴァイオリンパートとピアノのソプラノパート、見事に一小節ずれていながらこれほどに美しい。これが36小節も続きます。
誰か見ても視覚的に素晴らしい音楽史上の奇跡。現代作曲家芥川也寸志は著書「音楽の基礎」で神の如き作品と褒め称えました。西洋音楽の究極の到達点のひとつです。
バッハ作曲のカノン
さてバッハです。
カノンとフーガ作曲の達人であるバッハには数多くの傑作がありますが、わたしが初めて見たときに驚愕したのが、かの「ゴールドベルク変奏曲」。
フーガを生涯愛したピアニストのグレン・グールド (1932-1982) の録音で広く知られていますが、この曲は楽譜を見てみないと本当の凄さが分かりづらい。
30もある変奏曲の三曲目ごとにカノンが配置されていますが、二度、三度、四度と順番に音程のずれたカノンが奇跡のように現れるのです。
でもゴールドベルク変奏曲は、楽譜を読まれない方には少し難しいので、視覚的に最も美しく、音楽に詳しくない方でも凄いと唸るカノン、遊び心溢れる、空前絶後のカノン作品を紹介いたしましょう。
バッハ晩年の「音楽の捧げ物」からです。
通常「蟹のカノン」と呼ばれていますが、なんとも不思議な楽譜。
よくもこんなもの作曲したものです。
この曲は二声で、一段目の楽譜は二分音符から始まります。でも二段目は四分音符。そしてよくみると、一番最後の部分。ここで上下が逆さまなのです。つまり一段目を演奏して終わりまで行くと、もう一度最後から逆さまに音符が始まるのです。
上から弾いても下から弾いても同じという不思議な音楽。バッハの書いた鏡面に映されたような不思議な音楽。
言語的には英語ではPalindromeというもの。 英語の「Madam」や「Racecar」という単語とか。
バッハの逆さま楽譜を実際に演奏してみた素晴らしい動画が存在いたします。この動画に感動しました。
カノンは図形楽譜の始祖。
中世の教会の頃から輪唱として歌われていてクラシック音楽の究極の作曲技法の一つ。
その他の有名なカノン
カノンはバッハやフランク以外の作曲家にも愛されています。作曲家の遊び心を伝える楽しい音楽。
ベートーヴェンのソナタ第六番のフィナーレも
ショパンのマズルカ作品50も
モーツァルトのふざけた声楽曲「俺の尻をなめろ」(Leck mich im Arsch) K.231。これには「AIきりたん」という人口音声を使用した「日本語」による面白い録音があります。モーツァルトが友人たちとふざけ合っている様子の窺える音楽です。
ベートーヴェンにも、親友のメタボ体質のシュパンツィヒをからかった、ふざけたカノンがありますが、到底モーツァルトには及びもしません。
他にもいろいろありますが、カノンは聞いているよりも、演奏に参加して演奏する方がずっと楽しい。フーガもいいですが、音形変化しない厳格なルールに基づくカノンは作曲的に究極ですね。
聴くだけでは分からないことが楽譜にはたくさん隠されていて興味深いものですね。でももちろん、眺めているだけでもいいのです。
楽譜もまた、見ているだけで楽しくなるアートなのですから。
美しい音楽は視覚的にも楽譜上で美しいのです。