「セクシー田中さん」という漫画
日本中を震撼させた漫画家の芦原妃名子 (1974-2024) さんの自死の報道から早一週間になります。
わたしは漫画を優れたメディアとして評価する人間なので、余暇には日本の漫画をたくさん読むわけですが、芦原妃名子という名前は今回の報道から初めて知りました。
目的遂行・問題解決を最重要課題だと認識してしまう典型的な男性脳を持つわたしには、解決策の模索よりも、問題を共有すること、問題について解決することよりも共感することを重んじる女性たちの心理描写に優れた少女漫画はあまり楽しくないのです。
でも優れた少女漫画は男女の境界を超えて胸を打つ。
性別を超えたアピールを持つ作品は不滅の名作です。
テレビドラマや映画にもなっても、ドラマが原作同様に大変に高く評価された「逃げるは恥だが役に立つ」や「のだめカンタービレ」や「ちはやふる」などは、今でも大好きな少女漫画です。
少女漫画というジャンルを超えた名作でしょう。
ジャンル分けなど意味がないと言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、漫画作品というものは誰に読んでもらうかを考えて作るものです。
今回の事件を通じて日本中に知れ渡った「セクシー田中さん」は明らかに女性向けの作品。
でもテレビドラマが放映された時点で、累計100万部を突破していた作品です。
男女の別を問わず、広く愛されている作品なのでしょう。
浅原さんと脚本家さんとの間にあったらしい確執には、すでにあまりに多くの言葉が飛び交いましたので、もはやわたしが何を言及しても屋下に屋を架すようなもの。
しかしながら、海外に住んでいるわたしには、日本文化の最も嫌な一面を見たようで本当に不快な報道なのでした。
死んでお詫びをするようなことは何もしていないのに、自ら命を絶たれた潔いアーティスト芦原女史のあの世における冥福を祈るばかりです。
事件の経緯はウィキペディアに詳細に記載されています。
さてこのように大変に残念な形から芦原さんの名前を死後になって知るようになったわけですが、折角ですので遺作となった作品を読んでみました。
原作全七巻読了後に事件を引き起こしたテレビドラマ(昨年10月から12月に放映)も鑑賞してみました。
全十話中の最初の3エピソードまで見たところで、まだすべてを見終えてはいないのですが、どんな具合にドラマと原作が違うのかはしっかりと理解できました。
ドラマはほぼ原作に忠実に作者の意向を受けて、脚本家によって脚本が描き直されていて、原作ファンも流石に原作者が手がけたドラマなのだと評価されたことでしょう(ドラマだけを見ても裏側の事情は最後の二話が原作者の脚本によるという事実以外にはわからないのです)。
原作とドラマに齟齬があるとすれば、二次元の作品を三次元の実写に置き換えたこと。
二次元だからこそありえたであろう作者の自由なイマジネーションがあまりにリアルに表現されてしまったこと。
例えば、原作の普段は地味な容姿の主人公田中京子さんは、脱いだら大変に豊満な肉体をしていますが、実写の田中さん(を演じた女優さん)はごく普通の体系。
主人公を慕う同僚の倉橋朱里さんは非常にネガティヴな感情を持った女性ですが、漫画では笑えても、ドラマではあまりにリアルで怖いくらいです。
ですが、全体として優れた実写化であったと思います。
このNoteにも十二月にドラマ放送が終わった頃にドラマ感想文がいくつか寄せられていますが、とても肯定的なものばかりでした。
悲劇を招いた炎上問題は作品放映終了後に起きたことなのです。
わたしとしては、もはやテレビ局の理不尽さなどには触れず、いつものように、純粋にわたしがどのように作品を楽しんだかについて語りたいと思います。
以下は私の独断と偏見による作品論です。
「セクシー田中さん」とは
一言で言うならば、「セクシー田中さん」は読む人を選ぶ作品でしょう。
男性目線で読むと、女性たちはこんなふうに世界を見ているのかという勉強にもなるのですが、個人的には好きではない作品です。
再読したいとは思わない。
でも以前にも書いたことですが、学びとは、自分とは違う考え方を持つ人と出会い、彼らの考え方に触れることなのです。
共感ばかりする人と付き合っていると、残念ながら自分自身の成長はない。
英語では Comfort Zone という訳しにくい言葉で表現しますが、あえて自分が楽しめない居心地の良くないところ(Out of Conform Zone) に出て自分が知らない、または苦手な体験をすることで、我々の学びは大きくなるのです。
この意味でやはり「セクシー田中さん」はとてもいい読書なのでした。
たくさん学べました。
特に良かったなと思えたのは、ベリーダンスに出会えたことでした(英語ではBelly Dance。お腹を見せる中東の踊り)
西洋音楽一辺倒で西洋音楽の複数の楽器を演奏するわたしは、アラブ圏の音楽に詳しくないのですが、ベリーダンスを通じて中東の伝統楽器であるダルブッカという太鼓の魅力を知りました。
原作の中でも生真面目な男性登場人物(笙野)がベリーダンスを「ふしだらな、低俗な踊り」であるという偏見を披露しますが、わたしの中ではそういう先入観も払拭されました。
ベリーダンスは文字通りセクシー
ベリーダンスは、肌を露出した女性たちが体の肉を揺らしながら踊る踊り。
前提としてセクシーであることが求められているダンス。
日本人には馴染みが薄いことも無碍なるかな。
日本の美学は「秘すれば花なり」なのですから。
でも主人公田中京子さんは、ベリーダンスこそが自分の人生のゲームチェンジャーとなのだと打ち込んでいる。
その情熱が素晴らしい。
秘めた恋が本当の動機であったとしても。
普段はセクシーとは思われていはいない女性が、セクシーな踊りを披露する。
そんな彼女を見て、ギャップ萌えしてしまう男性がいても不思議ではないでしょう。
だから作品の題名は「セクシー田中さん」。最高のネーミングなのですね。
ベリーダンスの伴奏楽器にしておくにはもったいないほど素晴らしいダルブッカ
ベリーダンスという踊りには音楽がついています。
踊りなのですから当然です。
が、西洋音楽のようにオーケストラやピアノ伴奏ではなく、パーカッションが伴奏役。
ベリーダンスという全身をゆすって踊るダンスにとって、リズムが命。
だから伴奏はメロディを奏でる楽器よりも、リズムセクションのパーカッション、つまり太鼓が一番なのです。
笛や弦楽器だけが伴奏では踊りにくいことでしょう。
漫画でも主人公はダルブッカの名手である人たらしの既婚者の男性に恋していると言う設定です。
ダルブッカと日本語で呼ばれていますが、英語ではカタカナで書くと
ダルブッカは太鼓の皮の部分と側面の木製の部分を叩き分けることで音色の違いを作ります。
次の動画からいろんなリズムパターンがあることが分かりますが、DとKとPの記号で三つの音色を叩き分けるようです。
D-D-PPP-ならば、西洋音楽式では
となりますが、太鼓の腹と側面を音符に応じて打ち分けるので、同じリズムでも叩き方で音色が違ってきます。
同じリズムパターンでも、別の音楽となるのです。
両手で叩けば、この土台のリズムに別のリズムパターンを上から重ねることで(つまりポリフォニー、多声音楽になる)、ありとあらゆる変化を付け加えることができるのです。
昔ピアノを弾いていて、ポップスのシンコペーションがなかなかできなくて困った経験をしましたが、アラブ音楽のリズムの複雑さはその上を行く大変なものです。
「セクシー田中さん」名言集
芦原さんはわたし同様に半世紀も生きてこられた人なので、作中の登場人物たちは随所で心に残る言葉を残します。
四十歳の田中さんは「今が人生で一番若い」という言葉を口にします。
もう若々しくはない。
中年と呼ばれる年齢になると四十肩、五十肩にもなるし、若い頃には意識しなかった筋肉の衰えなども嫌でも意識するようになる。
でも年取ったと諦めるのではなく、今日の自分は明日の自分よりも若くて何だってできるという気概、素晴らしいですね。
またこんなセリフも
心を広げる、世界を広げる。
容姿のコンプレックスから人と深く関わり合うことをこれまで避けてきた主人公は新しい活動=ベリーダンスを通じてこれまで知らなかった人たちに出会い、知らなかった世界のことを学ぶのです。
「セクシー田中さん」を読む魅力の一つは、自分の殻を破って新しい世界を知ることの素晴らしさ。
そんな田中さんに出会った人たちは感化されて変わってゆくのです。
amazonには作者の訃報を受けて、全てのコミックスに1000に近いコメントがつけられています。2024年に最も売れた漫画として記憶されるのかも。
リスクヘッジという言葉
「セクシー田中さん」は確かにいろいろ考えさせられる。
でもですね、わたしが本作品で最も嫌だなと感じたのは、本作品のもう一人の主人公、田中さんの若い同僚の倉橋朱里。
女性の容姿が本作品のテーマの一つでもありますが、男たちは容姿端麗の彼女を見た目でしか評価をしないのです。
女性をまずは見た目で判断してしまうのは男の性。
そして朱里さんはそんな男性の性を知り抜いていながらも、男性に恋愛を求めて自己撞着している(外国ならば馬鹿な男たちのことなど忘れて同性愛に走ればいいのかも)。
だからある意味、男性不振に陥っている。
でも自分に相応しい男性を選びたい。
だから可愛い容姿という商品を最大限に利用する。その姿は周りの男たちに媚を売っているようにも見える。
たった一人の男性とつきあうなんて危険なことはもはやしない。
複数の男性を上手に同時に相手にするのが自分自身が生き残る戦略だと思っている。
結婚は恋愛ではないのだから、品物を見極めるように異性を吟味する。いろんな品物を少しずつだけ試してみる。
彼女はこれをリスクヘッジと呼ぶ。
わたしの人生はこういうタイプの女性にあまり縁がなかったので、こういう女性の本音を聞くと嫌悪感を抱いてしまう。
リスクヘッジは婚活の基本でしょうか。
そして古風な尽くすタイプの大和撫子を探している男性主人公・笙野は、リスクヘッジする女性たちにドン引きする。
女性慣れしていなくて、女性を理想視している彼は、当然ながら女性たちに手玉に取られてしまう。
そして同時に、世の大多数の男たちがそうであるように、彼は若い女性が好き。
つまり、女性の価値を快楽の対象であるかのようにも見ているわけです。
尊敬できる女性でも、若くないと愛せないという。
ああリアルだなあと呟かざるを得ない。
男性の本音と女性の本音。
現代日本の婚活事情とはこんなものなのでしょうか。
これ以上はネタバレしませんが、原作読んで衝撃を受けて、そして原作を忠実に実写化したテレビドラマを見て、こういうあまりにリアルな描写に嫌気がさして、ドラマは第三話で見ることをやめました。
でもこういう世界を知ることがまた学びなのだとわたし思います。
わたしとしては原作を読めたのでもう十分です。
そしてとてもドラマ化しにくい物語だったのでは、とも思います。
だから作者が手を入れる前の脚本家によるダメ出しされた草稿にも興味がある。絶対に公開されないのだろうけれども。
四十歳の田中さんがベリーダンスして人生を切り開いてゆく姿にはロマンがありますが、二十三歳の朱里さんを含めた周りの女性たちの生存戦略はあまりにリアリズムすぎて、自分もまたドン引きしてしまいます。でもそうせざるを得ない彼女たちにも同情します。
まあ人それぞれなのですが。
とにかく一読、一聴の価値のある作品ですよ。
残された作品を愛することを
他界された作者の遺した作品を愛することが天国のアーティスト芦原さんを何よりも鼓舞して興奮させて喜ばせることだと私には思えます。
冥福を祈るというありきたりの言葉よりも、芦原さんには、
なんて言葉を伝える方がきっと供養にもなるし、本当に彼女に喜んでもらえることだとわたしは思います。
って言葉をわたしとしては彼女に伝えたい。
これからはダラブッカの響きが聞こえてくると、必ず「セクシー田中さん」を思い出すようになると思います。
遺された作品って、作品の中の最も印象的な部分のために、こんなふうに記憶されてゆくのだと思います。
人によってはベリーダンスだったり、複数股のリスクヘッジかもしれないけれども (笑)。
ぜひぜひ「セクシー田中さん」の原作読んでみてくださいね!
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