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無垢について:エドワード・シザーハンズへの考察

1888年に出版されて以来、100年以上も愛されてきたフランシス・バーネットの「小公子 Little Lord Faundleroy」は、何度も舞台化、映画化、テレビドラマ化されてきました。

我が日本国では、1988年に世界名作劇場第14作目としてアニメ化され、十を超える世界の言語に翻訳されてテレビ放送されて、世界中で愛されています。

「小公子セディ」は丁寧に制作され、原作の素晴らしさをありのままに伝えてくれる名作です。主題歌にあるように、天真爛漫で世界は善意でできていると信じるセディと一緒にいると、みんな楽しい気分になり、優しい心になるのです。

子供は愛されて育つならば、こんなにも美しい心を持った存在になるのです。

アニメを鑑賞しながら、思わず浮き浮きして、セディは本当に明るい気持ちにしてくれたのでした。

大領地を支配して数多くの領民にかしずれる暴君のセディの祖父であるドリンコート伯爵は、実の孫であるセドリックの心の美しさに打たれて、次第に心を開いてゆきます。

アニメは一年を通じて放映されたので、原作よりも映画よりも伯爵の心の変化を詳細に描き出します。だんだん優しくなってゆく伯爵はいいおじいちゃんですね。息子たちを蔑ろにしてきた父親だったからこそ、その想いから、最後に孫の純真な心情によって、ようやく蒙を啓かれたのです。

父性愛に目覚めた作品後半で見せるドリンコート伯爵の優しい眼差し

福音書の言葉

そしてわたしは聖書の次の言葉を思い出しました。イエスの語る福音書の言葉。

イエスは言われた:
あなた方が心を改めて幼子のようにならないならば、天国に入ることはできない。だから子供のように驕り高ぶらない者は天に置いて、最も優れた者と呼ばれる。そして私の名においてそのような子供、子供のような心を持った人を受け入れる人は、私を受け入れているものなのだ。
筆者による意訳

将来の伯爵位を約束されても、セディは威張ったりせずに、どのようなものにも親切で優しく接します。貧しい人にも友人のように接して、大人に対しても若君風を吹かせることも一切ないのです。

1936年の名作と名高い映画も見てみましたが、やはり二時間ではセディの魅力は語り尽くせないなあと言わざるを得ない。

BBCの制作したテレビドラマはもっと長くて、英国貴族の暮らしの忠実な描写は素晴らしいかったですが、やはりフォントルロイであるセディが最も魅力的なのはアニメ版ですね。どの作品にもとても可愛い子役さんが出ていて、誰も彼も素晴らしいけれども。

英語字幕付きのパブリックドメインの1936年の映画。

原作に最も忠実な映画。言葉が早口で、古いアメリカ英語で、字幕がなければ全部理解できませんでした。原作そのままに、セディがお母さんを Dearest と呼びかけるのが面白い。

アニメでは「アニー」という名前が出てきますが、これはアニメ版だけです。

Dearest は他界したお父さんがお母さんに対して使っていた呼び名。現代英語では My Dear とか Honey とか Sweetheart などが一般的ですが、面白い呼び方ですね。Dear 親愛なるの最上級。

さてようやく本題です。

小公子セディの無垢な心から、ある名作映画のことを連想しました。ティム・バートン監督の1990年の作品である Edward Scissorhands です。

エドワード・シザーハンズとは

 ティム・バートン作品は大好きで、もうかれこれ20年ほど、バートン監督作品はもうほとんど見ています。

「ビッグ・フィッシュ Big Fish (2003)」や「コープスブライド Corpse Bride (2005)」や「スウィーニー・トッド Sweeney Todd (2007)」などは自分が紹介に見た最も大好きな映画たちですね。

1万本の水仙を集めて、結婚してくれと懇願する「ビッグ・フィッシュ」のエドワード

商業的に大成功した、ジョニーデップを配した「チャーリーのチョコレート工場 Charlie and the Chocolate Factory (2005)」や「不思議の国のアリス (2010, 2016)」のような映画よりも、バートン監督の愛する怪奇小説ゴシックホラーな要素が前面に押し出された初期の作品群がいいですね。

そしてそんなバートン作品の原点となる作品が「エドワード・シザーハンズ」。

もう古典と見做されるまでになった名作映画ですので、ネタバレを辞さずに徹底的に分析しましょう。

名作は何度見ても新しい発見があるもの。わたしがこう書いたからと言ってそんなふうに見るべきであるという法はありません。わたし流の読み解き方、深読み「エドワード・シザーハンズ」です。

普通と普通ではないもの

32年も前に作られた古い映画ですので、以前見られた方も細部は忘れておられると思いますので、わたしの視点から大雑把なあらすじを書いてみましょう。

アメリカ南部の郊外の平和で規則正しい生活を送る人たちの暮らす街 (雪など降らない温暖なフロリダ州) 。でも街はアメリカのどこにでもある中流層の暮らす街のカリカチュア。

誰もが判で押したように同じような毎日を繰り返し、パステルカラーで塗り分けられた住宅街からは、やはりパステルカラーの自家用車が出勤時間になると一斉に走り出すのです。家はみんな3LDKくらいの一戸建て。

隣人たちを呼んでバーベキューできるほどの庭があり、定期的に芝刈りなど手入れが必要。犬などもたいていの家に飼われていて、いわゆる二十世紀半ばの理想的なアメリカ中流層の生活がそこには存在するのです。

1950年代の、アメリカが最も輝いていた時代のステレオタイプですね。古いアメリカ映画に散見できるあの風景。つまり全てパロディー。

さてこういう日常と普通な暮らしにそぐわない巨大な大邸宅が街の外れに存在します。

ここがおとぎ話な部分ですが、アメリカでなく英国ならば、ドリンコート伯爵のお城のような大邸宅が平民たちを見下ろす高台に建てられていた、というのも普通かも。でもここは徹頭徹尾、貴族などいない自由の国アメリカなのです。

リアリズムは求められていない映画ですので、郊外の荒れ果てたゴシック式のお屋敷が、パステルカラーの街の外れに存在するのです。

そして、その存在感たっぷりなのに忘れ去られたお化け屋敷に一人住んでいるのが、エドワード。

人嫌いの発明家によって作り出された人造人間。つまり、かのメアリー・シェリー (1797-1851) のゴシックホラー小説「フランケンシュタイン」のパロディー。分かる人には分かるし、そうでない人は知らなくても構わない。

ロマン派詩人パーシー・シェリーと結ばれるメアリーの生涯は映画化されています。そしてもちろん、英文学の傑作である元祖怪奇小説の「フランケンシュタイン」にも素晴らしい映画あります。1994年版をわたしは好みます。

ロバート・デ・ニーロやケニス・ブラナー、トム・ハルツ(映画「アマデウス」でモーツァルトを演じました)、そしてティム・バートンと長年結婚生活をされていたヘレナ・ボナム・カーター Helena Bonham Carter などという凄い俳優陣。

わたしはヘレナさんの大ファンですが、彼女はホントにゴシックホラーがお似合いです。ちなみにケニスはハリーポッター映画第二作のロックハート教授、ヘレナはヴォルデモート卿の忠実な僕のベラトリックス。

エドワード・シザーハンズは、フランケンシュタインのように作り出された存在。

でも発明家はエドワードを完成させることなく亡くなるのです。そして完成されていなのは腕の先の部分。

つまり手首から先の指の部分。どういうわけか、指の代わりに何本もの鋭利なハサミが取り付けられているのです。だからシザーハンズ。「鋏の手のエドワード」が Edward Scissorhandsの和訳です。

ジョニーデップ扮するエドワード

どういう物語なのか

映画の物語は、化粧品の訪問販売をするペグが場違いなゴシックホラーの御屋敷を訊ねるところから始まります。

人当たりの良いペグはエドワードの滑稽な姿を見て同情して、ずっと一人で暮らしてきていたエドワードを自宅へと連れ帰ります。

奇怪な姿のエドワードはすぐに近所の有閑マダムたちの関心を引き付けて、エドワードは否応なしに好奇の視線にさらされるわけです。白黒装束のエドワードを悪魔だと断じるのは、宗教かぶれのエスメラルダだけ。

とにかく平凡な毎日を過ごすパステルカラーの街の住民たちはエドワードの容姿にも関わらず、ハサミを使って植木を芸術作品のように刈り上げ、飼い犬をトリムして、ヘアドレッサーとして優秀な彼の存在を受け入れるのです。

ペグの家に住まわせてもらえるようになったエドワードは家族の食卓で、満足に食事もできません。スプーンやフォークを使いこなせないからです。

エドワードに対して家族は一貫して違いを問い質すことなく、社会的に失礼に当たらぬように違いを徹底的に無視するのです。

ペグの高校生の娘である美しいキムは、そんなエドワードに母親と同じく、やはり同情しますが、キムのボーイフレンドのジムはそんなエドワードに嫉妬して、エドワードを騙して強盗犯に仕立てるのです。心優しいエドワードは人の家に押し入ることはいけないことだと知りながらも、大好きなキムに言われたからと言われた通りにその事件に巻き込まれたのでした。

社会規範よりも愛の方が大切だと信じるエドワードと、社会的秩序とお金儲けが一番だと見做すキムの父親や隣人たち。

ここで普通と普通ではないとはという価値観の反転が見えてきます。

またボーイフレンドが欲しい年上の独身女性ジョイスはエドワードと性的関係を持とうと無理やり言い寄りますが、当然ながらエドワードは拒絶。

恥をかかされたと信じるジョイスは、エドワードに強姦されかけたと言いふらします。最初はあれほどにエキセントリックなエドワードを歓迎した街の人たちは凶器を手にしたエドワードを危険な存在であると見做して追いまわし、自分から自宅へ呼び入れたペグはエドワードを見捨てて、もう彼を返すしかないと無責任に言い放ちます。

逃亡するエドワードを嫉妬に駆られるジムはゴシック屋敷にまで追いかけてゆき、最後は我が身とキムを守らんとするエドワードの刃は、ジムの躰を貫いてしまうのです (正当防衛でエドワードに非はありません)。

お前は傷つけることなく、どんなものにも触れることはできないんだ

キムは夜中の屋敷に詰めかけた住民たちに、エドワードのスペアのハサミの手を見せて、エドワードはジムと刺し違えて死んだと告げて、キムはエドワードの屋敷を名残惜し気に去るのです。

それ以来、フロリダのパステルカラーの街にはクリスマスになると、雪が降るようになったのでした。どうしてなのかはここまでは語りませんね。ぜひ映画を実際にご覧になってどうしてなのかを御自身で確かめて下さい。

現代の寓話フェイブル

この映画を初めて見たのは20代前半のころで、最初は何が何だかよくはわかりませんでしたが、最近になって改めて視聴して、ティム・バートン監督の描かんとしていた映画の意味をようやく理解した次第です。

英語圏の高校の英語の授業の教材にも使われるエドワード・シザーハンズ。

この物語の骨子は、最初は普通 (Normalcy) と普通でないもの (
Abnormal, Extraordinary things) が対比されます。

極端に強調された理想的な中流階級の暮らし。パステルカラーの街並みに平凡な満たされた生活。人々は普通の格好をしている。

一方、典型的なホラームービーに登場するゴシック建築の古いお屋敷に住まうエドワード。パンクファッションのいかれた若者の出で立ちいでだちで現れて、手の先には異様な凶器であるハサミがついている。

でも物語が進んでゆくと、パステルカラーの住民たちが拘るのはお金や名声などといったことばかり。キムの父親ビルはジョイスと一緒に美容院を開いたエドワードに「儲かったかい A Productive day?」と尋ね、エドワードが浴室の壁紙をギタギタに引き裂くと、修繕にいくらかかるかということばかりを語る。

キムの母親ペグはエドワードのありのままを受け入れているようで、エドワードがこのエドワードにとっては異常な社会で暮らしてゆけるかに関しては思いもしない。

エドワードはこの世界に自分と同じように暮らすべきという信念があり、自身のハサミのために怪我した顔の傷も化粧品でごまかせば大丈夫だと思っている。そして物語で最も純真なティーンエージャーの女の子のキムだけがそうした矛盾を知り、エドワードがこのパステルカラー世界では生きてゆけないことを悟るのです。

キムにもどうすることもできない。映画最後にキムはエドワードを独り残して屋敷を去り、年老いてもなお、一人ぼっちのエドワードを思いながら良心の呵責に駆られているのです。

無垢であってもセディにはなれない?

冒頭に述べたように、純真な御曹司フォントルロイセディは愛くるしい笑顔で周りにいるすべての人を幸せにしてゆきます。太陽のように全てを暖かにしてくれるセディ。

一方、セディのように愛される容姿を持たないエドワード。

セディのように、お金にこだわらず、愛されること愛することだけを思い、人を喜ばせるためだけに奉仕する。彼の心はセディのように、子供のように美しく、穢れを知らない。社会生活を送ったことのない彼が知るのは、唯一、発明家の父が注いだ愛情だけ。

でもエドワードの恐ろし気な容姿ゆえに、彼は誰からも愛されることはない。

みんな僕のことが怖いんだ、だって僕はみんなと違うから

映画の後半部分、もし映画冒頭でパステルカラーの世界はどこかおかしいと気がつかれた方は、きっと思い当たるはずです。

立派な服を着て、健全な市民生活を営んでいる人たちは、実は人を愛することなど知らぬし、世間体と社会的対面とお金にしか興味がないのだと。

でも異形のエドワードは思いやりを持ち、自分よりも誰かのことを大切にする愛する心を持っているのだと。

ここでどちらが普通で普通ではないかが問われるわけです。

人間性の問題。人らしくあるとはどういうことでしょうね。

ペグとビルはもう20年近く連れ添っている夫婦。二人の間に愛情らしい言葉はなく、ただ二人の子供の両親を立派に演じる事しか頭にはない。思えばこの映画の中には、愛はどこにもないのです。最初は食器洗浄機の修理人である男に流し目を送っていて、のちに相手をエドワードに乗り換えたケバケバしいジョイスは性愛にしか興味がない。

もう大嫌いよ。出て行って。

キムにはハンサムなボーイフレンドのジムがいますが、二人はまだ子供で、本当には愛し合ってもいない。その証拠にエドワードに乱暴するジムに自分はもうあなたのことが好きではないと告げる。こうして簡単に終わることのできる表面的な愛情しかない。

ただ一人本当の愛を求めるエドワードは追放されてゆく。

さて普通って何でしょうね?

これがティム・バートン監督の描き出す現代の寓話。

エドワードの異様な容姿はどうしてもこの寓話を物語る上で必要不可欠なものだったのです。

「小公子」、「エドワード・シザーハンズ」、そして「フランケンシュタイン」と続けて観て、社会とは、本当の愛とは何かを深く考えさせられました。

「美女と野獣」の自分勝手な王子が野獣へと姿を変えたことは、身から出た錆でしかなかったのですが(まるでドリンコート伯爵です)、エドワードにもフランケンシュタインの怪物にも、彼らには全く非はないのです。ああいう姿をして生まれてきただけなのですから。

でも世界は、姿形でばかり人を見る。

エドワードが微笑んでもセディのようには輝かない。

不器用で笑うことを知らないエドワードの微笑みを本当に理解できるようになれるといいなと心から願います。

純真なエドワードはきっと天国に入ることが出来ます。でも死んでゆくことができるのでしょうか。いつまでも生き続けるエドワードが天に召されることは許されているのでしょうか。永遠に歳を取らないエドワード。

彼が知ることは無垢であること純真さ。
美しいものとは、彼女がそんな彼の中に見るもの

フランケンシュタインに拘るティム・バートン監督は「フランケン・ウィニー 」という映画を二度も制作しています。こちらもお勧めのファンタジー映画です。


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