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シューベルトの夕べのクラリネットの調べ

昨晩はとても素敵なコンサートに行ってきました。

シューベルトの夕べ。

すべてシューベルトの音楽だけのプログラム。

つまり、シューベルティアーデ Schubertiade

シューベルトの夕べとは

ハプスブルク・オーストリア帝国の首都ウィーンに生まれ、ウィーンで死んだ、生粋のウィーンの作曲家フランツ・シューベルトという作曲家は、楽聖と呼ばれる大作曲家たちの中でも、相当に特異な人生を送った人でした。

大作曲家ならば、立派なオーケストラや偉大な演奏家のために作曲したり、共演したりするものなのですが、シューベルトにはそうした機会は全く恵まれなかったのです。

学生時代に学生オーケストラのために六つの交響曲を書いた後は(19歳で大傑作の第五交響曲を作曲!)サークル活動の延長のような音楽好きの仲間たちのためにひたすら作曲。

彼らのためにダンス曲を書いて、一緒に歌える歌曲や合唱曲を提供。

まるで趣味のための仲間たちのための音楽ばかりを書いてようにも思えるほどに、全然プロフェッショナルな作曲家らしくない。

生涯に開いたリサイタルは、最晩年のただの一度だけ。

シューベルトの生きた時代の帝都ウィーンは、いわゆるウィーン体制と呼ばれる、ヨーロッパの政治的秩序を大改革させたナポレオン失脚後の反動の時代の真っただ中にありました。

たとえ名目上だけだったとしても、欧州最大だったハプスブルク帝国は、ただのオーストリア・ハンガリー帝国となり下がり、治安維持法によって国民の反政府運動を取り締まっていた戦前日本のように、言論の自由を検閲して、自由を抑圧していた秘密警察国家となります。

政治を声高く語ることは許されず、貴族が力を失った新しい社会制度の中、成り上がりの小市民たちは、日々の暮らしに小さな幸福を見出すことということばかりに熱中せざるを得ないのでした。

花を植えて庭を飾ったり、ファッションに凝ってみたり、家具などの調度品をそろえることにこだわったり、政治とは無縁の、人畜無害のロマンティックな詩を書いて、音楽を奏でてみたり。

こういう生活態度はビーダーマイヤー様式

Biedermeier (愚直な人という意味)

と呼ばれたのでした。

このような小市民的幸福を追求するビーダーマイヤー時代の文化を見事に体現したのがフランツ・シューベルトの音楽だったのです。

同じウィーンに住んでいたベートーヴェンの晩年期は、シューベルトの活動期と丸ごと重なりますが、壮年期には自由・平等・博愛を喧伝して演説的だったベートーヴェンの音楽は、この時代になると次第に声を潜めてゆき、内に内へと向かってゆくのも、極めてビーダーマイヤーであるといえるでしょう。

ベートーヴェンの内向的で主観的な後期音楽は、時代の要請でもあったのです。

シューベルトの音楽が歌うのは、

遠い憧れ
現世を超えた永遠と彼岸
満たされることのない希望
淡い夢
人生の儚さ
恋と挫折
失恋の痛み
束の間の幸福
人生逃避
小さな日常的な喜び

ゲーテやシラーのような大詩人以外にも
シューベルトは友人たちの詩にも
たくさん作曲しました
作曲されたビーダーマイヤーな
仲間たちの詩を読むと
こうしたテーマが繰り返し
歌われていることを
理解できます

など。

壮年期のベートーヴェンや、のちのフランツ・リストやリヒャルト・ヴァーグナーが好んだような

英雄の葛藤と悲劇
自己犠牲
苦しみを乗り越えての勝利
壮大な歴史物語=叙事詩
自由・平等・博愛

などとは、ほとんど無縁。

これが、ビーダーマイヤーのシューベルト。

日々の暮らしが苦しくて、本当のことも口にできないからこそ、シューベルトと友人たちは、非現実だけれども自由な世界を夢見る想いを詩句に込めたメロディを紡いだのでした。

そういう市井の作曲家シューベルトは、短い生涯の中で、ほとんど駄作と呼べるものがない(驚異的!)超高水準の大傑作ばかりの六百曲を超える歌曲を書いたのでした。

現在、歌曲王として知られているのは当然のことでしょう。

でもベートーヴェンのような交響曲作家としても、ロッシーニやヴェーバーのようなオペラ作曲家としては成功することは叶わなかったのでした。

商業的コンサートホールやお金持ちの貴族のためではなく、身近な日常生活の中で楽器を弾いたり歌を歌ったりする人たちのために作曲したのがシューベルト。

もちろんお金にはなりませんでした。

そのために、文化的に停滞抑圧させられた社会の中で、短い教職期間のあとには、シューベルトは定住できる自分の家を持つことは出来なくて友人宅を転々として居候するいう、ボヘミアン的な生活を死ぬまで送り続けるのでした。

友人たちの家には作曲に必要なピアノさえないことも。

ベートーヴェンは難聴のために音が聞こえないで、頭の中でのみ鳴り響く音楽を書き続けましたが、ある意味、シューベルトも全く同じ。

楽器のないところで、一日中、紙の上にペンを走らせていたのがシューベルト。

実際に音を鳴らさないで、頭の中の想像上の音だけを聴いていたシューベルトは、楽器の音が聞こえなかったベートーヴェンに通じ合うわけです。

シューベルトの楽才は、努力の人ベートーヴェンさえも凌駕していたのかも。

シューベルトは、後世に不滅の名作と呼ばれる作曲した数々の作曲を、実際にどんな音で鳴るのかも知らぬままに、モーツァルトよりも短い31歳という若さで世を去ります。

シューベルトの死後の1868年に
在りし日のシューベルトの夕べを偲んで
描かれた架空の絵
ピアノを弾くシューベルトを
取り囲む友人たち
肖像画の女性はシューベルトが
恋していたという
エステルハージ令嬢

シューベルトの作曲のほとんどは室内楽。

1897年に描かれた
シューベルティアーデの情景

小さな室内で仲間たちによって歌われ、踊られ、奏でられる音楽がシューベルトの創作の基本でした。

シューベルトが実際に耳にすることがなかった未完成交響曲大ハ長調交響曲が、シューベルトの代表作という認識は、わたしにはシューベルトの本質を間違えさせるものだと思えます。

この二曲、お前の好きな曲を全てのクラシック音楽の中から数曲上げよ、と言われると、この二曲を絶対に含めずにはいられないほどにわたしは大好きなのですが。

  • 家庭のためのピアノで演奏できる技術的に難易度の高くないダンス音楽(数多くの「ドイツ舞曲」や「ワルツ」や「楽興の時」など)

  • アマチュアでも楽しめる室内楽曲(ヴァイオリン・ソナチネやコントラバス付きの「ピアノ五重奏曲《鱒》」など)

  • プロでなくても歌える民謡のようなメロディの歌曲(「野ばら」や「音楽に寄す」や「ミューズの子」など)

などを書いた作曲家というプロフィールこそが、シューベルトの素顔。

昨晩のわたしが出席することができた演奏会は、まさにそんな小市民たちの集いのような小さな演奏会でした。

観客収容人数は最大で50人ほどという小ホールでの演奏会。

音響的には最高の環境でした。

大きなガラスの壁面から湖を臨めるというロマンティックな会場。

21世紀のシューベルティアーデ。

演奏家は四人。

ピアニスト、ソプラノ歌手、クラリネット奏者、フレンチホルン奏者。

シューベルト最晩年の音楽だけが選ばれた音楽会。

ピアニストは尊敬するベートーヴェンの葬儀(シューベルトの詩の前年の1828年3月)に出席したシューベルトが追悼の意を込めて、ベートーヴェンのスタイルで作曲したというハ短調の曲を二曲並べてコンサートを始めました。

小品であるアレグレットは、不気味な短二度の音程が印象的な音楽で、わたしはあまり好まないのですが、ベートーヴェンへの追悼音楽としてはこれ以上にないオマージュです。

シューベルト作曲のバラードとも呼ぶべき、心の闇をえぐるような深みを湛えたハ短調の即興曲。

他にもピアノ曲はありましたが、やはり、わたしの心を最も楽しませたのは、次なるシューベルトの歌曲たち。

Der Hirt auf dem Felsen D.965

シューベルトは二十歳くらいの頃に悪友たちと売春宿を訪れて、不治の病だった性病の梅毒に感染したために、シューベルトの後半生は病魔のために少しずつ衰えてゆく肉体との戦いの中の人生でした。

有害な水銀療法なども行って(当時は有効だと信じられていたのでした)ふさふさだった髪の毛もすべて失うなどして、自身の死を確実に意識しながら過ごした晩年の日々。

最後の年は1828年。

救いのないほどの絶望感が支配する歌曲集「冬の旅」第二部(数年がかりの作曲)の校訂を死の床で行うような最期の時間だったのですが、死の床での新しい創作は、彼岸の境地を思わせるような希望にあふれた作曲が多かったのでした。

そんな死の不安も微塵も感じさせない、明るい最後の歌の一つが、クラリネット伴奏つきの「岩の上の羊飼い」

演奏に十分以上もかかる大曲ですが、二部構成でとても分かりやすく、わたしは個人的にこの曲を偏愛しています。

特に昨晩はクラリネット奏者の個性あふれる美音に酔いしれました

ソプラノ歌手はさほどの美声ではなかったので、実演の生のクラリネットの音色を(小さなホール、わたしは前から二列目のクラリネット奏者の目の前の席)自分の目の前で聴けて、クラリネットの軽妙でいて豊饒な音色に、心から感動しました。

クラリネットという楽器、本当に素晴らしいですね。

モーツァルトやヴェーバーやブラームスが惚れ込んだのも納得です。

https://assets.classicfm.com/2017/01/clarinet-v4r-1483624951-editorial-long-form-0.jpg

しばらく前にモーツァルトのクラリネット協奏曲の実演を大ホールで聴きましたが(舞台が遠い!)、クラリネットの音、こんなにもヴィヴィッドに我が耳には届きませんでした。

室内楽演奏会の魅力全開といったところ。

「岩の上の羊飼い」という曲は、高校生の頃に初めて読んだシューベルトの伝記、前田昭雄「シューベルト(カラー版作曲家の生涯:新潮文庫)」の素晴らしい記述ゆえに、わたしの中では、シューベルトという作曲家の中でも最も大事な音楽です。

素晴らしく感動的なので、少し長いですが、すべて引用してみます。

 シューベルト最後の作品は、しかし本当はどれだったのだろう。
『冬の旅』以後の作品は、すべて絶筆であっても不思議ではない、独特のトーンが漲っているのだが。
 現在知られる限り、最後の位置する作品の一つは『岩の上の羊飼い』(D九六五、一八二八年十月)。ヴィルヘルム・ミュラーとシェジの詩をもとにした歌詞を、クラリネットとピアノの伴奏でうたう。
没後の初版楽譜にはチェロも加えられた。
 岩の上の羊飼い、その歌の終わりー。

この世の希望は消えた。
私はここでひとりぼっち
私の歌は憧れにみちて
森に響き、夜に響いた

春が訪れようとしている
大好きな春が
さあ、支度をしよう
また、旅に出る用意をー

『白鳥の歌』の最後におかれた「鳩の便り」とも似て、この一見、牧歌的な明るい終曲には、シューベルト芸術の存在とかなしみが美しく結晶しているようだ。

pp.171,174

曲の始まりは、変ロ長調のアンダンティーノ。

主調ではないニ短調のピアノに導かれて、ピアニシモのクラリネットが半音階に揺れる素晴らしいソロを披露して、歌手が歌い始める。

歌手とクラリネットが呼応しあう素敵な二重奏。

ピアノは和音でリズムを刻む。

やがて「In tiefem Gram… 深い悲しみに」からト短調に。

Auf Erden mir die Hoffnung wich この世の希望は消えた」

歌手の声はかぼそくなり、暗い色調のままピアニシモに。

Die Herzen es zum Himmel zieht 心は天国へと引き寄せられ」で歌手はこの曲で最高音のシ♮にたどり着く=天国 Himmel のジェスチャー。

長調とも短調とも知れぬ幽玄の調べの中でメロディはさまよい、静まり返る弱音の世界、長い音符のクラリネットソロ。

陰るメロディ。

やがてクラリネットは明るい音色の軽やかなトリルを鳴らして、短いカデンツァを作り出して半音階で駆け下りてゆくと、突然まばゆい光が差し込んでくる。

ここで舞台転換。

変ロ長調の四分の二拍子のアレグレットになって、下降型の音中心だった前半部とは打って変わって、音符は音階を駆け上がってゆく

ソーーラシドレ・ミー!
ソ・ソーォラシドレミ・ファー

クラリネットのソロ
変ロ長調の音階で

ソプラノ歌手はクラリネットのメロディをそのまま受け継いで、音楽は明るい希望の春をうたい上げてゆく

Der Frühling will kommen,

春がやってくる

シューベルトはこうして、最期に希望の春の歌を歌いながら、あまりにも短かった31年の人生をこの曲を書き終えた一月後の11月、帰らぬ人となるのです。

次の動画はわたしの昨晩のコンサートによく似ています。

観客と演奏家の位置がとても近い、シューベルトの時代そのままのようなコンサート。

次の動画は大ホールでの演奏会。

私の大好きなバーバラ・ボニーの演奏会。

クラリネット奏者が超一流。なんて素晴らしい音色。

デビューしたての頃の若いボニーのCDも持っていますが、学生時代、わたしが最もよく聴いたのはキャスリン・バトルのCD。

わたしの愛聴盤でした。

古い録音ではモーツァルト歌いとして高名だったリタ・シュトライヒの録音が素晴らしい。エリー・アーメリングの録音も有名ですね。

シュトライヒの歌いは少し表現がシューベルトにしては大袈裟かなとも思えますが、この動画は日本語歌詞付きなのがいいです(オペラ対訳プロジェクト提供)。

第二次大戦中(1945)戦災で焼失した
グスタフ・クリムトの大傑作
「シューベルティアーデ」(1899年)
私の大好きな絵画です

Auf dem Strom D943

演奏会では、最晩年のホルンソロ付きの歌曲も聴けました。

前回、詩人レルシュタープについて触れましたが

シューベルトは歌曲集「白鳥の歌」に収められる七編の詩以外にも、レルシュタープの詩に作曲していて、その一つがこの曲。

再び、前田氏の「シューベルト」からの引用。

川の流れに呼びかける旅人の別れの歌だ。
美しいのは、歌に沿ってながれるホルンの旋律ー。
ロマン的な憧れにみちたこの楽器の味わいを十分に出している。
流れに沿ってのさすらいは、シューベルトの人生を象徴するものでもあった。

pp.170-171

諦念と別れの歌。

シューベルト自身の人生への決別の歌だったのかもしれませんね。

Schon wird von des Stromes Wogen
Rasch der Nachen fortgezogen,
Doch den tränendunklen Blick
Zieht die Sehnsucht stets zurück!

もう流れの波にもまれて
すばやく小舟は走り去って行く
けれど涙で曇ったまなざしで
あこがれはずっと後ろを振り向いている

https://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S3639.htm

わたしはこの曲をクラリネット付きの「岩の上の羊飼い」ほどには好きではありませんが、やはりシューベルト最晩年の傑作のひとつだと思います。

次の古楽器演奏の動画(ナチュラルホルンとフォルテピアノ)、なかなか面白い。

ソプラノも昨晩の歌手よりもずっとレヴェルが上。

シューベルト時代の未発達の粗い楽器のためか(演奏難易度が上がります)音のドラマがこんなに先鋭になったものは初めて聴きました。

ホルンだけならば、夭折した伝説のホルン奏者デニス・ブレインの録音がピカ一ですが、彼の録音は歌手がよくない。なのであまり好きではない。

この曲は時々、ホルンをチェロに変えて演奏されることもあります。次の動画はソプラノ歌手が特にいいですね。

Du bist die Ruh D776

シューベルトの夕べのコンサート、音楽を心から愛していて、よく理解している、数少ない聴衆に見守られて、無事に終了。

暖かな拍手にこたえてのアンコールは、ソプラノ歌手とピアニストの二人による「君は我が憩い」。

わたしが最も愛するシューベルトの歌曲で締めくくられて、心温まる思いで家路につきました。

Du bist die Ruh,der Friede mild,
die Sehnsucht du,und was sie stillt.

君は憩い、穏やかな安らぎ、
君は憧れ、そして憧れを静めるもの。

https://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S352.htm

以前バリトン歌手による、背筋も凍るような鬼気迫る「冬の旅」を演奏会で聴いて、演奏会のあとに心塞いでしまったことがありました。

「冬の旅」は歌詞をドイツ語でほとんど覚えているくらいに大好きなのですが、この世界に自分のいるべき場所がないことを長い旅路の果てに悟るという絶望をうたい上げた歌曲集ですので、見事な演奏会であればあるほど、演奏会後には心が冷え切ります。

ですので、「君は我が憩い」という、シューベルト歌曲の中でも最も美しい愛の歌を最後に聴けたことは本当に素晴らしい体験でした。

ビーダーマイヤー時代という閉塞の時代の歌、決して遠い昔の別世界の歌ではなくて、希望ある未来を生きることを誰もが出来そうにない21世紀に生きる我々にとっても普遍的な歌。

バッハやベートーヴェンの音楽は、わたしには

「人生の規範や模範や羅針盤となるような、わたしを勇気づけて励ましてくれる音楽」

なのですが、シューベルトの音楽は

大切にしている家族や友人たちのいる、小さな小市民的な生活を守るために必死で生きている、わたし自身に共感して寄り添ってくれる音楽」

であるように思えます。

慰めと共感と癒しのための音楽。

この曲は、もう二十年も聴き続けている、わたしの最愛のCDであるバーバラ・ボニーの歌唱で聴いてください。

ああ、シューベルトの歌曲っていいですねえ。

シューマンもブラームスもヴォルフもマーラーもリヒャルト・シュトラウスアルバン・ベルクも素晴らしいのですが、やはりドイツリートの最高峰は、憧れを朗らかに歌い上げるシューベルト!

ここで今夜のシューベルトの夕べの終わりです。

シューベルトの夕べ、世界中のいろんなところで21世紀のいまでも定期的に開催されています。

もしシューベルティアーデがあなたの近くで開催されているのならば、ぜひ庶民作曲家シューベルトの音楽を大ホールではなく、シューベルト時代そのままの小さなホールやサロンや家庭演奏会で楽しまれてください。

シューベルトはシューベルティアーデのために、皆が歌ったり踊ったりしている傍で、友人たちが音楽を楽しんでいる姿を眺めていることに心から満足しながら、いつまでも彼らのためにピアノを弾いていた人だったのですから。

コンサートのあとに一枚だけ撮った写真
ピアニストが弾いた
小さめの古いベーゼンドルファーのピアノ
ベーゼンドルファーはもちろんウィーン製のピアノ
スタインウェイピアノでも
またサイズも
コンサート・グランドでなかったことも
さらにシューベルティアーデにふさわしい

参考文献:

1993年の出版で、最近の増版はないようなので、入手は難しいかもしれませんが、きっと図書館で見つかります。

シューベルト愛にあふれた、シューベルト入門に最高の一冊。

さらに深い考察に富んだ喜多尾道冬「シューベルト」(朝日選書)でシューベルトが苦しんだ不治の病の梅毒への言及がないことが痛切に批判されていますが(正しい指摘)、新潮文庫の前田昭雄「シューベルト」は、シューベルト音楽への愛が至る所に溢れていて、読めば読むほど、シューベルトが好きになり、ますます聴きたくなってしまう名著です。

人生を明るく暖かくしてくれるシューベルト音楽のすばらしさを知りたいならば前田昭雄「シューベルト」。

シューベルト音楽への深い考察と社会的・心理的分析を求めるならば、喜多尾道冬「シューベルト」ですね。


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