☕☕☕ラテアートなバッハ☕☕☕
バッハの時代のコーヒー文化
ヨハン・セバスチャン・バッハがコーヒーが大好きだったことは、状況証拠から周知の事実です。
コーヒー文化をヨーロッパにもたらしたのは、神聖ローマ帝国と戦争を繰り返したオスマントルコ帝国だと考えられています(諸説あり)。
コーヒーがヨーロッパに根付いたのは17世紀後半(つまりバッハが生まれた頃)でした。
敵国トルコのシンボルの三日月を模したクロワッサンが生まれて、トルコ軍楽隊のトルコ行進曲が流行ったのは、異教徒オスマントルコのヨーロッパ侵攻のおもわぬ副産物。
インドネシアを植民地化していた、ドイツのお隣のオランダもまた、ヨーロッパに大量のコーヒー豆を提供していましたが、トルコに近い国際都市であるイタリアの水の都ヴェニスを通じて、トルコ風コーヒーやコーヒー豆が欧州中に伝えられます。
コーヒーとは、18世紀初期には最先端の舶来の輸入文化だったのです。
18世紀のバッハの時代には、コーヒー文化はほぼ定着していました。
ライプツィヒのバッハ
アラフォーのバッハは、ライプツィヒの教会カントルに就任すると精力的に仕事に打ち込んで、非常に質の高い教会カンタータを量産します。
ですが、教会運営に権力を持つライプツィヒ市議会は、バッハが言われるままに教会運営に取り組まないことに不満。
確執は数年間続いて、やがて本格的に教会運営の在り方について徹底対立。
挙句の果てにはライプツィヒ市議会は、バッハを文書で正式に懲戒、職務怠慢のかどで減給(市の公式文書が現代にまで伝わっています)。
クビにならなかったことは不幸中の幸いでした。
大勢の家族を養うバッハは断腸の思いで市議会に頭を下げたのでしょう。
こうしてバッハは教会の仕事に情熱を失います。
それ以来、新しい職場探しを死ぬまで続けるのでした。
受難曲を作曲して、そして改訂をひたすら繰り返したのは、ザクセン選帝侯兼ポーランド王フリードリヒ・アウグストにアピールして、宮廷楽長として雇ってもらうためでした。
「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」には王様への媚びがたくさん仄めかされているのです。
非常に政治的な動機から作られていたのが、バッハの三大受難曲(「マルコ受難曲」は喪失)。
でも結果は
という肩書を賜っただけでした。
お金はもらえなかったのです。
バッハは古い友人に手紙を書いて職場斡旋なども乞うています。
晩年になっても、ポツダムのフリードリヒ大王に謁見してもらったのも、就職活動の一環でした。
ですが、どれも成功しませんでした。
上司の言うことに従うのが、雇われ人の定め。
特に公務員。
わたしも長年、20年以上も大学に雇われていたので、意に添わぬ理不尽な仕事もたくさんやりました。
言われた以上の仕事をしても、求められていない限り、評価はされません。
逆にバッハの場合のように、上司は良い顔をしません。
宮仕えは辛い。
心底、バッハには共感してしまいます。
同じような人生を送ったハイドンに対しても。
バッハは自分を理解しない上司(ライプツィヒ市議会)のもとで、家族を養うために働きつづけますが、当然ながら面従腹背。
でもバッハは同時に新しい活動の場も見つけます。
大作曲家ゲオルグ・テレマンが創設したコレギウム・ムジクスという音楽愛好家の団体の指導者として招かれたのです。
会場はなんと、ツィンマーマンのコーヒーハウスでした。
冬場には毎金曜日の夜にコンサート!
楽しかったでしょうね。
現代的に言えば、楽器生演奏を聴かせてくれるカフェ、レストランの音楽運営を手伝うようになったというわけです。
減らされた給与を補うに十分な副収入も得られるようになったのでした。
以前紹介した、史上最高のリュート奏者として知られるシルヴィウス・ヴァイスと出会ったのも、コーヒーハウスがつないだ縁だったのです。
バッハがチェンバロ、ヴァイスがリュート、というデュオ!
当時最高の音楽的才能の出会い、なんて豪華な音楽会!
ライプツィヒに来る前のケーテンでは、バッハは教会音楽ではなくて、主に世俗音楽を担当する宮廷楽長でしたが、こうしてライプツィヒでも世俗音楽を作曲できるようになり(弟子に任せて本職の教会音楽の仕事から手を抜いて😁)名作「チェンバロ協奏曲」や「管弦楽組曲」などが生まれたのでした。
コーヒーハウスのバッハは、コーヒーハウスにふさわしい音楽を考えました。
それが「コーヒーカンタータ」でした。
Ei! Wie schmeckt Kaffee süße(コーヒーってどうしてこんなにおいしいの)
流行に関心を示さない頑固なお父さんが新しい飲み物に夢中になる娘のコーヒー狂いをやめさせようという傑作喜劇が生まれたのは、演奏会場を提供していたスポンサーからの依頼からだったでしょうか。
コーヒーハウスのためのコーヒー音楽劇!
あらすじは、嫁入り前の娘がコーヒーに夢中になり、父親はコーヒーなんて異国の嗜好品にうつつを抜かすなどけしからん!と親子喧嘩するという他愛のないものです。
ここでは娘役のリースヒェン(エリザベートの愛称)の有名なアリア部分だけをどうぞ。
大好きなバーバラ・ボニーによる名唱。
古楽の名匠グスタフ・レオンハルト指揮する最強の古楽アンサンブルのエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団の名演奏で!
バッハはオペラを作曲する機会を生涯持つことはありませんでしたが、間違いなくヘンデルにも負けないほどの劇音楽の才能を持ち合わせていたのです。
オペラが作曲できるかどうかは職場次第。
後年、宗教都市ザルツブルク出身のヴォルフガング・モーツァルトが故郷を捨てた第一の理由は、大司教さまのお膝元のザルツブルクでは、オペラ上演の機会がほとんどなくて、自分の才能を活かせないというものでした。
最終的には足蹴にされて追い出されてしまいますが。
実際にモーツァルトの同僚のミヒャエル・ハイドン(ヨーゼフの弟)は生涯大司教に仕えて、オペラ作曲の機会は与えられませんでした。
バッハと全く同じだったのです。
バッハにはオペラ的な作品が他にもいくつもあり、特に「農民カンタータ」は「コーヒーカンタータ」を上回る大傑作。
また上記の「マタイ受難曲」は18世紀前半のどのオペラよりも劇的なオペラ的宗教劇です。
「コーヒーカンタータ」のリースヒェンのアリアは、バッハが一番好きだった色調(ロ短調)で書かれていて、三拍子の軽快な舞曲形式で、短調音楽特有の愁いと憧れとロマンが込められていて素晴らしい!
歌詞を読むとますます楽しい!
と歌いあげるリーヒェンって可愛いですよね💛
ラテアート!
バッハはワインを嗜んだと同時代人が証言していて、遺品にはワイングラスや銀製のコーヒーセットなどが含まれています。
大食漢でグルメだったヘンデルほどではないにせよ、招かれて現代的にみてもかなり豪華な食事を楽しんだという記録も残されています。
バッハに禁欲という言葉は似合いません。
バッハも食べることが好きだったことはまず間違いないでしょう。
上記のように、真面目な教会音楽を書くのはお仕事。
白いかつら(現代のネクタイみたいなもの)を脱げば、コーヒーショップでコーヒーを友人たちと楽しむ陽気な人でした。
そんなバッハが現代に生きていれば、きっとラテアートに夢中になったのでは、と想いを込めて作ったのが、以下のAIアートです。
Flux1: FluxUnchainedBySCG&Fluimateによる制作。
泡の上のアートは、奏でられると瞬時に虚空へと消えてゆく音楽のように儚いもの。
こんなラテアートを作れるバリスタがいれば、コーヒーショップに毎朝通うのに(笑)。
バッハの名作「コーヒーカンタータ」をもっと知りたいといわれる方は是非、次の記事をお読みになってください!
全曲の歌詞を含めた詳細な曲の解説と、驚くべき動画の紹介、自作のかわいいイラストを楽しめます。
つまりこの投稿もNote公式企画にインスパイアされた投稿、第六弾でした!
今回のラテ画像は、note の見出し画像として使用することができます。
ご自由にお使いくださいませ!
「コーヒー」、「ラテアート」、「バッハ」、または「ピアノ」などのキーワードで見つかります。