海外生活日記:カヤックのある生活
北半球とは季節が真逆の南半球の夏休み。
学校に行かない子どもたちが毎日家にばかりいるので、自分は仕事をしなくてはいけないとしても、家にいて何することもなく無駄な時間を費やしている彼らを外へとわざわざ連れだしてやらねばならない。
子どもが親と一緒に暮らしてくれるのは人生の中のほんの短い時間。
子どもが子供らしいままでいるのも人生のほんの短い時間だけ。
とも言われるが、うちの子は自分から世界を切り拓いてゆくような気はしない。
ずっと部屋に引き籠っていてあまりにも幸せだからだ。
自分の力で外の世界に出てゆけないのならば、親としてできる精一杯は、外へ連れ出して違った世界を見せてあげることくらい。
自分で外に行こうと思ってくれるまでは。
だから水上に向かう。
夏の間には、水の上から世界を違ったふうに眺めてみる。
我が家にはカヤックがある。
インフレータブルというカタカナ語で知られる、空気注入式カヤックを購入したのは昨年の夏。
は折りたたみ式でルーフラック(屋根の荷台)がなくても車に積んで持ち運びが可能。
かなり上等なタイプの空気式カヤックなためか、余りにボディは頑強なので、折りたたんでもかなりの大きさになる。
カヤックを三つ折りにして収納バッグに押し込めるのは毎回至難の業。程よい三つ折りにしたら無理やり車の後ろに放り込んで近所の湖や川に出かけてゆく。
わたしの街の中心には、北島の多くの住民に飲み水を提供してるワイカト川が悠々と流れている。
川は上流に漕いでゆくのはかなり大変なので、川下りをする場合には誰かに下流で待っていてもらって、お迎えに来てもらわないといけない。。
だから川下りはなかなか自由に楽しめないが、いつもは岸の上から眺めている川の水面をカヤックの上から遊覧する愉しみはなんとも言えないものだ。
「鏡の国のアリス」
川下りは楽しい。
無理にパドルで漕がなくても流れに身を任せていれば、ただひたすら流されてゆき、知らない風景が目の前に現れては消えてゆく。
ルイス・キャロルの不滅の名作「不思議の国のアリス」。
おそらく世界中で最も知られた英文学の大傑作は、小さな7歳のアリスと二人の姉妹を乗せた川下りの船に一緒に乗った作者が小さな女の子たちとの愉しい川下り体験からインスピレーションを得て生まれた物語だった。
小さな子供だった七歳のアリスは面白い話をしてくれるドッドソンおじさんの荒唐無稽なファンタジーなお話が大好きだったけれども、大きくなって興味が変わると、当然ながら中年の見栄えの良くない、吃音のおじさんのことなんて相手にしなくなった。
「不思議の国のアリス」が書かれた経緯を調べると、人生の物悲しさを感じずにはいられない。
キャロルの本名はDodgson ドッジソンという名前だけれども、生来のどもりのために自分自身を正確に発音できなくて、ドッドソンと彼は自分自身を呼んでいたのだそうだ。
-dg- の音の発声がうまくできなかった。自分自身の名前なのに。
だから
自虐も込めて。
「ドッド」という音はモーリシャス諸島で絶滅した鳥ドードーにも通じている。
「不思議の国のアリス」作中に登場するドードーは作者の分身だとされている。
子供のアリスにはドッドソンおじさんとはドードーのような人だった。
子どものアリスのことが大好きだったルイス・キャロル(ドッドソン)は失われてしまったあの夏の日を振り返って、次のような詩を作品の最後において、子どもだった頃のアリスの思い出を永遠の詩句の中にとどめたのは、もはや全てが失われてしまっていたから。
あの頃のアリスは思い出の中にしか存在しない。
「不思議の国のアリス」の続編「鏡の国のアリス」の最後には、あの楽しかった夏の日の思い出を回想する詩が置かれている。
「不思議の国のアリス」の冒頭には、物語創作のきっかけとなった三姉妹との川下りのことがユーモラスな詩句で語られている(1763年のこと)。
「アリス」の物語はユーモラスな川下りの詩で始まって、どこか悲し気な川下りの詩で締めくくられる。
アニメ映画や二次創作ばかりでアリスを知っていると、きっとそんなことには気が付かないのだろうけれども。
原作を読まないと「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の深みは分からない。
子どもたちとの楽しかった夏の日の思い出はアリスに贈った私家版「地下の国のアリス」という本として結実するけれども、その二年後、アリス一家と作者だけの物語は「不思議の国のアリス」として出版される。
私家版には作者自身のイラストが添えられていたけれども、出版物として成功させるには、プロの絵かきが必要だとなり、ジョン・テニエルがイラストレーターに選ばれて、ベストセラーとなる。
おかげでモデルとなった少女アリス・リデルは英国中で知られる少女となり、幼い少女はむやみに世間の耳目の対象とされてしまったのだった。
1771年、つまり舟遊びから八年のちに続編「鏡の国のアリス」が出版されたころには、アリスはもう子供でも大人でもないティーンの15歳になっていて、アリスとドードーおじさん(ルイス・キャロル)はもはや心を通じ合わせることはなかった。
一緒に愉しく舟遊びに興じたアリスは、続編が出版されたころ、もはやあの頃のアリスではなくて、全く別の早熟な大人の美しい女性へと成長していた。
ルイス・キャロルにとってのあの頃の時間は。うたかたの幻のようなものだった。
「鏡の国のアリス」は前作以上に複雑なレトリックが埋め込まれた文学的に難解なほどの大傑作なのだけれども、作品には作者自身の諦念が込められている。
誰が読んでも前作のアリスと続編のアリスの違いは明らかだ。
「鏡の国のアリス」のアリスの方がずっと前作よりも大人びている。
子供が成長するのは当たり前だけれども、続編のアリスは前作のアリスよりもどこか思慮深くて、前作の子供らしさを好む人はどこか一抹の寂しさを感じずにはいられない。
「不思議の国のアリス」冒頭の舟遊びの詩と、「鏡の国のアリス」最後の舟遊びの詩があれほどに違うのは当然で、ルイス・キャロルには第三作目がもう書けなかったのは当然だった。
わたしは川下りをするたびにアリスのことを思い出す。
わたしも女の子の父親だから、どこかルイス・キャロルの感慨からは無縁ではいられないのだ。
さて、ルイスキャロルを論じるまでもなく、我が国の方丈記や奥の細道を上げるまでもなく、川の流れは時の流れの象徴。
ウォータースポーツを毎年楽しむわたしにとって、海岸や湖畔での水遊びこそが子供たちと過ごした最良の時間だ。
海や湖に行かなかった夏はない。
白い雲の下の水の上には本当に数えきれないほどの思い出がある。
素晴らしい夏
南太平洋ニュージーランドの12月、1月、2月は一年で最も素晴らしい季節。
これほどに爽やかな夏を満喫できる場所は地球上でも数少ないのかも。
どんなに暑くても場所にもよるけれども、気温30度を上回ることはほとんどない
昨年は地球温暖化のためか、異常気象で気温30度を何度も超えたけれども。
シェイクスピアがいみじくも詠んだように
と呼びたくなるような夏の日々がわたしのそばにある。
日本的に言えば、まだ夏真っ盛りにはならない初夏の程よい暑さと夏の日差しが気持ちのいいような毎日。
ブルーレイクにて(Blue Lake)
けれども、風が吹くと日差しがどんなに強くても、半袖のTシャツ一枚では肌寒くてジャケットが欲しくなる。
暑すぎない夏はすぐに寒い夏にも様変わりする。
湖面に日が照り付けると、水温はどんどん上がってゆくけれども、外気は冷え込んだりしていているのが不思議な夏。
昨日の日曜日に訪れたのは、観光地ロトルアの南に少し行った場所にある
と呼ばれる、非常に透明度の高い水と独特の色合いで有名な湖。
我が家から車で一時間半の距離。
日が水面を照らすと水の色は青くなる、というか緑になる。
ブルーレイクよりもグリーンレイクと呼びたくなる。
水上の冒険へ
さて漕ぎだしてゆこう。
光が湖水に差し込むと水面は一瞬にして緑色に。
この特別な色合いは火山の影響。
火山から生み出された土壌のミネラルがこのような自然の神秘を作り出す。
湖や川でカヤックで遊ぶ問題は、遠くでジェットボートが走ると湖上に海の上のような大きな波が生まれて思い切り揺れること。
キウィたちはジェットボートにサーフボードなどをロープで結んで水上スキーなどを楽しむことが大好き。
大波がやってくる。
船体を波に対して向きを変えないといけない。
つまりサーフィンの要領だ。
波に向かい合うようにならないといけない。
横波を食らうと船体がひっくり返るような恐怖感に襲われる。
ひっくり返ったことはないけれども。
小さな船なのでボートが引き起こした波で揺れるたびに自分の体重移動をしっかりとしないといけなくて、やはりカヤックは立派なスポーツだと再認識する。
バランス感覚が悪い人だと、カヤックがひっくり返ることだろう。
向かい風だとなかなか進まない。
ずっと曇り空。
カヤックを漕いで楽しむ我々にはあまり日焼けをせずに済んだことは良かった。
南半球は北半球よりも紫外線が強くて、オイルを肌に塗ることは絶対に必須。
曇り空でも紫外線は絶えず注がれている。
曇り空では日焼けはしないのだけれども。
この国では肺がんよりも皮膚がんが死因のかなりの割合を占める。
特に白人系は肌が弱いので要注意。
2025年1月の舟遊びでした。
海水浴をしたいほどに暑くはならない夏だけれども、カヤックで岸辺の水着の人たちが行けないところで遠出できることはなんとなく優越感も感じられるところが少しスキ(笑)。
こちらは夕暮れのカラピロ湖。
この湖はワイカト川をせき止めて作られた人工の湖。
水力発電に利用されている
。。。
。。。
。。。
いつの日か、ルイス・キャロルのように、遠い昔の舟遊びの日々を思い出すこともあることだろう。
最後に湖畔における感慨を音にした、英国の作曲家ヴォーン=ウィリアムズの湖にちなんだ神秘的なピアノ曲。
日がな湖を眺めているとこんなノスタルジックで神秘的な音楽が頭の中に浮かんでくる。
カヤックの中で揺られているとき、絶対にヘンデルの水上の音楽のような派手な音楽が脳裏に響いてくることはない。
カヤック乗りはそんなに豪勢なものではない。
水上の孤独を時々感じる。
あまりに静かで水鳥の声と風の音ばかりが水上を支配している。
忙しい日常を離れて、ただぼんやりと湖面を見ていると、どこか遠い昔になってしまった子供たちの幼い頃が思い出されて仕方がない。
ヴォーン=ウィリアムズの音楽は都会の喧騒とは無縁な、わたしの生活を映し出したような静かな世界。
水の上で遊ぶこと。
都会で暮らしている人は時々やってみるといいですよ。
きっとあなたの知らない世界、忘れていた世界を思い出す、取り戻すことができるから。
夏はまだ終わらない。
また来週、カヤックしてきます。次はどこの湖にゆこうかな。