ミチュホ仮説の考古学的基礎

 私は百済の兄弟国で百済南方にいたミチュホ(沸流百済ともいう)が370年ごろ倭国に侵攻したという仮説を立てています。その仮説を思いついたのは朝鮮半島に倭国領があったことは史実であるが、なぜ倭国領が存在しているのかと考え続けていたときです。領土があるのに侵攻して奪取した形跡がない。ならば、そこにいた王権がやってきたと考えれば巧く説明できるのではないかと思ったからです。

 いろいろ調べているうちに雄略が熊津(忠清南道の古都)を百済の文周王に譲渡して、文周王を助けたという史実(475年の百済滅亡直後)、487年、百済南方で紀生磐が百済転覆の反乱を起こした地域は全羅北道で、そこは任那とよばれていたことなどが分かってきました。紀生磐の百済転覆計画に怒った東城王が全羅道に侵攻したのが、487年以後で、495年ごろまでに全羅南道・北道の西側3分の2を百済領にしたことも分かってきました。全羅南道・北道の東側3分の1がいわゆる4県で、百済は倭国に割譲を申し入れたのです。4県割譲は紀生磐の乱、東城王の全羅道侵攻に繋がる一連の史実であることを理解することが大切だと思います。

 また百済の王統には二種類あって温祚王から始まる王統と、温祚王の兄の沸流が建国した王統があったことも分かってきました。沸流が建国した沸流百済はミチュホという場所を王都としていた時期があり、ミチュホと呼ばれていました。倭国のミズホはミチュホの転音です。ミズホが水穂とか瑞穂というのは日本書紀特有の子供だましです。倭国は古代になぜミズホという呼称であったのでしょうか。ミズホという言葉が残っていることは重要です。

 歴史書の中では沸流百済は滅んだことになっていますが、実際には滅ぶことなく南進していたと考えられます。ミチュホが百済の南方にいたために百済は南進することができず、京畿道に留まっていたのです。475年、高句麗の長寿王が攻めたとき百済は滅んだと言われていますが、京畿道を落とされて、領土をなくしてしまったのです。そのとき百済の文周王(忠清南道)を譲渡して助けたのが雄略です。

 「倭国王が百済王に百済の領土を与える」というこの記事を35年前に初めて読んだときは、意味不明のつまらない屑記事だと思っていましたが、そうではありませんでした。日本書紀は貴重な記事を残してくれていたのです。「倭国王雄略が百済の文周王に朝鮮半島の忠清南道の領土(熊津)を与えた」ことの意味をミチュホ仮説で合理的に説明できたと私は思っています。

 ミチュホの存在を考古学的に証明できないかと考えています。370年ごろ以降に半島の文化が突然、一気に、網羅的に倭列島に侵入してきている事実(後述)が重要です。その10年ほど前(360-370)には加羅地域の文化(例えば筒形銅器)が散発的に渡来していますが、集中的な文化渡来は370年ごろを上限としています。須恵器、馬具、甲冑の起源はすべて380年ごろで一致しています。このような認識ができるとなりますと、その30年前、50年前に起こらなかったことがなぜ370-380年ごろに突然、そして一致して生じているのか、その説明が必要となりますが、それはミチュホという王権がやってきたからだというのが私の説明になります。

 そこでミチュホ仮説の考古学的証拠として、須恵器、馬具、甲冑の歴史を簡単にみていきます。

須恵器の起源
 初期須恵器と考えられているTG282は390年ごろから作られています。その須恵器の前に百済系の陶質土器、瓦質土器が(製品、技術)が渡来しています。TG282よりも前の最初期の須恵器が今後出てくる可能性がありますし、TG282の製作年代が10年ほど引き上げられる可能性もあると思います。京都府宇治市の宇治市街遺跡で出土した須恵器が、4世紀後半に作られたことがわかったと同市教委が2006年に発表しています。同遺構から見つかったヒノキの板材を、年輪年代法で測定した結果です。
 
 倭国に半島からもたらされた土器はまず百済系のもので、次いで加耶系の土器が流入しています。390年よりもやや前の時期に百済系の土器が倭国でみつかるのは重要ポイントです。この事実を説明するために加羅と百済が同盟を結んでいたからだとする説があります。解決できない問題があると同盟やら連盟やら、和解やらで説明するのは悪弊でしょう。根拠もなくそうした概念を用いるのは慎むべきでしょう。もっと本質的な議論なり、仮説を提出してほしいと思います。

馬具の起源
 大阪府四条畷市の蔀屋北遺跡が古代の馬匹生産センターであったことが最近、明らかにされています。時期はだいたい5世紀から6世紀初頭までですが陶質土器、瓦質土器が出土しており、370~400年に渡来人が馬匹生産を開始していた可能性があります。陶質土器、瓦質土器は倭国で須恵器が作られる前に、半島から持ち込まれた土器だからです。その数は少ないとはいえ370~400年ごろに馬匹生産を行っていたことが推測できます。

 ただ、400年よりも前の馬具は実際には発見されていないのはミチュホ王権は馬を日常生活に多少用いる程度で、騎馬軍団を組織して戦争に使うことを考えていなかったからだと思います。
 蔀屋北遺跡以外の馬具の初現期は甘木市池ノ上6号、加古川行者古墳から出土したもので5世紀初頭と考えられています。5世紀初頭となればミチュホは崩壊寸前ですから、ミチュホの馬具ではなく、仁徳朝のものだと思います。

甲冑の起源
 古代の甲冑として①小札革綴冑(かぶと)と小札革綴甲(よろい)が出現しています。小札革綴冑11例そして小札革綴甲3例が雪野山、黄金塚2号、妙見山、椿井大塚山、玉手山、西求塚、黒塚、石塚山(福岡)などから出土しています。

 この甲冑の起源は邪馬台国時代に晋から輸入されたもの、およびそれをモデルに作られたもので4世紀の三輪王権の武具でしょう。出土範囲が畿内(京都、奈良、大阪、兵庫)と福岡であり、三輪王権の統治範囲が畿内であることを示しています。

②竪矧・方形板革綴短甲
 常陸狐塚、雨の宮1号、船来山98号、安土瓢箪山、園部垣内、鞍岡山、瓦谷1号、茨木将軍塚、北大塚、上殿、新沢千塚166号、新沢千塚500号、鴨都波1号、五條大墓、タニグチ1号、中山B-1号、若八幡宮、稲童15号、熊本山などから出土しています。常陸狐塚(茨木)、雨の宮1号(石川)、船来山98号(岐阜)以外は畿内と九州です。

 百舌鳥地域からの出土がないので明らかに仁徳朝より前です。問題は古市地域の応神朝のものか、それ以前のものかということになります。いくつかの古墳は三角縁神獣鏡を共伴していますので、ミチュホが倭国に侵攻してきた370年に近いがそれよりも前の短甲ではないかと推測します。

 ミチュホが侵攻する前の10年ほど奈良盆地南部の葛城氏が勢力をふるっていましたので葛城氏系もしくは葛城氏の影響を受けた三輪王権時代の甲冑だと推測します。三輪王権が葛城氏を滅ぼそうとしなかったのは葛城氏が三輪王権の系統に属する勢力だったからでしょう。方形板革綴短甲は次世代の長方板革綴短甲および三角板革綴短甲と比べて規格化ができていなかったようです。それは強力な王権のものではないことを示唆します。

③長方板革綴短甲(帯金式 中期甲冑) 
 畿内以外に岡山、山口、徳島、香川、愛媛、福岡、熊本、大分、宮崎、鹿児島、茨木、栃木、東京、長野、群馬、富山、石川、福井、岐阜、静岡、三重、宮崎、鹿児島などから出土しています。応神期の盾塚から出土していますので応神朝の短甲でしょう。大阪府では和泉黄金塚古墳や豊中大塚古墳、百舌鳥の七観古墳から出土していますので、応神朝のみならず仁徳朝でも用いられたようです。
 
 ②竪矧・方形板革綴短甲と③長方形革綴短甲ないし④三角・横矧板革綴短甲は、全く共伴関係にないと指摘されていますが、②竪矧・方形板革綴短甲は360-370年ごろの葛城氏勢力時代、③長方形革綴短甲ないし④三角・横矧板革綴短甲はミチュホの甲冑とすれば全く共伴関係にないことがうまく説明できます。
        
④三角板革綴短甲(帯金式 中期甲冑) 
 古市地域の津堂城山古墳や盾塚古墳から出ていますので応神期ミチュホ時代からでしょう。一方で百舌鳥大塚山古墳や七観古墳からも出ているので、仁徳時代まで継続していたと考えられます。

 ここで大きな問題が生じます。私は応神を始祖王とする応神朝と仁徳を始祖王とする仁徳朝を峻別するべきだと考えていますが、③長方形革綴短甲ないし④三角板革綴短甲は応神朝と仁徳朝に共通になります。王朝が違えば甲冑も異なるだろうと考えていたので、これは自説には障害となりました。

 そして次のような考えに達しました。仁徳が応神朝を攻めたとき、応神朝の一部は抵抗することなく仁徳に臣従した可能性があります。かれらは古市の鞍塚古墳、珠金塚古墳、野中古墳の近所に住み、甲冑作りに従事していたのではないのか。応神時代の③長方形革綴短甲および④三角板革綴短甲が仁徳時代に継続的に用いられたのはそのためだと推測します。

 以上のように十分ではありませんが須恵器、馬具、甲冑の発達は370年を少し経過した380年頃に出現したり、大きな変容をとげた形跡があり、これはかなり強力な王権があったことを示していると思います。

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