アカデミックな文献史学が解決していない二つの重要な問題があります。 一つは四世紀末の倭国の統一問題(390年ごろから倭国は朝鮮半島に派兵しており、当然、倭国内は一定程度統一されていたはずである)です。 もう一つは512年の四県割譲の問題です。512年倭国は百済の要請に応じて4県を割譲しています。割譲したということは朝鮮半島に倭国領が存在していたということです。しかし、倭国が戦争でその辺りを領土とした記録はありません。369年ごろの神功皇后の新羅侵攻の話と、彼女が派遣した将軍
「万葉和歌はいつごろ、どのようにして発達したのか」という問題は古代国文学で最も重要視されるべき問題ですが未だにこれを解決できる国文学者が出てこないのはなぜでしょうか。国文学者の間には「万葉和歌はいつごろ、どのようにして発達したのか」という問題を追及してはならないタブーでもあるのでしょうか。少し注意書をしておきますが、有名な仁徳皇后の磐之姫の和歌をはじめ、5世紀や、6世紀の和歌はすべて仮託であり、読み人とされている人物の和歌ではありません。日本書紀や古事記の中の歌の大半は仮託、
アカデミックな文献史学が解決していない二つの重要な問題があります。 一つは四世紀末の倭国の統一問題(390年ごろから倭国は朝鮮半島に派兵しており、当然、倭国内は一定程度統一されていたはずである)です。 もう一つは512年の四県割譲の問題です。512年倭国は百済の要請に応じて4県を割譲しています。割譲したということは朝鮮半島に倭国領が存在していたということです。しかし、倭国が戦争でその辺りを領土とした記録はありません。369年ごろの神功皇后の新羅侵攻の話と、彼女が派遣した将軍が
私は応神は370年に倭国に侵攻したとしていますが、その後の状況をスケッチ的に描いてみました。 応神は生まれたときから天皇(胎中天皇)であると書かれていますが390年に即位しています。 366年(神功紀46年条)「斯摩宿祢」という人物を倭国が伽耶の卓淳国(慶尚北道の大邱?)に派遣 註:仁藤敦氏によれば「斯摩宿祢」という人名は百済記の中の職麻那那加比跪からの造作 369年(神功紀49年条)神功皇后、新羅征伐。その後2将軍が加羅七国を平定した後、西に回り4つの村(クニ)と済州
古来、金海・釜山を含む南伽耶が任那と呼ばれ、また加羅諸国がまとめて任那と呼ばれていました。任那の語源については鮎貝氏の説がありますが、説得力がありません。今のところ語源は不明と言っていいと思います。朝鮮では任那という言葉は嫌われており、ほぼ抹消されていますが、一方で、倭国では頻繁に使われている言葉です(なぜ、朝鮮半島で嫌われているかを考えることも必要でしょう)。 本投稿のテーマは「全羅道は任那だった」です。 この事実は意外と知られていませんが、重要な事実なので少し
河内王朝説について桃崎祐輔氏の『日本列島における馬具と騎馬文化の受容』P36に簡潔にまとめられているので引用させていただきます。 河内王朝論と馬の渡来 津田左右吉氏は、『古事記及び日本書紀の新研究jにおいて、仲哀以前の天皇は実在性に乏しく、6世紀の帝紀には、応神より後の記事が記されていたと推測した(津田1919)。 その後、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」(岡・八幡・江上・石田1949・1958、江上1967)では、前期古墳が呪術的、農耕的性格を示すのに対し
文化人類学(考古学)専攻の福岡大学教授で『古代騎馬文化受容過程の研究』を書かれた桃崎祐輔氏は同書の中で津堂城山古墳=応神陵、仲津山古墳=仁徳陵、上石津ミサンザイ古墳=履中陵、誉田御廟山古墳=反正陵、大仙古墳=允恭陵、土師二サンザイ古墳=安康陵と比定されています。騎馬文化受容過程の研究は質・量ともに優れた内容だと評価できるのですが、このオオキミ陵の比定には少し驚きました。 · 上記の比定の中で上石津ミサンザイ古墳を履中の陵、大仙古墳を倭王済こと允恭の陵とする見解に異を唱え
三輪王権の崇神、垂仁、景行の三代の王の王妃墓を検討します。まず崇神王妃の御間城姫の陵墓は記紀に記載がありません。垂仁妃の日葉酢姫の陵墓は纏向地域から離れた佐紀古墳群にありますが、時代が合わないため、本当の日葉酢姫の墓とは考えられません。景行王妃の稲日稚郎姫の陵墓は兵庫県加古川市の日岡陵ですが墳長80mの古墳です。したがって三輪王権では王妃の墓を大きくする考え方はなかったと思います。 三輪王権と比較して応神朝になると応神の王妃、仲津姫の巨大な陵墓、仲津山古墳(290m)
考古学について全くの素人が考古学者の学術的成果をもとに古代の甲冑について考えてみました。知識の不足、理解の足らないところがあると思います。ご批判を待って再考したいと思います。 素人的には須恵器にしろ、甲冑にしろ、馬具にしろ専門家の論文は「5世紀中葉」だとか「4世紀末」「古墳時代前期中葉」などと書かれており、分かりにくいので、私は素人として三輪王朝、応神朝=ミチュホ、仁徳朝という分け方をしています。 まず古代の甲冑として①小札革綴冑(かぶと)と小札革綴甲(よろい)が出
応神期に百済から馬2頭が贈られた記録はありますが、数は多くなく、少なくとも積極的に軍事には活用していないようです。応神期は370-412年ですが、391-407年には朝鮮半島で高句麗軍と戦い、407年に敗退しています。396年、400年、404年、407年には倭軍が高句麗軍と戦った記録が残っていますが、407年以後、全く戦闘の記録がなくなっていることから戦争に負けて撤退したことが分かります。大敗の原因の一つは騎馬軍団をもつ高句麗軍に対して応神朝は騎馬軍団をもたなかったからでし
須恵器は朝鮮半島の陶質土器、瓦質土器の製法(登り窯焼成)の技術が倭国に入ったのちに製作が開始されています。 最古の須恵器は380年ごろとみられていますが、それ以前に倭国で陶質土器、瓦質土器が作成されています。つまり370年 ごろから朝鮮半島の土器製法が倭国に入っています。私は百済南方にいたミチュホ(ミズホ)が370年ごろに倭国に侵攻したという仮説を提出していますが、須恵器の歴史はそれを裏付けるものだと思います。 積山洋氏の『法円坂倉庫群の再検討』では最も古い須恵器である
酒井清治氏は『須恵器生産のはじまり』の論文要旨で次のように書いています。 *** 構造窯を使った土器生産が伝わったのを,時期あるいは地域を考慮して段階設定して1段階,2a段階,2b段階とした。 1段階は百済地域から瓦質土器生産技術が,2a段階はおもに加耶地域から陶質土器生産技術が,2b段階はおもに百済・栄山江流域地域から陶質土器生産技術が伝わったと考えた。 1段階の出合窯跡の土器は瓦質でそれも日常什器で渡来人のために生産した窯と考え,のちの陶質土器生産と目的が違うと想定した
上石津ニサンザイ古墳(これまで履中陵とされていた)が大仙古墳(仁徳陵)よりも古いことが円筒埴輪の検討から分かっています。これまで通り上石津ニサンザイ古墳を履中陵だとしますと、大きな問題が生じてきます。私は上石津ニサンザイ古墳は仁徳王妃の磐之姫の墓と考えれば、上石津ニサンザイ古墳が大仙古墳(仁徳陵)よりも先にできたとしても問題がないことを示しました。 しかし、また別の問題が生じています。上石津ニサンザイ古墳、大仙古墳(仁徳陵)と古市古墳群の中の仲津山古墳と応神陵(誉田御廟山
江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説について多くの批判があります。一世風靡の学説であったために、多くの注目をひき、多くの批判を浴びています。 確かに論証できていない部分が多く、学説としては失敗しています。しかし、江上説を否定している人が4世紀末から5世紀初頭(370年から430年まで)の正しい歴史観を提示出来ているかというと、全く提示できていないのが現状です。例えば仁徳陵と応神陵がなぜ超巨大になっているか説得力のある説は提示されていません。白石太一郎氏のように百舌鳥と古市の勢力
履中陵(365m)から採取された円筒埴輪には黒斑が付いています。したがってその円筒埴輪は野焼きで作られたことが分かっています。一方、履中の父である仁徳の陵墓から採取された円筒埴輪には黒斑がないので窯焼成で作られたと考えられています。そこで黒斑が付いている円筒埴輪(Ⅲ期)をもつ履中陵の方が、黒斑がない円筒埴輪(Ⅳ期)をもつ仁徳陵(486m)よりも古いことになり、その解決法が求められており、一部の学説は上石津ミサンザイ古墳こそが仁徳の陵墓であり、大仙古墳(仁徳陵と言われている)