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万葉を訪ねて ―万葉秀歌十選 <上> 四季を味わう歌4首―

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「万葉秀歌十選」という題は誤解を招くかも知れない。

私はこれから紹介する10首の歌を万葉歌中の最上のモノと考えているわけではない。それに万葉歌の優劣について批評する資格があると思うほど思い上がってもいない。

あくまでもここに試みるのは、真淵に導かれて万葉歌をよみ、歌の心と真淵の味わい方の両方に感動した歌を抜き出してみる、ということに尽きるのである。


なお、叙述は原則として詞書(意訳を施した)原文(真淵が「今本」を採らず「一本」を採用した、あるいは真淵自身の考えに基づき字を改めた場合は、括弧内にその旨を記した)、訓読(真淵の読み方に従った)、現代語訳の順に掲載し、真淵の解釈と私の感想を付け加える形で進める。

詞書の右に付した括弧内の数字は、間にハイフンを挟んで左は巻数を、右は国歌大観番号を表している。


さて、前置きは程々にして始めよう。本項では四季を味わう歌4首を採り上げる。


① 作者不祥の春の歌 (10ー1812)

久方之 天芳山
此夕 霞霏微
春立下

ひさかたの あめのかぐやま
このゆふべ かすみたなびく
はるたつらしも

嗚呼、形よろしき香具山に
今日の夕べは霞みが棚引いている
もう春になったらしいよ



「香山を望めば、此夕ぐれのどやかに霞棚引つるは、春の立たるならんてふ意のみなり、かくことすくなくうるはしく姿も高く調ふるがかたきなり」(「賀茂真淵全集 第19巻」228頁)


いきなり万葉考の範囲外に在る第10巻からの選抜となった。

言い訳をさせてもらえば、万葉集は古今和歌集以降と比べて春の歌が少ないように思う。この歌は上記に引用した「万葉新採百首解」という別の著作に採り上げられた。書名の通り真淵が選ぶ「万葉歌ベスト100」の中の1首である。

真淵の評はこうだ。この歌のように言葉少なく麗しく格調高い姿の歌を詠むのがむつかしいのである、と。

「雨が降ったら雨が降ったとお書きなさい、それが文章の極意だ」とはロシアの文豪アントン・チェーホフの言葉だが、確かに意識的に歌を詠む後世の歌人にとって、雨が降ったら雨が降ったとだけ書くことほどむつかしいことはない。

如何にして上手いことを言ってやろうかという雑念に阻まれて簡潔な表現を困難にしているのだ。


さて、この歌は意味こそ易しいが理解は易しくない。

と言うのも、現代人はこのように季節を感知していないからである。私は序の2において旧暦の七十二候について述べた時に、旧暦は日付を表示する機能に留まらず季節を味わう技術を日本人に与えたと書いた。

ここで議論をひっくり返したい。

古代日本人には七十二候はおろか日付すら必要なかった。季節は眼前にあり、それを感知する繊細な感受性が古代人の生活感覚に具わっていたからである。江戸の一連の改暦はむしろ、この感覚が失われたことの自覚に端を発し、その回復を目指した学問上の運動であった。

万葉歌人はひたすら時の移ろいに驚いていたのであって、季節を己の表現のダシに利用してやろうという意図は無かった。作者は、霞みが棚引く夕ぐれ時の香具山を漫然と眺めていただけだ。それを春の訪れを告げるシルシと感知した時、ふっと歌がコボれたのである。

これを古今和歌集の有名な歌「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」と比べても面白いかもしれない。静心が無いのは作者の心であり桜はその投影に過ぎないという感じを受ける。歌われる内容を充分に意識してから、その心に季節を当てはめた感が否めない。




② 持統天皇御製の夏の歌 (1ー28)

春過而 夏来良之
白妙能 衣乾有
天之香来山

はるすぎて なつきたるらし
しろたへの ころもほしたる
あめのかぐやま

春過ぎて夏が来たらしい
真っ白な衣を干した
香具山を見ると



「都とならぬ前に、鎌足公の藤原の家、大伴氏の家もここに在、此外にも多かりけん、然れば、夏のはじめつ比、天皇埴安の堤の上などに幸し給ふ時、かの家らに衣を懸ほして有を見まして、実に夏の来たるらし、衣をほしたりと見ますまにまにのたまへる御哥也、夏は物打しめれば、万づの物ほすは常の事也、さては余りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし(中略)或説に、白妙の衣とは白雲を譬給ふといふも、いよよ後世心もて頓に考よせたるもの也、香山は貴けれど、高山ならねば、白雲の立もかかりもする事なし、地をも古へをも知ずていふのみ」(53頁)

この歌も1首目と同じく、季節の変わり目を意識した瞬間を切り取った歌と言えるだろう。

百人一首に収録されているので比較的有名な歌である。読み方が一部異なっているがむろん万葉集が正しい。

真淵の解釈は、この歌の持つ豊かな「生活感」を蘇生しようとする。

歌が詠まれた当時、香具山の近くには藤原や大伴といった有力貴族たちが住んでいた。

夏になれば物が湿気ってしまうから、彼らがよろずの物を干しておいたのは尋常なことだ。

尋常なことを見たままに詠んだ歌なのに、後世の人々は歌の意味が軽すぎやしないかと勘ぐり、白妙の衣とは白雲を比喩した表現だとか何だとかと屁理屈を述べ合っているのは嘆かわしいことである。

香具山は雲がかかるほど高い山ではないし、古代人は無暗矢鱈に比喩を用いなかった。地理も古代の心も知らないで歌を解釈する輩が多いことよ、と言うのである。

真淵の解釈は常に「息遣いと場の気配」という具体的なモノに向かっている。万葉歌人たちと同じ眼球を通じて歌の世界を見ようとするのである。



③ 長皇子、自邸の佐紀宮に志貴皇子を招き、宴を催した時に詠んだ秋の歌 (1ー84)

秋去者 今毛見如
妻恋尓 鹿将鳴山曾
高野原之宇倍

あきされば いまもみるごと
つまごひに しかなかむやまぞ
たかのばらのうへ

秋になれば現にそうであるように
永遠に妻を慕う牡鹿が鳴く山なのだ
高野原の上は



「今も見る如くに、ゆく末の事もかはらじと云也、此言は例多し(中略)ここの興の尽すまじきにつけて、志貴皇子を常にこひむかへて遊びせんてふ事を、鹿の妻ごひに添給ふならん、且ここに住初めたまふ言ぶきもこもれり」(91頁)

この真淵の解釈は独創的なもので、近現代の万葉学者と比較してみると更に面白い。

「今、鹿の声が聞えてゐるが、やがて秋になったら、今経験してゐると同じ様に、妻に焦れて、始中終、鹿が鳴くはずの山です。此高野の原のあたりの此山で。(だからまた、秋にも此処へ来ようではありませんか)」(折口信夫)
「秋になると、ほらご覧のようにきまって妻恋いの鹿の声がひびく山なのですよ。この高野原の上は。」(中西進)

折口案は秋について春に詠んだ歌と捉え、中西案は秋について秋に詠んだ歌と捉えている。真淵は中西案と同じく秋に詠んだと見ているが、内容の深さが違う。

「今も見る如」の用例を調べると「今がそうであるように行く末まで変わらず」の意味で用いられることが専らである、と真淵は言う。

したがってこの簡潔な表現の中に作者が込めたメッセージは、わざわざ己の新居を訪ねてくれた志貴皇子に対する、永遠の友情の誓いだと解釈するのである。

季節とは移ろうモノであると同時に永劫回帰するモノでもある。その両義性に、この万葉歌人は永遠の友情という儚い願いを託したのだった。



④ 志貴皇子、持統天皇の難波宮行幸に随行した時に詠んだ冬の歌 (1ー64)

葦辺行
鴨之羽我比尓 霜零而
寒暮 家之所念 (今本、寒暮夕和之所念。真淵改)

あしべゆく
かものはがひに しもふりて
さむきゆふべは いへしおもほゆ

葦の生える池を泳ぐ
鴨の背中に霜が降りて
寒い夕べは家のことが思われる



「この暮家を今本暮夕和と有て、暮夕をゆふべ、和をやまとと訓しは誤りぬ、此巻の字を用る様、ゆふべとよまんには暮か夕か一字にて有べし、又やまとの事に和の字をかかれたるは、奈良朝よりこそあれ、藤原朝までは倭の字なる事、この下の哥どもにてもしれ、しかれば此御哥に和をやまとと訓はひがごと也、仍て考るに、家の草(※ 草書体の意)を夕和二字に見なして誤りたる也、此次の哥に家之所偲と有に同じこころことばなるをも見よ、さて所につけ、をりにつけたる旅ゐの意を、うるはしくのべ給ひつ」(79~80頁)

古来この歌は「葦辺ゆく鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ」と読まれてきた。真淵はこれを草書体の誤読によるものと見て「家し思ほゆ」と直した。

なるほど遠国への旅ならまだしも、たかだか奈良大阪間の移動で「こんなに寒い夜は故郷のことが思われてならない」と歌っては少し大袈裟である。家のことが思われる、と言うのであればそれは当然であろう。

残してきた家族のことは旅の距離や日数に関わらず心配に違いなかろう。元々秀歌とされてきた歌ではあるが、真淵の手によって味わいを更に増した歌の中の1首である。


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