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万葉を訪ねて ―序の9 ミノオボエ―

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田安宗武公は8代将軍徳川吉宗の次男として享保元年丙申に生まれた。

真淵より19歳年少である。後継者確保の観点から吉宗の意向で分家せられて御三卿のひとつ田安家の初代当主となり、吉宗が隠退すると実兄で9代将軍となった家重を補佐するために参議として政治に参画した。

ただ、兄弟の仲は思わしくなく家重の愚鈍さを批判して吉宗に謹慎を命ぜられたことさえある。才気に溢れるが気難しい性格の持ち主、と言ってしまえばいつの世にもいる人間の類型であるが、日中の古典に通じ歌文をこよなく愛した風流人でもあった。

真淵との交流は前述のように、延享元年甲子に己の国歌八論余言についての見解を下問して真淵が国歌八論余言拾遺で答えたことに始まる。もちろんそれ以前にも在満の共同研究者として名前を聞き知っていたには違いないが、直接の交流はなかったと思われる。


翌年の延享2年乙丑睦月に真淵の母が浜松で亡くなった。真淵の人生においては重大な事件である。臨終に立ち会えなかったことを悔やみ失意のままに一旦帰郷する真淵の姿が「後の岡部日記」に記されている。

振り返ってみれば、真淵の京都修学を決意させた要因のひとつが父の死だった。父の死は異常な行動力を喚起したが、母の死は逆にまさにこれから前途が開けようとした矢先の出来事であった。それだけに真淵の落胆はいかほどであったかと思いやられる。

さらに翌年の延享3年丙寅如月には火事により自宅を焼失したが、すぐさま弟子たちの尽力によって再建された。真淵は浜松の知人に宛てた手紙の中で、新居は旧居より住み心地がよくて満足しております、江戸にお越しの際は是非お立ち寄りくださいと言っている。

ずいぶん明るい印象を受ける文面だが書かれたのは母の死の翌年のことなのだから、これは母の死と自宅の焼失再建という偶然の出来事を必然(啓示)として引き受けて己を奮い立たせようとする真淵の精神の姿と見た方がよい。

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死と再生から飛躍へ。実際にそれはすぐにやってきた。自宅を再建したのと同年同月に、宗武公の和学御用係として出仕するよう下命されたのである。

真淵は50歳から64歳まで15年間もの長期にわたって宗武公に仕えた。業務内容は基本的に宗武公の下問に答えることである。簡単な質問であれば口頭で答えたが、あまりに難しい案件の場合は著作を以て答えた。また宗武公も並みの教養人ではないので、ふたりの共同研究という側面もあった。


以下に挙げるのは15年の仕事の成果である。

延享3年丙寅50歳「延喜式祝詞解」
延享4年丁卯51歳「文意考」(五意考のひとつ)
寛延元年戊辰52歳「古器考」
寛延2年己巳53歳「万葉解」(万葉考の原形、中途で頓挫する)
寛延3年庚午54歳は目立った著作なし。
宝暦元年辛未55歳も目立った著作なし。
宝暦2年壬申56歳「三代集総説」「万葉新採百首解」
宝暦3年癸酉57歳「伊勢物語古意」
宝暦4年甲戌58歳「源氏物語新釈」に着手。
宝暦5年乙亥59歳は目立った著作なし。
宝暦6年丙子60歳「万葉考」に着手。
宝暦7年丁丑61歳「冠辞考」「古事記頭書」
宝暦8年戊寅62歳「源氏物語新釈」の完成。
宝暦9年己卯63歳「雑問答考」
宝暦10年庚辰64歳「古冠考」「万葉集大考」(万葉考の総論部分)の完成。


一見して分かるのは、ほとんど毎年のように著作が成っている多作ぶりと、研究範囲の広さである。古事記、万葉集、延喜式祝詞、古今和歌集、伊勢物語、源氏物語といった日本古典の解釈のみならず、古器考や古冠考といった古代の習俗を明らかにしようとするもの、つまり有識故実に関する著作も成っている。

真淵が己の雇用環境についてどのような感想を抱いていたかは、幸いにも親しい人に宛てた手紙等に記されている。はじめのころは、宗武公の矢継ぎ早な「宿題」のせいで、念願である万葉集の解釈になかなか取り組めないことをボヤいていた。

そして50歳の身体には堪えるハードワークだともコボしている。むろん元々放浪者同然の身だったので金銭面では満足していた。最大で十五人扶持を賜ったというが、これは平均的な下級武士よりは遥かに良い待遇と思われる。


はじめこそ不満気味に仕事をこなしていた真淵であったが、次第に宗武公の「宿題」の数々が己の学問の構築に多大な貢献をしていることに気づき始める。64歳で隠居を申し出て承認された後、万葉考の総論部分にあたる万葉集大考の中で、真淵は次のように回顧している。

「おのれ真淵、かの荷田の田長の齢の末に名簿を送りて侍れど、おぢなき山がつはしも、斎種まきまかする水の源を遠く尋らず、徒らに勝しと覚え、秀でたりと思ふ事らを聞き喜べるのみなりき。」


まず真淵は「京都修学時代」の4年間を振り返る。このころの真淵は荷田春満が教えてくれたあれこれの歌や古典を聞いて「ああ、素晴らしいなあ」と感動するばかりであった。その源泉へと遡及することはせず、専ら味わうばかりであったと言うのである。

「しかりてより此方彼方や古川の辺の古き事を偲びて、手な肘に水沫かきたり、向股に泥土かき寄せつつ、この奥つ御年を得まくすれど、いかで独りやはあへん。」


次に「江戸放浪時代」の10年間を振り返る。春満の死後あれこれと努力はしたけれども、遺志を継いで古代の心を明らかにするという収穫は、己ひとりの力では到底得られなかったと言うのである。

「天下集へませる武蔵の大城の下に来たりて、千萬人の心々を思ひ、諸々の手ぶりを見、種々の言葉を聞き、末にやんごとなき大殿に参りて、伏せ庵の所狭き心を見広め、思ひ改めてゆこそ、いささか雄々しき大和魂は覚えけれ。」


前半部分はすでに述べた。「田安家出仕時代」の15年間を振り返って、宗武公との共同研究によって伏せ庵のように狭かった私の了見が広がり、ようやく多少は古代日本の心というものが了解され体得されてきたと言うのである。


さて、問題は「田安家出仕時代に真淵が得たものは何だったのか」である。私は年表の4年目、万葉解の失敗に注目せざるを得ない。万葉解を真淵は、万葉集の第1巻の途中まで書いた段階で筆を折ってしまった。そして11年後の隠居の年に万葉考として新たにスタートするのである。

本人の言葉を信ずれば、真淵は春満に就学した時まで「味わうことに徹した」ひとであった。国歌八論論争を見る限りでも、この言葉は信ずるに足る。

学問に必要な方法論・基礎研究・ディシプリンに関心を持った様子がないのである。もちろんこれらが全くなかったというのは誇張に過ぎるが、真淵の学問の第一義は味わうことだった。これは生涯変わらなかったと言って過言ではない。

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しかし、宗武公との15年間で、とりわけ万葉解の失敗で痛感されたことがこれらの必要性であった。以前は関心の外にあった平安朝文学から古代習俗に至る広範な基礎研究を重ねてから11年後に万葉考として再出発した時、真淵は「宿題の成果」を実感したに違いない。今回はいける、と。


私にはこの真淵の勉学の流れがとても面白い。現代の学校教育では全く反対に、学問の味わいより先に学問の方法論から教える。それどころか高等教育までディシプリンの習得ばかりに費やしている感がある。

しかし、方法論・基礎研究・ディシプリンは学問の味わいをより鮮明により深くするために役立てる手段なのであって決して学問の目的ではない。結局私たちは学校教育のみから学ぶ限り、学問の方法だけを教わって学問の味を知らぬまま、勉学から遠ざかっていくことになっていないか。

以上の意味で、真淵が50歳まで味わうことに徹し、その必要を実感してから方法論等を身に付けたことの意味を、よく考えてみる必要があるのではないかと思われるのである。


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