万葉を訪ねて ―総論6 聖典として読むこと―
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万葉集大考は、万葉集全体への解釈(総論)を終えると「くさぐさの考」と称して、諸本の校合や文字の解読といった研究項目ごとの成果を述べ始める。
私はこれを「各論」と翻訳した。
各論の性質上、総論ほど緻密に読み解く必要はあるまいから、本項で一括して感想を綴ろうと思う。ここでも面白いと思ったことだけを記す私の方針に変わりはないので、真淵の万葉観を語る上での難問である「巻序論」を中心に述べる。
巻序論とは、現行の万葉集全20巻の順序に対して真淵が抱いていた疑義のことである。
何はともあれまずは、各論の全体を大掴みに見渡してみよう。(14~24頁)
書名の由来はよろず(万)の詩花(葉)を集めたものという意味であり、歌を撰んだのは聖武天皇の御代に左大臣の位に在った橘諸兄である。
とても古い時代の歌から奈良中期の歌までを収録したもので、現行の万葉集の1、2、13、11、12、14巻がそれに当たる。残りの14巻は諸家の家集が後世になって混ざったもので本来の万葉集ではない。(各論の1~3)
万葉集の編まれた奈良中期はカナが無かったので全文を漢字で記さざるを得ず、万葉仮名と称される独特の漢字用字法が採用された。
だが読者は漢字に拘り過ぎるとかえって間違いを犯す。特に歌の右に記されている詞書を、漢文の語順で書かれているからといって漢文風に読んではならない。漢文訓読の法則(書き下し文)が定まったのは万葉よりずっと後のことだ。
当時の人々は漢文風に書かれていようが自然な日本語として読んでいたに違いない。したがって、漢字の字義に詳しいことよりも古事記などの同時代の日本古典や古語に精通していることの方が万葉研究には余程肝要なことである。(各論の4)
万葉集にはいくつかの伝本があるが、現在最も普及している本を「今本」と呼び異伝の本を「一本」と呼ぶ。今本を無謬であるかのように思い込んでいるひとが多いが絶対視してはならない。一本の方が意に適っていることも多々ある。今本には誤字も甚だ多い。
今本の基を作った鎌倉時代の仙覚僧が古伝の万葉集を書写した時に、それが草書体で書かれていたために読み間違えたことから生じた誤りである。(各論の5と6)
「別記」と名付けた別巻には冗長なあまりに本文に載せなかった補足事項を記した。また古代日本の心を中国古典から読み解こうとすることの誤りについては拙著「国意考」で論じた。枕詞については歌の心には直接関わらないので「冠辞考」という拙著にまとめた。(各論の7と8)
古語を解くには五十音に熟知する必要がある。五十音は厳密な意味では音声ではない。カナと実際の音声は完全には対応していない。
日本語という言語は初めに言葉が有り、長い「無文字時代」を経た後に文字を当てはめた。だから当然、言葉・文字・音声の間にはズレがある。文字はモノを指示する記号に過ぎない。尊いのは言葉であって文字ではない。詳しくは拙著「語意考」に説いた。(各論の9)
万葉集は独特の用字法が仇になり、かなり早い段階から一部が読解不能となった。鎌倉時代の仙覚僧が全文訓読を為し遂げだことで飛躍的に改善したものの誤りも多く含んでいた。
元禄期に契沖僧や荷田春満が現れ正確さは増したが、両者とも道半ばで世を去ったことが悔やまれる。私はふたりの遺志を継ぐ者であるが学問の道は険しく、私の考えもまだ改善の余地があるように思われる。
本書をこうして刊行するのもひとえに本書を読む人々が私の歩んだ道を参考にして、さらに前に進んでくれたらと願うからなのである。(各論の10)
細かな議論を削ぎ落とせば、各論は大体以上のようなことが説かれている。写本の過程で誤字脱字が発生することから草書体の知識や諸伝本の比較研究の必要を指摘したり、辞書的な「字義」よりも古事記などの同時代の文献における「用例」から言葉の意味を推知する方が正しいと主張したりするなど、文献考証のあるべき姿を説く真淵の筆致は確かなものだ。
余談だが西尾幹二「江戸のダイナミズム」は、同時発生的に成立した日本の反朱子学と国学、清朝考証学、西洋(主にドイツ)古典文献学について縦横無尽に語り尽くした名著である。
それによると「写本の系譜ならびに言語の用法から究明すること(中略)この方法は通例、伝承史的方法(Uberlieferungsmethode)とよばれ、ドイツでは一九世紀前半にゴットフリート・ヘルマン等によって確立されました」(64頁)ということらしい。
私は何も、賀茂真淵の方がドイツ文献学(Philologie)よりも100年近くも先んじて文献学の方法論を確立していたことを指摘して、真淵の学問の「近代性」を礼賛したいわけではない。むしろ逆である。
なぜ、真淵はそれほどまでに科学的な方法の重要性を熟知していながら、各論の2と3の主張、即ち万葉集の撰者は橘諸兄であり、本来の万葉集は全6巻であって、残りは私家集の後世の混入であるという大変無理な主張「巻序論」を提唱したのか?私が面白いのは、むしろ其処である。
当時の通俗的な万葉観は、むろん現行の万葉集全20巻をそのままに信じていた。撰者は後半4巻の中心的な歌人である大伴家持であろうというのが相場の見方であった。契沖僧に至ってはもう少し緻密になって、大伴家持の撰であるにしても撰は2度行われた形跡があると指摘している。
しかし、真淵はそれらの見解を退けて大伴家持は彼の言う「混入」の主犯格と名指され、純粋な万葉集(以下、原万葉と呼ぶ)をわずか6巻に限定した。
しかも、草書体の誤読や詞書の訓法について述べる時と異なり、巻序論について述べる時の根拠はかなり薄弱である。
「橘諸兄撰者説」については古伝にそう書いてあるからと言うだけだし、「原万葉6巻説」については、万葉歌は入れなかったと宣言している古今和歌集に、現行の万葉集の歌が7首含まれているからと言うくらいである。
これは混入の根拠にはなっても、6巻説の根拠にはならない。以下に前者を引用する。
「万葉集は高野の御時、孝謙天皇の天平勝宝の時を云べし、橘諸兄の大臣撰み給へり、と世継が物語に見ゆ、されど高野の御時よりも前、聖武天皇の御代ならん、とおもふ事あり、ただ諸兄のおとどの撰ぞちふは、古へよりいひ伝へしにて、実にさりけらし」(14頁)
「世継が物語」とは平安後期の「栄花物語」のことであるがこの記事を真淵は信用しているわけでもない。
いわく、栄花物語に万葉集は孝謙天皇の御代に成立したとあるが、私は聖武天皇の御代ではないかと思っているのだが、このように橘諸兄の撰だとは古くから伝えられていたことであるから信用してよい、と。これでは悪く言えば「良いとこ取り」である。
そもそも古来、万葉集が橘諸兄の撰ではなく大伴家持の撰であるとされてきたのは、万葉集全20巻が橘諸兄の逝去(天平宝字元年)以降の歌も収録しているという明白な矛盾による。
これを通俗的な万葉観は大伴家持撰者説の根拠としてきたのだが、真淵は逆に万葉集が後世の混入を経て現在の姿となったことの根拠とした。
私は別にどちらの説が正しいかには興味がないのだが、現代万葉学の見解も参考までに載せておく。
中西進は万葉集を「長い歳月にわたって増減を経ながら現在の形にたどりついたもの」と見る。栄花物語の記事は従来「妄説のごとく受取られがちだったが、この証拠は万葉集の中に認められ」る。
要するに万葉集を全20巻として見た場合、それは様々な撰者による様々な歌集のツギハギなのであり「撰者は誰か、いつ出来たか、編集意図は何であったか」という設問自体が無意味であると主張している。(講談社文庫版万葉集より)
真淵の巻序論は弟子たちにも非常に不評だったようで、本居宣長など契沖の説の方が正しいのではないかと質問した所、真淵の激怒を買い破門寸前の事態となった。
きっと弟子たちはこう言いたかったのである。「普段は書物に謙虚に耳を傾けて味わえと言う師が、なぜ巻序論の時だけは文献考証的な根拠も乏しいのに、万葉集を己の好きな形に変更するという話になるのか。それでは己の考えを対象に投影する独断的な演繹論ではないか?」と。
真淵は己の巻序論に自信を持っていたがその説明には苦しんだ。真淵の心の声が聞こえる。
弟子たちよ、そうではないのだ。
己の思想は尽く万葉集の味読から帰納されて生まれた。万葉集からもたらされた思想を万葉集に戻してやることは独断か?演繹か?この「帰納的演繹の理路」を納得させることの困難を、真淵は遂に解決しなかった。
「物はその方に深く入て見る時、思ひしに違ふ事あるものなるを、他国を学べる人、他をば推はかりにいふ故に誤りぬ」(22頁)
現代語訳すれば「研究の対象に深く没入してみることで、己の先入見が破壊されて真の理解に到達する。それが学問の醍醐味である。他国の文化や思想から自国の書物を推論しようとすることは馬鹿げている」といった所だろうか。
上記の引用文を私は各論中の最大の名言と思うが、この文章に込めた真淵の「他者論」に酷似した思想を当時の弟子たちが何処まで理解できていたかは分からない。
現代は現代で単に比較文化論を批判した文章と読むひとが多そうだ。
真淵は万葉集によって己の先入見を破り思想を育み、それが巻序論にまで成長したので万葉集に還元したのであり、余所で育んだ思想を持ち込んで万葉集を誤読し破壊したのではない。
いわば巻序論とは、真淵と万葉集とが親しく会話した痕跡であった。
真淵の「全6巻巻序論」と中西進の「全20巻ツギハギ編集論」は、実は同じ事柄を裏表両面から表現したものだ。
両者とも「大伴家持単独撰者説」は非現実的だとして退けて、長い歳月の中で形成されてきたと見る点までは同じだが、其処から先が分かれたのは、真淵が古代の心を知り過ぎてしまったからである。
古代の心と己の心との間に区別が無くなるほどに、真淵は古代の心を己の体内に取り込んでしまった。
万葉から得たその心で再度万葉を眺めた時、万葉の内部でも時代が降るにつれて古代の心が薄れていくことがはっきりと確認された。これが「総論の4 歌風の変遷」のモチーフである。
真淵は古代の心を表していない現行の万葉集の諸巻に我慢がならなくなった。現代万葉学ならば「万葉集の第1形成期」とでも呼んで済ませられる所を、真淵は「万葉の心の真髄はこの全6巻に尽くされている」とまで言わなければ気が済まなくなったのである。
以上が「巻序論とは何だったのか?」という本項のテーマの結論である。真淵の学問がフィロロギーの方法を先取りしていたとか、実証的であったとか、そんなことは全く以てどうでも良いことだ。
そんなつまらないことで真淵を誉めるひとは結局、近代的な学問を絶対的なものと前提した上で、その価値尺度に合致していれば善、合致しなければ悪と裁定しているに過ぎない。
真淵の学問それ自体の価値は一切認めず、こちら側の物差しに基づいて真淵を採点するのは余りに傲慢なふるまいであり、万葉考を聖典として読もうとする私には絶対に認められない態度である。
たしかに真淵は、万葉集の真実の姿を得ようとして精密な文献考証を駆使した。だが其処で終わりではない。序の9で述べたように、方法論はよりよく味わうための手段に過ぎない。
真淵にとって万葉集は古代の心を写す鏡であり、聖典として信仰の対象でありその味読は悟りを得る道であった。
その求道の激しさが、いささか暴論じみた巻序論を生んだ引き金である。これを対象を冷たく遠くから観察する近代的な学問と合致していないと責めた所で何の意味があるのだろうか?当然ではないか。真淵の学問は熱いのである。
さて、これで万葉考の序論「万葉集大考」についての感想が、総論と各論、全てにわたって終った。この駄文も終わりに近付いてきたということだ。次回からは、真淵の万葉歌批評について述べる段となる。
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