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万葉を訪ねて ―序の10オモテウラ―

前項では「田安家出仕時代」の真淵の勉学についての感想を述べたが、本項ではこの時期の生活ぶりや社交について考えてみたい。

結婚した翌年に妻と死別するわ、すぐ再婚して宿屋の主人になるわ、家族を捨てて京都に飛び出すわ、アテもなく江戸を放浪するわ、御三卿の田安家に拾われるわ、ここまでの真淵の人生はわりと劇的に展開していったが、ようやく大きな波乱もなくなり生活が安定してきたのが、この50歳から64歳にかけての時期である。

したがって今回は、真淵の人生から劇的なモノをえぐり出すよりは、真淵の交友録を通じて江戸中期の時代の空気を吸ってみようと思う。


○ 契沖僧
万葉代匠記を真淵がはじめて読んだのは江戸にやって来て間もないころのようだ。代匠記は元禄3年庚午に刊行された万葉集の注釈書であり、主観を交えずあくまでも書物に寄り添うことで古意を得んとする姿勢に貫かれた、国学の始まりを告げる画期的な書物だった。

契沖僧は元禄14年辛巳睦月にこの世を去ったので当然真淵との直接の交流はないが、この時代の文化振興の空気は江戸に大量の書籍を流通させ、そのおかげもあって本書が真淵の手に渡ったのである。

すでに述べたことだが私は真淵の師・荷田春満という定説に少なからぬ違和感があり、契沖・真淵・宣長を国学の三哲とする考えに近い。よく耳にする「真淵は契沖僧の実証性と春満の思想性を結合して国学を体系化した」という、分かるような分からぬような抽象的な説には与しない。

両者の学問は適切な配合で混ぜれば更に美味になるカクテルの材料ではない。真逆の性質を持った水と油である。真淵の思想は書物を味わうことで書物から到来した。書物に己の思想を読み込んだわけではない。春満とは思想の出所が違うのである。

代匠記を読んだ真淵は嬉しかったに違いない。ここに己と同じ精神がある、と。もしくは、若き日のサルトルがレヴィナスの処女作「フッサール現象学の直観理論」を通じて現象学を知った時に「私ならもっと上手くやれる」と漏らしたのと同様の精神の高揚を感じたかも知れない。


○ 野原りよ
出仕の少し前48歳のころに、士族の未亡人を身の回りの世話役として家に置いた。14歳年少で当時34歳、男女の仲で有ったか無かったか?無かったとするのが通説のようだが、晩年の真淵が浜松の親戚筋に宛てた手紙の中で「房中(性交)のことは控えよ。あれは歳を取ってからすると健康に悪いから私も老後はしていないぞ」という何とも大胆なアドバイスをしているのを見ると、老後の定義次第では有ったとも考えられる。りよは46歳で病死したが、真淵はその時60歳であった。


○ 加藤千蔭と村田春海
真淵は弟子を取り「県門」と称される一門を形成して後進を育てた。教育内容は主に日本古典の原書講読と歌会である。歌を詠まぬ者は歌を読むに能わず。歌を味わうことを最重要視する真淵らしい教育方針である。

県門は全国に拡がったが、最も近くで教えを受けた江戸派の際立つ俊英は加藤千蔭と村田春海である。千蔭は真淵が23年も住んだ北八丁堀の地所を貸した与力の枝直の息子であり、春海は真淵42歳のころに一時的に寄宿した日本橋小舟町の干鰯問屋の春道の息子である。

千蔭も春海も、真淵の学者としての側面より歌人としての側面に影響を受けた。ただ両者ともその歌風は万葉調ではなかった。

千蔭はその理由を「師の歌風は簡単に真似できるものではない」と説明しつつ己は優美な古今調の歌を好んで詠んだが、春海は国歌八論における在満と同じく現代に万葉調は不可能だと考え、己の作歌に漢詩の要素すら盛り込んで理知的な独特の歌風を創り上げた。

真淵は彼らの歌を添削し評釈したが、必ずしも己の歌風を押し付けて矯正しようとはせず、それぞれの素質を伸ばすことに努めた。そんな真淵だったから弟子もたとえ師の説と言えど無条件に同意することはなく、自由闊達に互いの意見を述べ合う言論空間がそこに生まれた。


○ 荷田在満
真淵に宗武公の和学御用係を譲ってから5年後の宝暦元年辛未葉月に46歳で死去した。在満の死去は真淵が春満一門の最古参になったことを意味したので弟子がさらに増えた。ちなみに同年長月に後妻の梅谷方良の女も浜松で死去した。


○ 梅谷真滋
この時期の穏やかな真淵の生活に劇的なモノがあるとすれば梅谷真滋の出府の失敗だろう。生活が安定して老境にさしかかった真淵が自然と気にするようになったのは後継ぎの問題だった。

後妻が亡くなってから6年後、宝暦7年丁丑霜月に脇本陣の若旦那を勤める実子の真滋へ手紙を送っている。「お母さんが亡くなり寂しいだろう。お父さんと一緒に江戸に住まないか?生活には困らせないから」真滋も実父の哀願にも似た提案に相当悩んだというが、最終的には断って脇本陣の主人として生きる道を選んだ。残酷だが当然のことにも思える。真淵は学問との禁断の恋によって家族を失った。息子の出府拒否もその代償であった。

その後真淵は遠戚から岡部島を養女に、知人の紹介で中根定雄という男を養子にして彼らを夫婦とした。さらに彼を和学御用係の後任とすることで己は隠居するという曲芸をやってのけた。これでひと安心、と思いきや宝暦13年癸未長月に養女島が病死した。私生活の真淵はつくづくツイていない。


○ 服部南郭
荻生徂徠の弟子で太宰春台が思想面での継承者とすれば、服部南郭は芸術面での継承者ということになる。真淵より14歳も年長でありながら非常に親しく交わった。晩年の真淵が己の墓を選定する際にも、南郭先生が眠る墓地だからという理由もあり品川の東海寺を選んでいる。

「翁東都に下られてより、南郭先生といと親しく睦び交わされつつ、詩を先生に学ばれしに、先生は国学を翁に問はれて、互によき学び敵におはせしかば、先生の墓所も此寺なるちなみに、翁も墓地をここにしめおかれしとぞ」(村田春海の弟子、清水浜臣の「泊洦筆話」より)

しかし清水浜臣のように「よき学び敵」だったということで片付けてよいものか?それでは大事なことを見落としてしまう。南郭と真淵には「古典文芸復興運動の指導者」と「体制派への反逆者」という共通する相貌があり、その点では敵どころか同志だったのである。

南郭の代表作に「唐詩選国字解」がある。これは唐詩選という古典に長年蓄積していた先入見の数々をひとつひとつ除去して古語本来の意味に立ち還り、詩の真意を明らかにせんとする古典再生の試みである。

朱子学の思想先行的で演繹的な性格を批判して実証的で帰納的な古文辞学を提唱した徂徠の弟子にふさわしい著作であり、その無私の態度は万葉考における真淵のそれと一致する。

と言うよりも、明らかに真淵が南郭に影響されているのだ。真淵は南郭の中に契沖僧と同種の精神を発見して、学問の領域の違いなど軽々と越えて敬意を抱いたのである。

国学と漢学というだけの理由で対立する側面ばかりを見てはならない。徂徠たちの反朱子学も真淵たちの国学も、同じ江戸中期の文化振興の空気の中で生まれた。

文芸の興隆は古典への回帰を促し、そこから現代を古代の堕落形態とみなす歴史観なり批判意識なりが生まれる。ここまでは反朱子学も国学も共通の立場である。そしてこの時代の官学は朱子学一択であり、和歌は世襲の堂上派たちの独占物であったことを思い出せば、体制派への反逆という側面も共通しているのだ。

清水浜臣のように立場の異なる者同士が互いの学問へ敬意を払っていたという美談として読み解くのも全くの間違いとは言えないが、南郭と真淵の関係性に対する評価としては一面的に過ぎる。


○ 徳川吉宗
真淵と直接の交流こそないが、この時代を象徴する8代将軍について触れないわけにはいかない。

吉宗は教科書的知識によれば、享保の改革として名高い歳出を抑制して歳入を増大させる経済政策によって幕府財政を立て直した中興の祖ということになるが、彼のしたことはそれだけではない。彼の文化振興・学問奨励の政策は「期せずして」反逆者たちのルネサンスを準備し誘発したのだ。

吉宗は文化振興政策に殊のほか力を入れた。

全ての階層の日本人が均しく学問する喜びを知れるようになったのは、およそこのころからではないかと思う。享保2年丁酉文月に、官学の最高学府である昌平坂学問所の講義を庶民に公開したことは、現在の感覚で言えば東京大学で市民講座を開くことに近い。翌々年には林家以外の儒役に講義させる試みもしている。

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むろんこれらの政策の目的は彼の次男宗武公の学問観と同じく、学問によって民心の慰安と民度の向上を図ることであった。朱子学が官学としての地位を得ていたのも、体制に従順な人間を育てるのにうってつけの学問だと幕府が考えていたからである。

しかし江戸中期の在野の学者たちは吉宗のねらいとは裏腹に、これを「下克上」の契機と見た。

儒学が林羅山の一族の手に独占されている事態に不服だった在野の学者たちは、吉宗の諸政策を学問上の「デモクラシー」を承認するものとして受け取った。

もちろんそれ以前から中江藤樹や伊藤仁斎といった在野の学者たちは体制派に背を向けて偉大な業績を残していたが、幕府は彼らの興した新しい学問に関心を持たず彼らの活動は京都や江戸といった都市部に限られていたから、その影響力はたかがしれていた。

吉宗の治世に至り、学問に参加する人数が増大した上に大っぴらに活動できるようになり彼らの著書は次々に写本されて全国に流通し、たとえば浜松のような東海道の宿場町にまで影響力が及ぶこととなった。そのひとりが真淵なのである。


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