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万葉を訪ねて ―序の6 マチノオト―

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元文2年丁巳弥生、晩春の江戸に到着した真淵が目にしたものは、浜松と京都しか知らぬ彼にとって衝撃的なものであった。

「天の下集へませる武蔵の大城の下に来たりて、千萬の人の心々を思ひ、諸々の手ぶりを見、種々の言葉を聞く」(万葉考より)

日本全国からヒト・モノ・カネが集積する江戸城下に到着してからと言うもの、ここに出入りする何千何万という人々の心を思い、彼らの郷土に由来する諸々の習俗を見て、彼らの操る様々な言葉即ち方言を聞いた、と言うのである。

日本橋から全国各地に伸びる五街道等の交通網の発達により、江戸はさながら日本全体の縮図と化した。真淵はその中に入って様々なルーツを持つ人々と親しく交わった。そうする内に段々と日本の全体像が眼前に立ち現れるように直観されたので驚いたのである。

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余談だが、マルクスが資本論の冒頭に記した印象的な文章には、真淵の驚きと近い味わいがある。

「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は「商品の巨大な集積」として現れる」

この文章はマルクスの学説の正否云々の前に、彼が産業革命の先駆イギリスの姿をはじめて見た時の衝撃をよく保存していて味わい深い。真淵とマルクスの共通点と言うと突拍子もない論点と思われるかも知れないが近代的都市の誕生へのリアクションが学問に反映されているという点で、ふたりの学問の方法は共通する。

その外見からは見えにくいが、両者の学問は単に理屈から演繹されているのではない。理屈の多くはフィールドワークをも含めた経験的な研究から帰納されている。つまりその学問は驚きから始まったのである。



では、真淵を驚かせた当時の江戸とはいかなる都市であっただろうか?

人口120万人、面積70平方キロメートルの世界最大級の都市であり、浜松は言うまでもなく三都の京都および大坂ですら人口40万人、面積20平方キロメートルだったのだからその異様な巨大さが知られる。

農産物の生産力が乏しい土地柄であり物流はすでに大坂を中心としていたため江戸の経済は小売と消費を軸として発展した。そのため江戸をめがけて全国各地の商人や商品が殺到し、一部は定着し一部は離脱するといったように変動の激しい社会を形成していた。

「三代続けば江戸っ子」という定型句は変動のめまぐるしい江戸という都市の性質を象徴している。人口は増え続け市域は拡大していったが、離脱者も跡を絶えなかったのである。


真淵も例外ではなかった。真淵の江戸ゆきは郷里の杉浦国頭を筆頭に同志の協力なしには為し得なかったのだがそれでも己独りの努力を怠ればたちまち振り落とされてしまう危険があった。

なにせ住居を確保するだけでも一苦労である。以下に記す真淵の引越しの遍歴を見ると、同志の支援にも限界があったと見える。

元文2年丁巳弥生、浜松を出立し江戸に到着すると、湯島本郷にある荷田春満の甥の荷田在満の家へ。
同年文月、神田明神の神主芝崎好高の家へ。
同年霜月、日本橋松島の稲荷神社の神主根本治胤の家へ。
元文3年戊午水無月、日本橋小舟町の干鰯問屋村田春道の家へ。

41歳の肉体に1年余りで3回の引越しはさぞ辛かっただろうと思いやられる。いや、辛いのは肉体ばかりではない。41歳にもなって己独りの衣食住すらままならない状況は、精神の面でも相当な負担であったと思量される。

次項に詳しく述べる荷田在満との共同研究が唯一の金銭が発生する仕事だったのだろうが、それだけでは当然足らず生活は困苦を強いられた。


真淵の凄い所はこうした己の境遇を悲観しないばかりか、己の学問への確信を信じ抜くことを通じて己が悲観すべき状況に在ることすら否定しようとしたその精神のしなやかさである。


年くれて
松をも立てぬすみかには
おのずからなる
春やむかへむ


年が暮れて
門松も立てていない我が家では
作り事でない
本当の春を迎えよう


この歌の解釈としてこの歌の詠まれた「江戸放浪時代」の真淵の未来に対する不安が滲み出ているとする評が散見されるが、私はその解釈を採ることが出来ない。

この歌は門松を買うお金がないことを嘆いた歌ではない。ましてや貧しい境遇を自嘲気味に詠んだものでもない。

もしそうだとすれば「住み処には」ではなく「住み処にも」でなければおかしい。「住み処にも」ならば歌の意味は「門松も買えない俺みたいな貧しい家にも春はやって来るのさ」となる。卑屈である。助詞ひとつで歌のニュアンスは大きく変わるものだ。


年始に門松を立てる習慣は平安時代から始まったとされ元来は中国由来の文化である。かと言って、別にこの歌は門松という中国風の習慣を批判するものでもない。

門松に「作為性」という観念を象徴させて、季節という「自然」と対比させる。春を春と感ずる心が一番大事なのであって、春らしく飾り立てることは二の次である。そもそも万葉の心とは自然を素直に感受して作為を交えず祝い喜ぶことの出来る、素朴だが豊かな精神のことであった。

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万葉を研究する私が貧しくて門松も買えないなどと不平を垂れるようではどうする。門松など無くて結構。万葉のころと同じおのずからなる春を迎えようではないか。真淵の声が聞こえてくる。

これは強がりや虚勢のたぐいではない。真淵の学問の性質の論理的帰結である。そう感ずるのでなくてはならぬという気概である。万葉を研究する者は万葉歌人と同じように物を感じ、万葉歌人と同じような歌を詠み、万葉歌人と同じように生活するところまで行かなくてはならない。そこまで行ってはじめて、万葉を研究した究めた、と言ってよいのである。


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