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万葉を訪ねて ―序の5 ミチノミチ―

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結婚と死別、再婚と就職、長男誕生と父の死が立て続けに起こり、止むに止まれぬ思いで7年間の結婚生活に終止符を打った岡部三四は、荷田春満に師事するために京都伏見にやってきた。享保18年癸丑、37歳の再出発であった。

この年ついに三四は真淵を名のり始める。前途が開けるかに見えたがまたもや問題が生じた。4年後の元文元年丙辰文月、春満が68歳で死去するのである。したがって真淵の京都修学時代は37歳から41歳までのわずか4年間ということになる。本項はこの時代の真淵についての感想である。



まずはじめに今まで真淵の人生にばかり注目して学問の内実に触れることがなかったのでこの辺でまとめておこう。

10代に杉浦真崎から習ったのは読み書きと作歌であったと思われるが、強調すべきことは賀茂真淵は学者であるよりも先に歌人として出発したということだ。                              20代に太宰春台の弟子渡辺蒙庵から漢学を習ったことはすでに述べた。漢詩の習作がいくつか残されているが、いずれも取り上げる程のものではない。

そして本項で扱う京都修学時代に荷田春満から習ったものは歌学、日本古典、有職故実、神道の4つであった。


少し話が飛ぶが荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤を国学の四大人と称して国学の継承発展を示す考え方は、篤胤もしくは彼の弟子たちが自己の正統性を主張するために拵えたものだと思う。

契沖、真淵、宣長を三哲とする考えの方がまだ実像に近いだろう。篤胤が契沖僧を除外しているのは彼が仏教徒であることも要因のひとつだと思われるが、そうだとすればおよそ学者の態度とは程遠いと言わなければならない。

篤胤の問題はいつか述べるとして、この三哲の呼称には「本当に荷田春満は賀茂真淵の師か?」という問題が潜んでいる。私はこの定説と大変違った感想を持っている。たとえ真淵本人が春満を終生師と仰いでいたとしても。


さて春満の学問とはいかなるものだったのか?

先に述べた歌学、日本古典、有職故実、神道という春満の学問の4つの要素は決してバラバラのものではない。前者3つは彼の神官という立場に由来する神道の太い柱から演繹されたもので、それぞれが組織的に結びつけられている。

江戸時代の神社界は惨憺たる有り様だった。ここは学説を開陳する場ではないので簡単に述べれば、神道の見かけ上の「思想のなさ」が仏教との習合を促し、神社はさながら寺院の付属施設のようになっていた。

儒学者からは神道は日本固有の道徳などではなく、それらしく見えるものは全て後世に仏教や儒学から借りてきた理論武装に過ぎないと批判された。この事情は、丁度この京都修学時代の享保20年乙卯に刊行された太宰春台の弁道書に端的に表れている。

「日本には元来道といふこと無く候。近き頃神道を説く者いかめしく、我国の道とて高妙なる様に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候」

こんな総スカンな状況の中伏見稲荷大社の神官であった春満は危機感を覚えていた。仏教とも儒学とも違う、神道の固有性を証明しなければならない。このままでは神道ないし神社は姿を消してしまう。

そこで春満は神道固有の道徳を主張するために歌の「道」を説き、日本古典の中に「教訓」を発見(?)し、有職故実即ち儀式典礼の作法の中にすら「意味」を求めてしまった。

これは演繹的態度である。悪く言えば「為にする議論」である。ポジション・トークである。日本固有の道徳を基礎づけるためならば、古典や古代の都合の悪い部分は捨象し改造することも辞さない危険思想である。

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具体例を挙げよう。

春満は「歌学」において「恋歌」の価値を認めなかった。恋歌は道徳を語らないからである。恋歌以外の歌の作歌ないし解釈においても、過剰に教訓を詠み込もうとしたり読み込もうとしたりするきらいがあった。      春満は「日本古典」において万葉集の価値を認めている。しかしながらその理由は「堂上派」即ち世襲のエスタブリッシュメントたちが新古今和歌集を重んじていたからである。新古今は恋歌の氾濫であったからである。   そして万葉集は最古の歌集だからである。それゆえ仏教や儒学の影響が比較的に少ないと推知されるからである。


万葉考の作者とはまるで正反対の学者がここにいる。

万葉考は万葉集という書物と出逢った男の驚きと発見の記録である。知見は書物からもたらされるのであって、作者は己の思想を代弁してくれるものを書物に求めないしそれを無理に読み込もうとはしない。

書物の前で徹底して謙虚であり、作品は経験的で帰納的で実証的な精神の所産である。まさしく「古学」でありこれをよむ者は作者と共に「未知の古代」を求めて迷路に入ってゆく。


これに対して春満の学問は「神道イデオロギー」である。彼の信ずる神道固有の道徳を主張する為にする「護教論」である。彼の学問全体を眺めた場合には、当てはまらない側面もあるけれども、そうみなされて致し方ない側面が数多くある。

じつに幸運であったのは、真淵がすでに40歳だったことだ。若い頃であれば危なかった。四十にして惑はずとは孔子も上手いことを言ったもので、真淵はすでに己の学問というものを朧気ながら直観していた。ついでに言えば社会人経験もあった。だから惑わずに済んだ。

春満の学問の持つ危うさに影響されることなく、万葉集や伊勢物語の彼の解釈のうち優れた部分だけを取捨選択して継承することが出来た。そして、彼の死を契機にして今度は江戸に赴くこととなったのである。

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