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万葉を訪ねて ―総論1 万葉集をよむ意義―

本項から6回に分けて真淵の主著「万葉考」の序論にあたる「万葉集大考」の、総論部分に潜り込もうと思う。


序論はこちらからどうぞ↓



万葉考という長大な書物は冒頭に序論として万葉集大考を掲げている。万葉集大考の構成は総論4節と各論10節から成り、総論は真淵万葉学を集大成した万葉集全体に対する解釈を、各論は訓法や校合といった研究項目ごとの成果を、それぞれ論じたものである。

≪序論・万葉集大考の構成≫
○ 総論
第1節 万葉集をよむ意義
第2節 古代の理想と現代の批判
第3節 古代の歌の本質
第4節 歌風の変遷と作家論
○ 各論
第1節 書名
第2節 撰者
第3節 巻の順序
第4節 詞書
第5節 諸本の校合
第6節 文字の解読
第7節 別記
第8節 枕詞
第9節 語の解釈
第10節 万葉研究史


万葉集大考が終わると万葉考はひたすら「訓古と批評」に徹する。

真淵は己が万葉集の原形と信じた全6巻のすべての歌、計1461首のひとつひとつに対して文字の読み方・言葉の意味・時代背景・詠まれた場所・歌人の官位や経歴等々を丹念に調べ、その上で歌の心と味わいを批評していった。

冗長に過ぎると判断した場合は本論から外し、「別記」という名の別巻を設けて其処に記した。

≪万葉考の構成≫
序論「万葉集大考」
・・・ 万葉集全体を論ずる
本論「万葉集巻一之考~巻六之考」
・・・ 計1461首の歌に訓古と批評を施す
別巻「万葉考別記一~別記六」
・・・ 本文に載せ切れなかった補足事項を記す

万葉集大考はわずか24頁でありこの訓古部分と比べると25分の1にも満たない分量であるが、万葉集の全体を概観して論ずる唯一の箇所であるから決しておろそかにはできず、これを丹念に読まなければメインとも言うべき訓古部分も分からなくなるのである。


なお昭和52年に続群書類従出版会から刊行された「賀茂真淵全集 第一巻」を基とする。したがって引用は特記が無い限り本書からの引用であり、頁数は本書の頁数を指すことを予めお断りしておく。

真淵は万葉集大考の総論部分の章立てに、ひとつ、ふたつ、みつ、よつとしか書いていないが、これを私は内容から推して「総論の1 万葉集をよむ意義」「総論の2 古代の理想からする現代の批判」「総論の3 古代の歌の本質」「総論の4 歌風の変遷と作家論」と名付けた。

さらに総論の4は内容的に時代区分を論じた「歌風の変遷」と万葉歌人たちの特徴について論じた「作家論」に分かれるので、「総論の4 歌風の変遷」「総論の5 作家論」と2分した。


本項は、その1「万葉集をよむ意義」についての感想である。(1~4頁)

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真淵は万葉考を始めるにあたって、万葉集をよむ意義から説き起こした。その理路を追ってみよう。

まず歴史は単なる事実の総体ではないと主張している。

いわく、古代のありさまを歴史書だけから知ることはできない。歴史は行為の結果の累積からは読み解けない。人間の心をそれを映した言葉から想像できなければ、歴史は単なる事実の羅列となる。事実の羅列は無限に解釈の余地を残すから、古代のありさまは永遠に定まることを知らない。

「遠御代のことは、石上ふるき御代つぎのふみらにしるされたり、しかはあれどもそれはた、空かぞふおほよそはしらへて、いひつたへにし古言も、風のとのこととほく、とりをさめましけむこころも、ひなぐもりおぼつかなくなんある、かれ後の世に此ことをいふに、おのがじしおのがかたざまの心もてあげつろふなるべし」(1頁)

そこから唐突に古代の歌の話に移る。

「ここに古き世の哥ちふものこそ、ふるきよよの人の心詞なれ」(1頁)

古代の歌は古代の人々の心を映したものだ、という主張の裏には後世の歌は心を映したものではないという含意がむろんある。

しかしこの主張だけで「はあ、そうですか」と納得するわけがない。尋常の論文ならば仮説を立てたのだからその検証として「これが真心の映された歌だ」という実例が続く所である。が、面白いことに真淵はその定石は採らずに己の経験を語る。

いわく、私も当初は古今和歌集以降の言語ゲームめいた華美なる歌に慣れてしまっていたから万葉集も同じ尺度を用いて眺めていたが、次第に万葉歌の性質からして違う尺度が必要ではないかと思い始めた。


その違和感を持ってから、古代の歌が言葉を飾るためではなく形なき真心を形にすべく歌われたものであったことを悟るまでには、相当の時間がかかったと言うのである。そして、この万葉集大考が書かれた宝暦10年庚辰に至ってようやく、その考えを言語化することができたと言うのである。

「かかるをおのれが若かりける程、万葉はただ古き哥ぞとのみおもひ、古うたもていにしへのこころをしりなんこととしもおもひたらず、古今哥集、或は物語りぶみらをときしるさん事をわざとせしに、今しもかへりみれば、其哥もふみも世くだちて、たをやめのをとめさびたることこそあれ、ますらをのをとこさびせるし乏し」(3~4頁)
「このことを知たらはしてより、ただ万葉こそあれとおもひ、麻もさ綿もあまたの夏冬をたちかへつつ、百たらずむそぢの齢にしてときしるしぬ、いにしへの世の哥は人の真ごころ也、後のよのうたは人のしわざ也、此藝となりにてゆこなたの人、いにしへのうたもしかのみと思ふ故に、古への御代の有さまを、うたもて知ものともおもひたらずや有らん」(4頁)

これは少なくともふたつのことを意味している。

ひとつには、「和歌は心に思うことを意図的に飾って表現するもの」即ち「仕業」だという見解は、それほど根強かったということだ。無意識の前提とすら言える。

心に思うことをそのままに言わず飾って表現するならば、歌われた内容と内心とが程度の差こそあれ遊離することは避けられない。だから後世の歌はその心ではなく、言語表現の巧みさを尺度に評価するのが習わしとなった。

この和歌の本質の規定と評価の尺度に関する先入見を克服するのは、並大抵のことではなかった。真淵はそう告白しているのである。


ふたつには、仮説の検証に実例を挙げず己の経験を語ったという点が意味する所である。実例が挙げられないのではない。万葉の秀歌はいくらでも挙げられよう。挙げても意味がないから挙げないのである。

味読経験から得られたものを示しても、味読経験を経ていない読者が理解できるわけがない。真淵が語っているのは理性的存在者一般(カント)が一様に認識できる普遍的真理ではなく、味読経験を経た者にしか感ぜられぬ古代の心なのだ。

真淵は己の経験を告白する形に託して己のように味読してみる以外に己の説に納得してもらう術はない、と主張しているのである。


真淵は続けて主張する。古代の歌を味わい尽くせば古代の人々の心が知られる。古代の心で古代の歴史書を照明すれば古代のありさまが知られると。

「かの二書(※ 古事記と日本書紀のこと)にあなる哥をもよく見よく解きて後、立ちかへり君が御代御代のふみの八十くまもおちず、神の御代のことをもさかのぼり見とほらふには、おのれしやがて其よよに在て見聞なしてん」(2頁)

これは至って論理的だがここでも読者は黙ってはいられない。あなたは古代のありさまを知ることが万葉集をよむ意義であると言うが、それを知ったところで何の益があるのか?と。

そのような読者の疑問を想定しているのだろう。真淵は次節において、現代を批判する視座としての古代の理想を語ることになるのだが、実はすでに本節でヒントを与えている。

「世の中に生としいけるもの、こころも聲もす倍て古しへ今ちふことの無を、人こそならはしにつけ、さかしらによりて異ざまになれる物なれば、立かへらんこと何かかたからむ」(2頁)

人間を除く全ての生き物は歴史(意識)を持たない。

人間だけが古代と異なる仕方で存在する。変転する。善く転ずればそれはそれでよろしいが、現代は言葉を飾り内心を隠す不健全な言語習慣によって人間性が堕落している時代だ。だから古代広くは歴史を知らなければならない。

知るに留まらず古代の心に己の心を寄せてゆくことで、終には古代の心と合致しなければならない。それこそが人間が歴史の制約(近代性)を超克して全人性を回復する唯一の方法なのだ、ということが暗に説かれているのである。


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