「あの空気感」と認識した瞬間、ひとつのeraが区切られる説。
いとうせいこう『想像ラジオ』を再読したら、思いのほか「時代の空気」が濃すぎて息が苦しくなった。
もしかしたらこれは、あと10年経ったら「何を言ってるのか分からない小説」になってしまうのかもしれない。
もちろん、東日本大震災のことを扱う「震災文学」を代表する作品のひとつに他ならない。死者の声を聴き共に歩いていく決意、悲しみの中の日常や、老いていくこと。そうしたテーマは普遍性がある。
けれども、登場人物たちの人物像やライフスタイル、人との関わり方について、あと10年後の同年代が読んだら違和感を覚えるに違いない。たった数年前の出来事なのに(作品は2013年の『文藝』春号が初出、単行本は同年3月に発表されている)、ささいな空気感の違いがある。それが当然のように描かれていて、戸惑うところが出てきそうだ。
[こんばんは。あるいはおはよう。もしくはこんにちは。想像ラジオです。]という書き出しは配信スタイルを言語化したものだともいえる。確実に時代が動こうとしていた。その一方で、実は90年代後半を抜け出すことができないまま進んでいた。確実に「あの時」の空気感が流れているのだ。
ヒリヒリしたまま10年が過ぎるうちに、あの日の子どもは大人になり、若者も老いていく。COVID-19があってもなくても、HからRへと時代は移り変わっていたのだ。
ちなみに、最近の活動からは想像しづらいかもしれないが、この時、氏は16年ぶりに新作を書き、それ自体がセンセーショナルな出来事でもあった。
尊敬するミュージシャンにいつか聞いた言葉を思い出した。「エバーグリーンと呼ばれる名作には、ほんの少しだけ、時代の空気が入っている」と。その加減は、とても難しい。作中に登場する、ラジオミュージックはどれも、エバーグリーンと呼ばれるナンバーばかりだから。
図らずとも、震災からちょうど10年目に「復興オリンピック」が始まる。なぜ始まろうとしているのかといえば、わたしたちは死者の声も生者の声も、すべてを聞くことができないからだ。好きな周波数にだけチューニングを合わせてしまう。それが人の仕様なのだとしたら、責めることはできない。けれども、すんなり同調できる空気は、いつも正しいとは限らない。それを忘れないでいたい。
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