麻布十番の蕎麦の名店「更科堀井」
僕が初めて一人暮らしをしたのは、入社した会社がある六本木一丁目から近い麻布十番でした。
都会に古い町並みが残る神楽坂、門前仲町、麻布十番の3つから選ぶことにし、「来月(2007年3月30日)に東京ミッドタウンがオープンするので、多くの外国人が麻布に移り住んでいますよ!」と不動産屋さんから聞いて、麻布十番に住むことにしました。
港区でありながら温泉がある(2008年3月に閉業した麻布十番温泉)ことと、歩いて会社に通えることもあり、麻布十番に決めた要因でもありました。
僕の中で、麻布十番といえば、以下の3つです。
・”およげ!たいやきくん"のモデルとされ、たい焼き発祥の店とも言われる「浪花家総本店」
・前述の「麻布十番温泉」
・蕎麦御三家の一つ、更科蕎麦の本家である「更科堀井」
久しぶりに麻布十番に行ったので、更科堀井さんにてランチをしました。
真っ白な更科蕎麦が看板商品ですが、季節の変わり種そばも有名で、訪れたときは十割蕎麦がおすすめされていたので、それを注文!
蕎麦は歯応えがあり、食べ応えがありました。
濃厚な蕎麦を湯を頂き、お腹いっぱいになります。
蕎麦屋さんの蕎麦は量が少ない印象がありますが、十分でした!
以前は蕎麦のお汁は辛口、甘口の2種類が出されていましたが、今は1種類のみのようです。
東京の郷土料理とは何か?
更科堀井は年末の年越し蕎麦のテレビ中継でもよく紹介されるお店です。
私の地元は世田谷で、麻布十番から1時間弱で帰れるのですが、大晦日に年越し蕎麦を更科堀井で食べたりもしました。
麻布十番を引き払い、後輩に誘われ、自由が丘(後に尾山台・等々力に移動)でシェアハウスをすることにした際に、同居人の友人が宮崎料理の会、滋賀料理の会などと、毎月各県出身者を集めて郷土料理を食べながら郷土の文化・歴史についてプレゼンしてもらう会を行っていました。
「東京料理の会を開催せよ!」と言われて、東京料理を調べると、江戸前寿司、蕎麦、天ぷらが出てきました。日常的な食事で全く面白味がありません。世田谷区は江戸ではありませんでしたし、大根が名産だったことぐらいしか分かりません。
もんじゃ焼き、深川飯もありますが、一人暮らしで門前仲町を選んでいたら、深川飯だったな〜と思いながら、それであれば、麻布十番にいたので、蕎麦だな!と思い、蕎麦について調べて、麻布十番を離れてから、余計に興味が湧いてしまったのです。
蕎麦御三家とは?
蕎麦の文化は江戸時代に始まり、江戸生れの「藪」、大阪生まれの「砂場」、信濃出身で麻布十番で始まった「更科」が、蕎麦御三家と呼ばれます。
「藪」は鬼子母神の門前茶屋から離れた藪の中にあったことから、
「砂場」は大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」あたりで創業したことから、
「更科」は創業者の故郷の更級郡の「更」と、領主保科家の「科」をもらったことから、とされています。
麻布十番にある3軒の更科蕎麦
本家がなくなった藪蕎麦には、藪御三家(神田藪蕎麦、並木藪蕎麦、池の端藪蕎麦)があります。
砂場は本家の「南千住砂場」、本家の暖簾分けである「室町砂場」と「虎ノ門大坂屋砂場」の3軒が有名なようです。
更科は麻布十番に3軒の更科蕎麦屋がありますが、更科堀井が本家で、他の2つは暖簾分けではなく、本家が廃業中に七代目が働いた現在の「麻布永坂 更科本店」と、八代目が働いた現在の「永坂更科布屋太兵衛」です。
本家の暖簾分けで今も存続しているのが以下の3軒です。
神田錦町の「神田錦町更科」
築地の「築地さらしなの里」
南大井の「布恒更科」
更科蕎麦の屋号の由来
更科の始まりは231年前の1789年(寛政元年)。
信州出身で信州特産晒布の保科家御用布屋だった八代目清右衛門が、領主の保科家から「そば打ちがうまいので、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのでは」と勧められ、保科家江戸屋敷そばの麻布永坂町に蕎麦屋を創業したといいます。
店名は複数の記述がありますが(3社それぞれに主張があるため)、「麻布永坂更科 布屋太兵衛」であったのではないかと思います。
「更科」は創業家の故郷の更級(さらしな)郡の「更」と、領主保科家の「科」から、「麻布永坂」は町名から、「布屋太兵衛」は創業家の初代の名前が布屋太兵衛であることから。
ちなみに、更級郡はかつては、埴科(はにしな)郡と合わせて、科野(しなの)評と呼ばれていました。
信濃の語源も「料の木」とも言われ、科の木の多いところだったそうです。
古代の日本で、信濃を支配した国造は「科野国造」と呼ばれていました。
シナノキは現在、長野市の「市の木」に指定されています。
更科蕎麦の沿革
■戦前の本家拡大
1869年(明治2年) - 本家の従兄弟である丈太郎(後の堀井丈太郎)が、初めての暖簾分けで、現在も残る「神田錦町更科」を創業。
1875年(明治8年) - 苗字必称の令により、屋号「布屋」から「堀井」と改め、五代目堀井松之助となる。
1899年(明治32年) 本店で15年間修行した赤塚善次郎が、深川佐賀町に初の支店「麻布永坂更科支店 布屋善次郎(現在の築地さらしなの里」を開店。
その後も店舗は増え、永坂本店、下谷池之端仲町分店、神田錦町分店、牛込通寺町支店、芝二本榎西町支店、府下品川町歩行新宿支店、京橋区尾張町支店、麹町区有楽町支店の8店を、更科お七軒様(尾張町と有楽町は同経営者なので七)と呼んだそうです。神田錦町のみ血のつながりがあるため、視点ではなく分店となっています。途中から本店の名前から麻布が消えて、永坂のみになっています。
■本家の廃業、他社の設立
1941年(昭和16年) -本店七代目堀井松之助のとき、関東大震災、国内外の金融恐慌、堀井家が出資していた麻布銀行の倒産等の影響により本店が廃業。
神田錦町分店(現在の神田錦更科)、有楽町支店(現在の布恒更科)のみが残ります。
※牛込通寺町支店が現在の「築地さらしなの里」の前身で、一時的に廃業。
1947年(昭和22年)、 馬場繁太郎が「永坂更科製麺部新開亭(現在の麻布永坂更科本店、現在も馬場家が経営)」を開業。
馬場繁太郎は1937年(昭和12年)に 港区で弁当仕出し及び食堂「新開亭」を開業して人物。
本家七代目堀井松之助と馬場繁太郎との間で、「永坂更科」の商号の使用に関して公正証書による契約を締結。
馬場繁太郎が七代目堀井松之助を雇用した。
1949年(昭和24年)、 麻布十番商店街の小林玩具店の小林勇、麻布十番商店街の組合長の木村政吉、七代目堀井松之助、妻きんにより、合資会社「麻布永坂更科 総本店」設立。
昭和30年代、合資会社「麻布永坂更科 小林勇」設立。七代目堀井松之助、妻きんも出資し、当初の約束で5年後に退社。
1956年(昭和31年) - 渋谷の東急文化会館4階特選食堂街に「永坂更科布屋太兵衛」を開店。
1959年(昭和34年)、小林勇が「永坂更科布屋太兵衛」を設立。
1960年(昭和35年) - 堀井良造(後の「更科堀井」八代目)は大学を卒業、合資会社「永坂更科布屋太兵衛」に入社。
1961年(昭和36年) - 二つの会社合併により、株式会社「永坂更科布屋太兵衛」となる、代表権は小林勇のものとなり、「布屋太兵衛」も商標登録された。
1984年5月、「永坂更科布屋太兵衛」の小林勇が、「麻布永坂 更科本店」の馬場進を相手取り裁判するも敗訴。
■本家を再興
1984年12月、24年間「永坂更科布屋太兵衛」に勤め、当時専務取締役を務めていた八代目の堀井良造が、更科堀井を現在地に創業。
更科のお店を整理すると
本家は堀井家八代目が再興した、麻布十番温泉跡地の向かいにある「更科堀井」。
本家と血のつながりがある堀井家が経営する分店が「神田錦町更科」。
本店・日本橋店で働いた伊島が開業した支店が、伊島家が経営する「布恒更科」。
本店で修行した赤塚が開業した支店を再興し、赤塚家が経営する「築地さらしなの里」。
本家七代目が出資し、本家八代目が24年働いた、麻布十番商店街の中心地にあるのが、小林家が経営する「永坂更科布屋太兵衛」。
本家七代目が雇用され、永坂とつながる麻布通りと環状3号線の交差点である新一橋にある、馬場家が経営するのが「麻布永坂 更科本店」。
参照
■蕎麦御三家
ウィキペディア「更科」
ウィキペディア「藪」
ウィキペディア「砂場」
■麻布十番の更科蕎麦
更科堀井「公式ページ」
永坂更科布屋太兵衛「公式ページ」
麻布永坂更科本店「公式ページ」
ウィキペディア「更科堀井」
ウィキペディア「麻布永坂更科本店」
ウィキペディア「永坂更科布屋太兵衛」
■更科本家の分店・支店
さらしなの里「公式ページ」
KANDAアーカイブ「第18回 神田錦町更科」
ウィキペディア「神田錦町更科」
ウィキペディア「布垣更科」
ウィキペディア「さらしなの里」
■藪蕎麦御三家
ウィキペディア「かんだやぶそば」
ウィキペディア「並木藪蕎麦」
ウィキペディア「池の端藪蕎麦」
■砂場
ウィキペディア「南千住砂場」
ウィキペディア「虎ノ門大阪屋砂場」
ウィキペディア「室町砂場」
■信濃国
ウィキペディア「信濃国」
ウィキペディア「埴科郡」
ウィキペディア「更級郡」
ウィキペディア「科野国造」
ウィキペディア「シナノキ」
■蕎麦について
【江戸三大蕎麦】14代目当主が語る! 糀町七丁目「砂場」藤吉の系譜
これを読めばあなたもそば通! 令和の時代から昭和5年の『蕎麦通』を読む< その45、明治年間に廃絶した店 やぶそば>