目からビーム!136 ブレ続けた日本共産党
先年、亡くなった作家で僧侶の瀬戸内寂聴氏は、生前しきりに「ずっとブレていない政党は共産党だけ」と言ってきた。これを聞いて正直、この人、人間稼業100年もやってきて、共産党のどこを見てきたんだろうと思ったものだ。
昭和21年8月の衆議院本会議で、日本共産党第一書記長・野坂参三は、政府提出の憲法案について「我ガ国ノ自衛権ヲ抛棄シテ民族ノ独立ヲ危クスル危険ガアル」空文であると批判し、「ソレ故ニ我ガ党ハ民族独立ノ為ニ此ノ憲法ニ反対シナケレバナラナイ」とまで言っている。日本共産党は、その昔、堂々と占領軍憲法の謳う武力放棄に異を唱えていたのだ。それがいつの間にか「9条は宝」「憲法を守れ」などと宣うのだから、ブレていないどころか、ブレブレもいいところだろう。政権は銃口から生まれるとは毛沢東の言葉だが、そもそも武力を持たない共産主義政権など地球上どこにも存在しえない。
共産党は、昭和30年7月の第6回全国行議会でまたブレた。それまでの暴力革命路線をあっさり捨てたのである。戦前、そして戦後、合法政党として再スタートしたころの共産党は実際、騒乱、テロ、火炎瓶闘争を繰り返していた。その先兵として使われたのが、朝鮮人党員でなかったか。今では、山村工作隊も中核自衛隊も「球根栽培法」(爆弾製造マニュアル)も代々木の歴史から消されている。朝鮮人党員への裏切り行為ではないか。もし、日共があのまま暴力革命路線に突っ走っていたら、三島由紀夫のいう「治安出動」はすんなり行われ、彼も腹を切ることはなかったもしれない。
寂聴氏はまた、あのSEALD’sを前にして「青春は恋と革命だ」とアジテートしている。これは僕からいわせれば、「青春はセックスと人殺しだ」と同義である。戦争も革命も大量殺人行為であることに変わりはない。戦争は戦時に敵兵を殺すが、革命は平時に同胞を、同志を殺す。戦争の人殺しは悪で、革命の人殺しは善、という理屈は成立すまい。
寂聴氏の天台宗の師・今東光氏は参議時代の昭和45年、陸上自衛隊新発田駐屯部隊で講演し、「医者は人を治す。軍隊は人を殺す。坊主は人を弔う。自衛隊は軍隊だ。諸君は安心して人を殺せ。あとはわし(坊主)にまかせろ」と発言した。むろん、野党はこれにいきり立ったが、今和尚はどこ吹く風だ。痛快である。正鵠を射るとはまさに。この発言を危険だという人は、寂聴氏の「恋と革命」の危険性にも気づくべきである。
初出・八重山日報
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(追記)
▼昭和21(1946)年8月24日共産党を代表して野坂参三氏の演説
「当草案ハ戦争一般ノ抛棄ヲ規定シテイマス、之ニ対シテ共産党ハ他国トノ戦争ノ抛棄ノミヲ規定スルコトヲ要求シマシタ、更ニ他国間ノ戦争ニ絶対ニ参加シナイコトヲ明記スルコトヲ要求シマシタガ、是等ノ要求ハ否定サレマシタ、此ノ問題ハ我ガ国ト民族ノ将来ニ取ツテ極メテ重要ナ問題デアリマス、殊ニ現在ノ如キ国際的不安定ノ状態ノ下ニ於イテ特ニ重要デアル、芦田委員長及ビ其ノ他ノ委員ハ、日本ガ国際平和ノ為ニ積極的ニ寄与スルコトヲ要望サレマシタガ、勿論是ハ宜シイコトデアリマス、併シ現在ノ日本ニ取ツテ是ハ一個ノ空文ニ過ギナイ、政治的ニ経済的ニ殆ド無力ニ近イ日本ガ、国際平和ノ為ニ何ガ一体出来ヤウカ、此ノヤウナ日本ヲ世界ノ何処ノ国ガ相手ニスルデアラウカ、我々ハ此ノヤウナ平和主義ノ空文ヲ弄スル代リニ、今日ノ日本ニ取ツテ相応シイ、又実質的ナ態度ヲ執ルベキデアルト考エルノデアリマス、ソレハドウ云フコトカト言ヘバ、如何ナル国際紛争ニモ日本ハ絶対ニ参加シナイト云フコトデアル、・・・要スルニ当憲法案第二章ハ、我ガ国ノ自衛権ヲ抛棄シテ民族ノ独立ヲ危クスル危険ガアル、ソレ故ニ我ガ党ハ民族独立ノ為ニ此ノ憲法ニ反対シナケレバナラナイ。(中略)
我々ノ数ハ少数デアリマス、ソレ故ニ我々ハ当憲法ガ可決サレタ後ニ於テモ、将来当憲法ノ修正ニ対テ努力スルノ権利ヲ保留シテ、私ノ反対演説ヲ終ル次第デアリマス」
(『官報号外 昭和21年8月25日 衆議院議事速記録第35号』より)