『別れのブルース』から思う全体主義の恐怖 淡谷のり子と王光美
淡谷のり子『別れのブルース』は2番の歌詞がいい。
♪腕に錨の入れ墨彫って
やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても
恋には弱い すすり泣き
漂う退廃的なムードがわけもなく好きだった。
それもそのはずか、この歌は横浜のチャブ屋、つまり娼館の女と客(おそらくは水夫)との一夜の恋を歌ったものだという。
「時局に合わぬと」、発売から2年後の昭和14年に発禁を食らっている。
戦中、淡谷のり子は軍隊の慰問にもよくかり出された。ド派手な舞台衣装を憲兵に咎められ、「これから前線に行く兵隊さんの前で歌うのに、みすぼらしい恰好で舞台が踏めるか」「これは私の戦闘服です」と啖呵を切ったという。淡谷の反骨精神と舞台人としての誇りを伝える有名なエピソードである。
今、放映中の朝ドラでも、このエピソードが再現されたらしいが、あいにくうちにはテレビがないので、それについては赤旗日曜版のコラムで知った。
淡谷のり子が共産党シンパだったかどうかは別として、件のエピソードを共産党の機関紙である赤旗が紹介しているのには、僕からすれば、少々”おまゆう”感を感じずにはいられない。
淡谷は戦中、ドレスにハイヒールの舞台衣装を押し通したという。ということは、軍部もしぶしぶながら彼女のスタイルを黙認していたことになる。
たとえば、これが中華人民共和国のような共産党一党独裁の国の話だったらどうなるか考えてみてほしい。人民服以外の服、それも派手なドレスを着た歌手が党礼賛以外の歌を人民解放軍の兵士の前で歌ったとしたら、である。その歌手は「反革命文士」として捕らえられ、即時処刑か、よくても投獄の憂き目にあうことだろう。
毛沢東失脚後、国家主席となった劉少奇は夫人の王光美を連れ立って、東南アジアを歴訪するが、その際、王は純白のチャイナドレスに真珠の首飾りをつけてた。これが、文化大革命の最初の餌食となった。ファーストレディは紅衛兵によって捕らえられ、真珠に見立てたピンポン玉を首にかけられ晒し者にされたのだ。そして王光美は12年間の投獄を余儀なくされるのである。
こう見ると、日本の過去の軍国主義(この語もはなはだ曖昧だが)よりも共産主義社会のほうがよほど全体主義的な狂気をはらんでいるし、不寛容で残酷だ。
連合赤軍のリーダー永田洋子は、イヤリングをつけていることを「ブルジョア的行為」とし、女性メンバーをリンチにかけ殺害している。これもまた、共産主義、革命思想という狂気にかられての凶行だったのだろう。
戦時中、歌手はモンペや国民服姿でで戦意高揚の歌ばかりを歌わされていたのかといえば、断じてそうではない。
赤旗は、戦中はただただ暗黒の時代であり、軍隊は非人間的な組織であるということを強調したいために、淡谷の過去の証言を紹介したのだろう。
ならば、淡谷のこの証言についてもぜひ触れてほしかった。
上海の部隊に慰問にいったとき、兵士たちから『別れのブルース』のリクエストの声があがったという。
>それが『別れのブルース』だったのよ。問題の歌だったので、少しためらったけど、明日(あした)がわからない兵隊さんでしょ、だからわたし歌ったのよ。
そのとき歌い始めて、ひょっと見たら、憲兵さんと将校さんがホールから出て行ったのよ。出て行ってくれたの。そして、ひとつへだてた中庭の向こう側から覗き見るようにして聞きながら、泣いているじゃないの。そういうことがあったの。だから私ね、最前線では軍歌など歌っても喜ばれないから、思いのある歌を歌ってさし上げたの。(『徹子の部屋』より)
禁止された歌を咎めるはずの憲兵が、見逃してくれた。そればかりではない。覗き見するようにステージを見て泣いている。
軍人も血の通った人間なのである。そして、その人間らしさをもっとも忌む思想が共産主義なのだ。
淡谷のり子のポジションは、ピアフではなくダミアだろう。
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