1985駒沢オリンピック公園物語
日本における、80年代のBMXと
SKATEBOARDカルチャーの物語
文:山口洋介
高橋潮に捧ぐ
ジョージ・オーウェルがデストピアSF小説で描いた「1984年」の翌年、1985年とはこんな年だった。
そんな時代の物語である。
第1話「FACE DOGS」
「CURB DOGS(路肩の犬達)」
「MOVIN'ON MAGAZINE」
1985年、俺は親友である林(チャーリー)一也と
「MOVIN'ON MAGAZINE」創刊号のあるひとつの記事に
見入っていた・・・
チャーリーはマンガ「PEANUTS」に出てくるチャーリー・ブラウンにそっくりなので、 高校時代からそのニックネームで通っていたが、本人はマンガのチャーリー・ブラウンとは対照的に、高い運動能力に加えて人一倍ガッツがあり、なによりサーフィンやスケート、BMX といったアクションスポーツを愛してやまない男だ。俺達はお互い口には出さないものの、いずれはプロになりたいと願っていたが、地元には自分達以外には毎日でもスケートしていたいというような奴がいなかったので、いつも一緒に滑れる仲間を渇望していた。
二人で上野公園の植え込みバンクに出かけ、知らないスケーター達と出会って一緒になって滑った。 まだスケートに関する情報が乏しかった時代でオーリーさ え誰も知らなかったので、植え込みバンクでエアボーンやボ ーンレスをして楽しんだが、その後連絡を取り合うまでには至らなかった。
町田の東急ハンズに行くと石原(ハッチャキ)晃とよく出会った。彼も地元の八王子周辺にスケーターがいないらしく、会う度にうるさいほど話しかけてきた。 彼もまた 俺達2人と同じような気持ちだったのかも知れない。
やがて 厚木基地に住むリコとスティーブという2人のスケーターと友達になって、キャンプ座間内のスケート・パークや、厚木基地内のエンプティ・プールで一緒に滑るようになった。リコはちょっとシャイなプエルトリコ系アメリカ人で、日本のセブンイレブンのブリトーはウマイといっていつも一度に2つ買って食っていた。スティーブはスケベで陽気な典型的なヤンキー兄ちゃんだが、滑りがダイナミックで、無理な体勢になってもボードに乗っていようと執着するところはさすがアメリカンとうならされた。
休園日に「こどもの国」の中にあるボウルに忍び込む時、ボードを放り込んでから柵をよじ登って越える様は今から思えば Z-BOYZの再現のようだった。 俺達は自らを「CURB DOGS(路肩の犬達)」と名乗るようになり、地元にステンシルでチーム名をスプレー・ペイントした。
しかし、やがてリコもスティーブも親の任期の関係で本国へと帰ってしまった。
前述の「MOVIN'ON MAGAZINE」はAJSA、JBFAといった協会の創設メンバーが、各専門店の協賛を得て発刊した日本初のアクション・スポーツ専門誌で国内のシーンを知る貴重な情報源だった。
その創刊号の中の「STREET SCENE」というコーナーに駒沢公園の BMXフリースタイル・チーム「FACE DOGS」が紹介されていた。そこに高橋潮がフリースタイルのテクニックを披露している2枚の写真が掲載されていた。
俺が「あ、こいつ池袋西武の大会に出てたヤツだべ?」というとチャーリーが「おー、おー、あの「プリンス」みたいな顔したヤツだろ」という。
その頃、時折り池袋西武や東急ハンズ町田店などで、BMXやスケートボードの大会が開かれており、ちょっと前にチャーリーと池袋西武の大会に行った時、見かけた奴だった。
オフクロさんがハワイアンでハーフの潮は、ヘルメットにストローを切って作ったモヒカンを貼り付けてトロージャン仕様にしてひときわ目立っていて、おまけに顔がミュージシャンの「プリンス」に似ていたのでよく覚えていたのだ。
「駒沢に行けばコイツらいるかな?」 どちらかともなくそういうと、自分達で作った180センチ幅のジャンプランプをサニトラの荷台に積んで駒沢公園に向かった。
プーさんいわく、
駒沢公園にランプ台を置いたのは、
俺たちが初めてらしい
プーさんいわく、駒沢公園にランプ台を置いたのは、俺たちが初めてらしい。
駒沢に着くと、彼らが練習しているはずの駒沢通り沿いの公園入り口付近に車を横付けにし、ジャンプランプを降ろしていると、すぐにジーンズの上下を着て人の良さそうな顔をした BMXフリースタイラーが話しかけてきた。
いつもフラットランドでフリースタイルの練習をしているらしく、そこに俺達がランプを持ち込んで来たので、興味津々だった訳だ。仲間内から「プーサン」と呼ばれているらしいその男は、どこかコミカルな風貌とはうらはらにBMXのスキルはハイレベルで、駒沢の猛者共の一人だった。
そしてもう一人、「ターちゃん」こと粕谷守唯、彼は「FACE DOGS」のオリジナル・メンバーの一人で、既に各地で行われている大会で顔を知られる実力者だった。
俺たちが作ったジャンプ・ランプは普通の90センチ幅でなく180センチ幅であったのが幸いして、彼ら二人もターンやフットプラントをして遊び始め、俺達もスケートでジャンプ・ランプを飛び、お互い技を見せ合っては 「Yeah!」と声を掛け、すぐに意気投合してしまった。
するとそこにあの高橋潮も現れたのでチャーリーが「ウオーク アラウンド(ディケイド) 見せてくんない?」とリクエストすると、「それならもうちょっとで3回連続が出来そうなとこ」と請け合い、いきなりウオーク・アラウンド2回転を披露してくれた。皆が「Yeah!」と叫んで拍手を送る。
それからしばらく真剣な表情の潮のトライがつづくと、ついに潮の体がバイクのハンドルを中心に3回転して見事にサドルとペダルに戻り、俺達は歓声をあげて潮に走り寄り、かわるがわる握手やハイタッチを求めた。俺達はそのトリックを「ウオーク・アラウンド3回転」と名付けた。
俺とチャーリーが心から望んでいた仲間達が誕生した瞬間だった。
つづく
山口洋介
1966年 神奈川県川崎市生まれ
1975年、小学3年生の時にロードショー公開された映画「ジョーズ」
を観て映画にハマる。
1977年映画「がんばれ!ベアーズ特訓中」「ボーイズボーイズ」を 観てアメリカ文化に強烈な憧れを抱くようになり、スケートボードを
始める。
1988年、日本初のプロスケートボーダーアキ・秋山氏に誘れ、インドア・パーク「ロサンゼ ルクラブ」のインストラクターとなる。米西海岸ハンティントンビーチ発の アクションスポーツブランド「ローカル・ボーイズ」がスポンサーに。
1990年、米西海岸に渡来し、グラフィティアートと出会い、現地で グラフィティ活動を始める。
1992年、帰国 JELLOのタグネームでグラフィティクルー「CAP」を 率いて活動を開始、KAZZROCK,ESOWと並び日本のグラフィティ シーンの先駆け的存在となる
2010年頃より双極性障害者となり、現在は障害児ディサービスに 勤務