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家庭菜園家を増やすのが食糧安全保障


<家庭菜園家を増やすのが食糧安全保障>

日本の農業従業者人口は所得倍増計画によって農業の大型栽培化を寿司清したため1960年の1175万人から、1975年の489万人に激減する。そこからは減少スピードは緩やかになるが2000年に240万人、2020年には136万人と減る一方だ。

人口増加と高齢化は進む一方だったにも関わらず、農業従業者が減るのは農業の効率化と大規模化の成功を意味している。農村の若者が都会に出て行ったのは都会のきらびやかな生活に憧れ、サラリーマンになることを夢見たからではなく、もうすでに1960年代に農村から若者のありあまる体力を生かす仕事は減る一方だったからだ。

1961年に農地は日本史上最大面積の609万haに達するが、その後減少を続け現在(2023年)は約437万haである。農地が減ったのは農家が減ったからでではなく、増えすぎた人口分の住宅地にするためである。それが郊外にできたベッドタウンであり、農地の転用が難しくなった平成以降は雑木林を切り開いたニュータウンである。

地方の人口密度を計算すると日本が1haあたり8.3人になるのに対して、イギリスは0.4人、フランスは0.5人である。(FAOの2010年のデータ)日本の地方には実は人が多く住んでいる。そのためヨーロッパの田舎のようにただただ広い畑や牧草地が広がる景色は少なく、日本の里山では田畑の中に人家や集落が点在しているか、集落そのものが山々に囲まれているのが原風景である。水田が延々と続く一大コメ生産地である新潟県でも農地1haあたりの人口は14人でヨーロッパの30倍以上である。

農業の担い手を増やすために税金が投入され就農人口を維持しようとし、現実のところ減っていることで危機感を煽っているが、自給率の高い国と比べれば十分多い。農家が多ければ所得保障の総額が膨れ上がってしまうために、実現が難しくなる。

食料自給のために農業の規模拡大を進めると1960年代のように農村の人口は一方的に減ることになる。しかし農村は人口が減ることを望まない。急斜面の多い山間部を農地に転用してしまえば災害は増える。日本の農業政策には小規模経営と家庭菜園の推進が一番合うような気がするし、それ無くして論じることは机上の空論に他ならない。

日本の土地で一番効率的に農業がしやすい平坦な土地は大きな平野部や河川の下流域だが、その土地はほとんど工業地帯や住宅地、商業地になってしまった。工事用車両や自動車が入りやすいからだろう。そのため、現在残っている農地は効率化を図るのが困難なところばかりである。

日本の現在の農地では一部の地域を除き、家族などの小規模経営のほうが向いている。本当の食料安全保障を考えたら、小規模経営や家庭菜園を推進した方が良いのではないだろうか。

しかし、限界ももちろんある。江戸時代の日本は世界でも有数のオーガニック大国だったが、その有機栽培で賄っていたのは3000万人だ。それでも飢饉や飢餓は起きていた。堀江武元京都大学教授による計算では日本が養える人口は4860万人だという。耕作面積は江戸時代に比べて約30%増なので、リアルな数字だろう。

江戸時代の百姓は租税のコメから次第に換金作物を栽培量を増やしていた。そのため、不作の年に食料が高騰し、貧しい農民は食べるものもなければ買うこともできなかった。江戸時代の食糧危機は政治の失敗にほかならなかった。

1960年代から農村を何十年も巡り歩き、調査をしてきた原田津は『食の原理 農の原理』のなかで「農の営みをしないものは、分け与えられた食べ物で暮らしを成り立たせている。それを自立自給と言い難いとしても、分け与えられるという関係によって農とつながっている。」と述べている。

にも関わらず、都会に住む現代人は農家を支えようと言う。農業的循環の結果として都会人の食べ物があるのに、目的としてあるかのように主張し食料自給を唱える。都市部で生まれた産業廃棄物は遠く離れた山奥の山林に埋められ、24時間営業し操業するためのエネルギーを生産するために山を切り開いてソーラーパネルを並べる。巨大なダムを河川の上流に建設し、水の流れをコントロールしようとする。草刈り機を持ったことも草刈り鎌を持ったこともない人々は除草剤の使用に反対し、日本の雑草のレジリエンスを知らない人々は耕すこと自体を悪と断言し、オーガニック給食を求め、しまいには農産物が高いと文句を言い出す。

農業の現場に「企業の倫理を持ち込め」という人々もいるが、農家がどれだけお金にならない仕事をして、農村や田畑を維持しているのかを知らないからそんなことが言える。草刈り一つにしたってお金にならないがやらなくてはいけない仕事の一つだ。そこに企業の倫理を持ち込めば、農産物は必ず高くなる。むしろ、現在の農産物は安すぎるくらいだということに気がついていない。

たとえどんな栽培方法であろうとも農家は食を守り、命を守るだけではなく、国土と環境を守っていることを忘れてはいけない。日本の農家の所得のうち、補助金の占める割合は30%程度なのに対して、英仏では90%以上、スイスではほぼ100%。(2013年)生産額に対する割合ではアメリカが70%を超えるが、日本は40%弱だ。日本は先進国で最も低い。

農家が食っていけなくて、守られていないのが日本の現状だ。それなのにも関わらず農業を営み、都市部の人々の食と命を守っているのだから、感謝の気持ちだけではなく、政治面(法律や制度)でも経済面でも支える必要があるだろう。国民のたった1%(2020年)の農業従業者で食料自給率(農林水産省の計算式での)40%を賄っているのだから、もう十分だろう。この数字はかなりの成果であり、効率的な証拠だ。

欧州では環境基準に沿って、環境支払いが行われる。欧州では農家は国土を守り、美しい景観を作り出す存在だというように考えられているからだ。日本のように自然遷移の早い国では農家が減れば、里山の原風景はすぐに失われ、ジャングル化するだろう。

農家への直接支払いというのは生産者のための補助金ではなく、消費者のための補助金である。農産物が資本主義経営の製造業のようにコスト見合いで価格を決めると、ヒトの命に関わる必需品を高くて買えない人が出てくる。それを避けるために必要なのだ。世界中で発生した飢饉は食があっても高すぎて買えないから起きている。

大規模化し、企業が参入すれば強い農業になるというのは「農村に人々が住み、暮らし、それがつながった生業があり、コミュニティがある」という視点が欠落している。企業は儲からなければ作業をしないし、いざとなれば撤退する。農村に住む人々は決してそういうことはない。地元を愛しているからこそ、そこで生きていく。そういう人々を東日本大震災後にもたくさん見てきた。

農家はここまで国民の命を守ってきたし、これからも守ってくれることは間違いない。農家にこれ以上何かを求めるのは辞めにしないだろうか?農家がいなくなれば、食も命も美しい原風景も国土も失われる。

農家への補助と保護政策を訴えつつ、私たちは農家に一方的にかかっている負担を取り除いていくことが求められている。それは決して難しいことではない。ただ田舎の古民家に住み着いて、小さな田畑を持ち、家庭菜園を始め、集落の草刈りに出て、彼らとともに生きていくことだ。

完全な自給自足を目指す必要はない。そもそも日本の農村では集落全体での地給地足だったのだから。そして、日本の地方を守ってきた人々には都会からくる人々に対して寛容の気持ちを持って接して欲しい。彼らなくして、日本の農村の未来はないのだから。彼らは決してお金儲けのために来たのではなく、農家のように自然と暮らす姿に惚れてきたのだから。不遜な孫が突然帰ってきたかのように温かく見守ってもらいたい。

これからの地方での農は広い農地で企業や大規模農家によって行われる産業としての農業と、山間部集落や里山の原風景の中で行われる小規模農家と家庭菜園家の生業の二つの軸で進んでいくことになるだろう。どちらも日本の農政策においても食糧安全保障にとっても防災対策においても、重要なことに違いはない。私たちは表面的な規模や栽培方法で分断するのではなく、繋がった大地でともに暮らす人々であることを意識して、それぞれができることをしていきたい。

国連は巨大な流通企業や企業的な農業が小農や家族農業を収奪する構造が強まり、世界の格差や貧困は拡大するとの疑念と反省から、小農と家族農業の重要性を再確認し、2019年から28年にかけて『家族農業の10年』と定め、その生活を改善する必要性を訴えている。そのために協同組合の役割を強化する必要があるとの認識も強くなっている。

国連の2012年「国際協同組合年」、2014年の「国際家族農業年」、ユネスコによる2016年の協同組合の「無形文化遺産」登録、2018年「小農と農村で働く人々の権利に関する国連宣言」に続く国際活動の一環である。


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