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言葉の恵みと呪い


<言葉の恵みと呪い>

この地球上でヒトだけが言葉を使ってコミュニケーションをする。ではいったいこの「言葉」とはどんな特徴があるコミュニケーションなのだろうか。

それはたった一言で説明するなら「すべてウソ」だということだ。これは決して「言葉はウソがつける」というレベルの意味ではなく、言葉で表現すればすべてがウソとなってしまうということだ。

ウソという表現には「意識的に相手を騙す、欺く」という意味合いがあるので、厳密に言えば正しい表現ではないだろう。ただ、この本の中では分かりやすく「ウソ」という表現をさせてもらいたい。(漢字の嘘は意識的であり、カタカナのウソは本質的に、という風に分別)

なぜなら、この言葉の特徴を各学問においてどう説明しているのかというと、哲学用語では「虚構性」、言語学では「多義性」、コミュニケーション(心理)学では「ディスコミュニケーション問題」とこれらの専門分野の人たち以外では馴染みのない言葉だからだ。

私は以前、山奥の野営地でキャンプをしたことがある。そこから水汲み場までは少し距離があったので、空の容器だけを手に持ち、他の荷物は全てテントの中に入れて水を汲みに行った。距離は往復20分ほど、水を汲んで帰ってくるまで全体で30分ほど経っただろう。その30分の間に私のテントには事件が起きていた。

野営地に戻ってくると遠目から見ても私のテントの形が崩れているのが分かり、何かが中に侵入して動いている様子が見て取れる。私は急いでテントに戻り、恐る恐る中を確認した。そこには犬が居て、私のテントを引き裂き、テントの中の食料を漁っていたのだ。私はその出来事にただただ驚いてしまった。

さて、いきなり話が変わってしまって申し訳なかったのだが、この話をあなたは理解できただろうか?もし理解できたというのなら、あなたが理解したという犬について教えてほしい。犬種は?色は?大きさは?

私はよくこの話をいろんな場面で持ち出すのだが、いまのところ誰一人として正解したことがない。しかし、この出来事の話を聞いて、まるで意味がわからないという人はいないだろうし、これが通常の会話の中ならいちいち犬の特徴など説明しなくても会話は問題なく進むだろう。

私のテントに現れたのは隣のオートキャンプ場に遊びに都会から遊びに来ていたオシャレな家族に飼われていた可愛らしい小型の白いチワワである。テントを引き裂いていたのは事実だが、その幅はチワワが入れる20cmほどであり、私が驚いたのは想像していた獰猛な野犬ではなく可愛らしいチワワの丸々とした眼と見つめ合ったからである。

「犬」という言葉は理解できても、その言葉を聞いた側の人がどんな犬を想像するのかは、その人のバックグラウンドによるのだ(これを言葉の多義性という)。柴犬しか見たことがない老人に「最近、犬を飼い始めた」と話をすれば、柴犬しか想像できない。そこにいきなりチワワが登場すれば、びっくりするだろう。これも犬なのか、と。

私たちは普段使っている言葉の厳密な意味や解釈について同意がないまま、会話をすることができる。コミュニケーションが成立していると思っている。つまり厳密に言えばコミュニケーションは常に失敗しているということだ(これをディスコミュニケーション問題という)。

神様や幽霊を存在すると科学的には証明できていないが、それを信じる者たちにとって「神様のご加護」は事実であるが、信じない者たちにとってその言葉は「事実ではないものを事実のように」聞こえる。(これを虚構性という)

私たちは目の前で起きている現象を同時に見たとしても、それをどう事実として受け止めるかが違うように、
私たちはたとえ同じ文章を読んだ(同じ言葉を聞いた)としても、それぞれ人によって解釈の仕方が変わってしまうのだ。決して同じように解釈することができない。つまり解釈とは想像とほぼ同じ意味を持つ。そのため読書感想文に良いも悪いもないし、正解も不正解もない。それぞれ読者自身の解釈があるだけである。

しかし勘違いしないでほしいのは、「読解」との違いである。読解とは筆者の思考を汲み取り、筆者の意見を読み解くことが目的である。読解の先には必ず理解がある。そのため国語のテストには正解不正解がある。ただし、納得があるとは限らない。

この点を勘違いしているのが、ネット上に多く見られる言葉尻を捕らえるクレーマーたちだ。

彼らは誰かが表現した文章や言葉を「自身の解釈に当てはめて理解し、不愉快な思いをした」と苦情を寄せる。そして自分のその感情の原因を相手の言葉選びのせいにして、訂正と謝罪を求める。相手が伝えようとしていることには興味がない。相手の思考を理解しようしていないのだ。

「言い方に気をつけろ」とクレームを寄せるが、80億人全員が納得するような言葉など村上春樹でも実質不可能である。(もちろん個人名や団体名、それらを仄めかすような単語を用いている場合は別の話だが)

ただし、この心の構造はクレーマーたちだけの特性ではない。私たち全員がどうしても自分の解釈で理解してしまうのだ。その解釈には思考の癖や感情が深く関わってくる。

だからこそ、自分の今現在の状態に気がついている必要があるし、「受け取り方に気をつける」必要がある。クレーマーたちは自分の思考の癖(解釈)や感情の原因を他者に求めている人たちであり、鏡に映っている自分の寝癖を、鏡の表面をこすって正そうとしている。

さて、どうしてこんな話を自然農の話題として取り上げたのかというと、職人たちの言葉ほど曖昧なものはないからだ。格言や人生訓のようなことばかり言って、科学的な用語や定義がはっきりとしてから説明してくれない。抽象的な表現や曖昧な言い方を好む。だからどうしても「もっとちゃんと説明してくれ」とヤキモキしてしまう。

これは決して意地悪なわけでも、語彙力や表現力が乏しいわけでもない。言葉が持つ呪いを理解しているからだ。前述したように言葉を私たちはどうしても自分の経験から解釈してしまう。そしてそれを意識している人は少ないから、自分の解釈だけで物事を捉えてしまう。すると目の前で起きている現象を曇った眼で解釈してしまうのだ。

言語化というプロセスでは伝えたい情報のどこをどのように言語化するのか、ということが常に起こる。伝えたい情報が過不足なく言語化できることはない。また言語化されたことが、伝えたい情報の全てだと決めつけることは誤りである。言語化されている情報の裏には言語化されていない情報があるのが当たり前なのだ。

私の師匠たちももれなく曖昧な言葉を多用した。その言葉の本当の意味を理解することは今だにできないでいる、と思っている。というのも、ときどき師匠の言葉を思い出し、「そういうことか!」と青天の霹靂のごとく理解する(正しくは、したつもりになる)ことがある。

しかし、それからしばらくしてまた「え!もしかして、こういう意味でもあるのか!」と唸ることとなる。そしてそのたびに自分が持っていた思考の癖(解釈)に気がつかされ、反省するのである。自身の解釈とはセルフ洗脳そのものだ。だから学校教育のように言葉の定義を丸暗記する教育は洗脳だと批判されるのである。

もし、師匠が話す言葉の意味を「これこれこういうことだ」と厳密に説明していれば、そんなことにはならないだろう。なぜなら解釈は呪いとなり、そこから離れることが難しくなるからだ。

「言葉はすべてウソ」だからこそ、そこには無限の可能性がある。私たちは「川にライオンがいる」とか「ライオンがこっちに向かってくる」とか表現し、仲間に伝えて、家の中に逃げ込むこともできるし、集落を塀で囲って防壁を作ることができる。

数百年前に「遠く離れた国の人と話す道具を作る」なんて言えば、「そんなのは不可能だ」「夢見てないで勉強しろ」と答えが返ってきただろう。それでもその言葉を信じたものは電話を発明することができた。

ここまで例え話を出して説明したように、言葉はすべてウソだからこそ、この現代社会はここまで発展することができたし、自然界では弱っちいサルの1種だったヒトは他の動物を檻の中に入れて鑑賞するほどの力を得たのである。そんなヒトが言葉のウソから編み出した最高傑作こそ「お金」であるが、その話はまたの機会に。

私たちヒトが操っている言葉というコミュニケーションツールは文明を発展させ、多くの恵みを生み出してきた。その一方で言葉で傷つき、言葉に病み、言葉に惑わされてきた。そのどちらの本源こそ「ウソ」なのだ。

少し前のヒトは神様の言葉(神様の声が聞こえるという人物の言葉)に翻弄されて生きていたが、
最近のヒトは「多様性」や「持続可能」という言葉に翻弄されているように思える。テレビやインターネットで盛んに使われている言葉だ。

もちろん、その言葉をそれぞれみなが勝手に解釈しているのだがら、意見が一致することもなければ、同じ言葉を使っているはずなのに議論が噛み合わない。そんな討論会や意見公聴会ほど見るに耐えない。

ここまで言葉の恵みと呪いについて話してきたが、最後に大切なことを付け加えておきたい。それは私たちは決して言葉を信用していないということだ。それは誰の言葉も、だ。

今すぐに試してもらいたいことがある。あなたの恋人やパートナーに向かって「私(俺)のこと愛している?」と眼を見て聞いてみてほしい。そこで相手があなたの眼を見てゆっくりと「うん、愛しているよ」と応えるか、スマホの画面を見つめて指を動かしながら「うん、愛しているよ」と応えるか。

詳しく説明するまでもなく、同じ言葉でも私たちは相手の態度や行動、抑揚やリズムなどで相手の本心を判断する。同様に私たちは「言っていること」と「やっていること」が食い違うとき、必ず「やっていること」を見てその人の本心を判断する。

実は私たちヒトは言葉を発明し、これだけ使っておいて全然信用していない。むしろ言葉だけで理解しようとすれば、クレーマーたちのように自身の解釈が必ず入り混じる。しかもクレーマーたちはその解釈が真実だと思い込んでいるから面倒なことになりやすい。

そういう人たちの間だけで噂話はひとり歩きして、尾ヒレが何個もつく。聴衆は政治家の公約を信じて、例えどんなに公約を果たしていなくても、また投票する。健康食材を買い集めているにも関わらず、不健康のままのヒトもよくいるだろう。

自然農を理解し、実践するためには言葉ではなく、言葉にならない身体知が必要不可欠である。なぜなら、自然界には言葉は転がっていないし、言葉で操れるものがないからだ。

私は自然農を教えているが、私の畑には何一つ野菜がなければ誰も信用しない。自然農に関する知識や技術をたくさん知っている人に限って、なかなか野菜が育っていないのは言葉の呪いなのかもしれない。だから、自然農ができるようになりたいなら「とにかく畑に行け」だ。


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