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栽培種と野生種


<栽培種と野生種>
もともと、野菜という言葉は「野山から得られる菜(副食)」を意味し、それに対して糧(かて)とは主食のことを意味した。
あまり使わないが農学の専門用語では「蔬菜」といい、大根やネギなどの添え物や薬味として利用されてきた。そのため日本では栽培作物も雑草や山菜も、栽培種や野生種の区別がなかった。江戸時代の農書にはナズナやタンポポ、ハコベ、アザミなども登場する。

農業が盛んになり、経済が発展した江戸時代中期からしだいに副食も栽培食物が主体となった。江戸時代の城下町では食物のほぼ全てが栽培作物や市場に出回る山菜になった。文明開化によって西洋からの農学が輸入されると、日本においても栽培種と野生種は明確に区別されるようになったようだ。栽培と野生の概念もまた輸入品だった。

人類の農耕の歴史は約1万年前に非脱粒性のタネの発見から始まったと言われている。非脱粒性とはタネが実っても地面に落とさない性質のことで、イネが「実るほど頭を垂れる」のはそのためだ。ダイズを収穫すると鞘から豆を取り出さなくていけないが、雑草のカラスノエンドウの種子を取ろうとすると勝手に鞘が弾けてしまって、タネは四方八方に飛び散っていく。このように栽培種は「種子の自然散布の喪失(減少)」が見られる。

この非脱粒性はタネが落ちない突然変異の株を発見し栽培したことから受け継がれている。この性質は植物にとったら致命的な欠陥だ。なぜなら、タネは大地の上に巻かれない限り発芽することができないからだ。またタネから根が出る部分は鞘と繋がったままだから、茎ごとそのまま倒れても発芽しにくい。しかしヒトにとって落ちないタネはまとめて採集し食料にできるうえ、貯蓄もしやすい。これによって農耕が可能になったと言っても過言ではない。そのため、野生種か栽培種かを見分ける最重要ポイントとされている。

他にも栽培種と野生種の違いがいくつかある。
栽培種のタネを畑に蒔くと一斉に発芽するのが分かるだろう。これは「休眠性の喪失」といって、土中に播種すると季節に関係なくすぐに発芽する。野生種では不揃いにバラバラに発芽する。そのため、虫や鳥にすべて食べられることを防いでいるようだ。また栽培種(特にマメ科など)はタネを蒔くタイミングを間違えてしまっても発芽して、ツルボケしてしまうが、野生種は決まったタイミングでしか発芽しないから、雑草を育てようとすると発芽させること自体難しい。「蒔」という字は国字で「草編に時」と書くように、タイミングが最重要視されたためで、この字が生まれたのだろう。適期適作が重要なのは栽培種の特性ゆえだ。

他にも「種子の大型化」やタネの「登熟期が同時期」、「毒性や匂いの減少」が挙げられる。植物にとっての天敵に食べられないように身につけていた性質がヒトによって守られることで失い、代わりにヒトが喜ぶ巨大化にエネルギーを使ったようだ。

自家採種に憧れてトライする人も多くなってきたが、専門家の中でも難しいと言われているので、はじめのうちはあまり気負いせずに取り組んでもらいたい。正直タネは購入した方が発芽率が高いので、先に育苗栽培技術を身につけてから自家採種でも構わない。そうでないと、タネが悪くて発芽しないのか、栽培者自身の技術の問題なのかが分からない。

家庭菜園家のなかにはF1種を毛嫌いする人々もいるが、自然界ではF1種のように親の性質と違う性質を持つ子孫が生まれるのは普通のことである。ほとんどの雑草が雑種であるように。もちろん雄性不稔の種子は生き残れないから、自然に淘汰される。

植物、特に栽培種は親の性質を子供にそのまま受け継ぐ種が多い。これはヒトが栽培の歴史の中で選抜してきたからであり、保護してきたからでもある。しかし、限られた品種だけを栽培することは避けてきた。

江戸時代の百姓は早生~晩稲までさまざまな品種を植えて、作業が一時期に集中しないようにしながら、風水害のリスクも避けて、多収穫を得ようとバランスを取っていた。日本人の多品種栽培は風土に適した多収量を目指すことと災害への対策によって、品種が増え、特性が多様化していった。

貯蔵や保存に適した品種、生食に適した品種、似たり焼いたり調理に適した品種、発酵食に適した品種など自身の暮らしや好みに適応した品種を栽培してきた。栽培種が不作だった時に備えて、ほとんど手のかからない半野生種や自生種も育てきたし、排除することはなかった。9月の後半に田んぼの周りにヒガンバナが咲き乱れるのは、その知恵の証である。ヒガンバナの球根は毒抜きをすれば食べられるが、それは飢饉などのときのための食料だったから、普段は手をつけなかった。

家庭菜園レベルでは固定種の性質を維持することを目的とすると、規模が足りないため不十分だし、品種も限られてしまうため多様性のメリットがなくなる。どうしても性質を守りたい品種は別にして、他の品種は積極的に交雑させてしまっても構わない。そういった雑種はあなたの畑や気候に適した品種になりやすい。江戸時代の農家はその変わり種を見つけ出し、栽培して在来種を生み出してきた。

そして雑種化を目指して自家採種を繰り返すと、種子の先祖返りの性質から栽培種から野生種へと性質を変えていく。そうなれば、こぼれダネが勝手に芽生えて畑で育ってくれる確率が高まる。

すぐに発芽するもの、遅れて発芽するものなど発芽のタイミングがズレるようになる。同じタイミングで発芽しても早く成長するもの、ゆっくり成長するものがいる。虫にすぐに食べられるもの、食べられても生き残るもの、生き残らないものが出てくる。味も色も、姿形も個性が見て取れるようになる。

私は全国を旅する合間にホームセンターや種苗店に足を運び、その地域の在来種や珍しい固定種、美味しそうな品種を見つけたら積極的に購入して、自身の畑で栽培を試みる。もちろん、他の品種と交雑してしまうことも容認する。小さな畑での自家採種はどうしても株数が少ないので、自家採種を繰り返すと近親交配のように種の遺伝子に偏りが生まれてしまう。外から新しい遺伝子を持ち込み交雑させれば、その偏りも解消され、私の畑だけの品種も育成される。

自家採種にこだわり過ぎれば、無理が集り、苦しさだけが増していく。割り切って固定種や在来種を買うこともアリだし、タネの交換会を主催したり参加しよう。大切なことはどのタネでも十分に育てることができる土作りと人作りである。寛容さは多様性において最も重要な心持ちだろう。そして、もちろん、いざという時のためにタネ採りの技術を持っていることも重要だ。

固定種や在来種といえども、ヒトによって改良された優良品種には必ず失われた特質がある。生命には必ず凸凹でありバラバラであるが。すべてにおいて万能で特化しいてることはない
自律したシステムをデザインするには「バラバラ」と仲良くして、十分に活かすことが得策だ。

野生の食べ物はどんどん珍しくなり、価値が上がった。収穫に手間がかかる上、調理にも工夫がいくつも必要なため、高い値段がつく。天然物は輸送に耐えられるものが少ないので、地方の自然豊かな場所でしか味わえない貴重な価値をもたらす。工業的農業が生み出す毒性に対する不安感がある都会人に特にニーズがある。これはジビエ人気にも通じる。

表面的な人気もあるが、野生の食べ物に対する高い関心は、野生と辺境のシステムに対する根深い過小評価と尊敬の欠如を解消する手段となりうるかもしれない。

野菜の在来種のように家畜など、現在の希少在来種は、その限られた気候や土地に適応させるために多くの世代を経て、慎重に育成と選抜が行われてきた品種だ。これらの特徴が工業的畜産には適合しないが、田舎暮らしにもパーマカルチャーデザインシステムに適合することは多い。

与えられた仕事をこなす能力のほか、繁殖力、成長の早さ、耐病性、丈夫さなどの基準や形態で選ばれ育成されてきたから、田舎暮らしに最適化していた。

残念なことに、そういった品種を時代遅れとレッテルが貼られ、工業的畜産のために過保護に育てられ貧弱になった家畜が援助プロジェクトの名目で第三世界に輸出されている。

農業であれ、畜産業であれ、過剰な育種に端を発する堕落はヴァンダナ・シヴァが辛辣に表現したように「精神のモノカルチャー化」した結果である。生産性や機能性、優秀性の尺度が狭まり、全体の状況や副作用にまで配慮が行き渡っていない。

種の多様性において「遺伝子の多様性」が重要視されるが、その多様性を生み出すのは一人一人の実践家であり、生き物たちである。ヒトが過剰に手を入れてしまえば、遺伝子の多様性は制限され、最悪の場合失われる。タネは自然から隔離された冷凍庫やケースの中で保存・保管するものではなく、成長と成熟、そして交雑のリズムの中で、地球の循環の中で変わり維持し続けるものだ。

固定種、在来種、外来種の交雑による種の多様性はもちろん、栽培種、半野生種、野生種の交雑による種の多様性どちらも念頭に置いた交流を計画することで、ヒトが切り分けてしまった種が融合の世界に取り戻されていく。


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