広葉樹林文化と立体農業
<広葉樹林文化と立体農業>
日本に世界中から訪れる観光客は夏の生い茂る緑に感激するが、秋の紅葉の美しさにも魅了される。実は地球上で落葉樹林というのは北半球の冷温帯にだけしかない。南半球には例外的にアンデス山地の一部を除いては存在せず、落葉樹林帯は日本、東アジアの北部、西ヨーロッパ、北アメリカなどにしかない。ヒマラヤ山地では落葉樹の種類はたくさんあるが、それらがまとまって落葉樹林帯というほどのところはほとんどない。そう、世界的に見ると北半球の局部にある特殊な生態系なのだ。
世界の森林を見比べると、ほとんどの気候において優勢なのは常緑樹だが、北半球の温帯においては落葉樹が優勢であることがわかる。落葉樹は夏と冬の気温差が大きな気候パターンに適している。一方、南半球の温帯には落葉樹が少ない。温帯といっても北半球と南半球では微妙だが根本的な違いがあることを理解しないと樹木作物システムや果樹園システムのデザインはうまくいかない。南半球は北半球に比べて海が支配的な水半球であり、夏と冬の気温の差は北半球ほど極端にはならない。一般に常緑樹は不規則な条件をうまく利用できるので、こうした条件にも適応する。
こういった落葉樹林帯ではドングリやブナの堅果の実などが豊富にあり、炭水化物もたんお悪質も豊富で穀樹とも呼ばれ、リスや七面鳥の餌になる。また液果類の多くも落葉樹であるため哺乳類や鳥類を多く養うことができる。
土壌の肥沃度が低下するにつれて針葉樹林に置き換わっていく。針葉樹林はバイオマスこそ豊富だが、養分に乏しく、大きな実が少なく、養える動物も少ない。
落葉樹の特徴はやはり冬になれば葉を落とすということだろう。もともとは乾季に葉を落として、凌ぐ生活だった樹木が、冬の間に葉を落とすことで適応したのが日本でよく見る落葉広葉樹たち。
落葉樹は葉を落とすことで冬の寒さを凌ぐことができるが落ち葉が昆虫たちの餌にも住処の暖房にも役に立つ。落葉樹たちは葉を落とす時に葉緑素つまりチッソ分を回収するおかげで、葉は炭素分とミネラル分だけになる。そのため簡単に分解できる生物も少ない。そのおかげで樹木は根元に他の植物が生えてくることを抑えるマルチの役割もあり、さらに蓄熱効果も期待できる。落葉樹は落ち葉の布団で根を守ることでさらに寒さに適応できたのだろう。
日本原産の野菜と呼ばれるフキ、ミツバ、ミョウガは春先のまだ新芽や花が広がる前に芽を出して光合成をし、夏には木陰で成長し、秋になれば落ち葉の布団の中に潜り込む。この三つの野菜は日本では山菜の扱いに近いのは、他の野菜が原産地では山菜・野草扱いのと同様である。
日本の山菜もまた落葉樹との相性が良い。落葉樹のすぐそばで暮らすものが多い。これもまたフキたちと同様の1年を過ごす。落葉樹が1年のサイクルの中で日向と日陰を作り出すギャップを利用し、落とし物を宝物として利用するこれら野草類が、雑草の起源種であり、野菜の起源種でもある。むしろ、これらの山菜は雑草化できなかったものであり、野菜化しなかったものであるとも言える。
日本でこれほどの落葉樹と山菜が繁栄しているのもまた急な傾斜地と雨が多いためだ。この二つの条件は土砂崩れや洪水などの自然攪乱が起きやすい。自然攪乱の後には自然遷移の流れに沿ってまずはパイオニアプランツが現れ、繁栄する。パイオニアツリーはほぼ間違いなく落葉樹であり、根元には山菜がよく顔を出すのは山で暮らす人々なら誰でも知っていることだろう。そういった自然攪乱の場にはバラ科の植物が多く育つが、栽培される果樹にバラ科が多いのも頷ける。
台風などのあとに自然攪乱が起き、倒木や小さな土砂崩れが起きると山に生きる百姓たちは木材を求め、食を求めて定期的に足を運ぶ。時間が経つにつれて手に入る食材は豊富だ。自然攪乱によって生まれたギャップには山菜を始め、虫たちも多く集まる。朽ちてきた樹木からはキノコ類が繁殖し、ほそぼそとしていた樹木は一気に背を伸ばし、多様性が一気に増す。
日本の地方の山では針葉樹の人工林も多いが、二次林も多い。紅葉の名所でもないのに秋になれば青空に映える彩った山がそびえ立つ。二次林とはヒトの開発のあとに自然と生えてくる森林のことで、天然林とも言われるようにヒトの意図がそこには入らない。つまり自然攪乱の後の自然遷移の流れに沿って生まれる森林の生態系と同じである。ヒトの開発もまた自然の摂理のなかに含まれているもので、その強弱がその後の生態系を決めるが、時間が経てば必ず極相林へと姿を変えていく。
今の日本の都市や集落の近くには日本の樹木であるサクラがこれほどまでに咲き誇っているのもまた理由がある。サクラは自然界では自然攪乱の後に最初に生えてくるパイオニアツリーの一つである。治水が積極的に行われた江戸時代に多くの樹種が河川敷に植えられたのはサクラの根が大地をしっかりと抱きしめて、崩れるのを防いでくれるからであり、自然攪乱の後の不安定な大地で生きるために備わっている才能である。そして何よりも太平洋戦争で焼け野原になってしまった都市部は自然攪乱後の裸地の条件と似ていたからだ。
「桃栗三年柿八年」ということわざはこれらの落葉樹が芽を出してから実をつけるまで期間を意味し、何事も実るまでにそれ相当の時間がかかることを諭している。
このことわざは有名だが実は続きがある。「桃栗三年柿八年、梅は酸い酸い十三年、梨はゆるゆる十五年、柚子の大馬鹿十八年、蜜柑のまぬけは二十年、林檎にこにこ二十五年、銀杏のきちがい三十年」と地域差はあるものの、さまざまな果樹と年数が出てくる。
一般的には常緑樹の方が実なりまで時間がかかり、寒い地域ほど時間がかかる。そのため寒い気候を好むリンゴやイチョウは時間がかかり、暖かい気候で栽培されるミカンも時間がかかる。日本の果樹農家が実なりを早めるために接ぎ木や挿し木苗を採用し、肥料分を積極的に施肥するにはこういった理由がある。現代の果樹ではこれほど時間がかからないのは農業技術の向上のおかげでもある。
落葉樹林がこれほどまで日本で栄えたのにはもう一つ重要な側面がある。それは約1万年前ごろから縄文時代の温暖期が終わりを迎えたことだ。世界的に火山噴火が多発したこのころに地球寒冷化していき、縄文時代には関東平野の多くが浅瀬の海だったが、次第に海岸線は後退していった。それに伴って照葉樹林も次第に海近くまで後退していき、山間部には寒さに強い落葉樹が多くなっていった。
青森県の三内丸山遺跡からは多くの堅果(クリ、クルミ、トチ)の殻が出土するのは寒冷化の証拠でもあり、一年草のエゴマやゴボウ、マメ類が栽培されていたことも確認されている。一般的に地球温暖期には森林が発達し狩猟採集が広くおこなれ、寒冷期には森林が後退し草原が増え、農耕が広く行われると言われるように、縄文時代の遺跡は前期には狩猟採集がメインの文化で、次第に寒冷化していくにつれて農耕の色が濃い文化に変わっていく。
ブナ林帯では野生動物の餌となる木の実や草が多く、また水中にはプランクトンが豊かで、海陸共に水産資源が豊富。落葉樹の落ち葉が土を肥やし、焼畑や耕作にも適していた。それに加えて、サケ・マスなどの漁業、カモシカ・イノシシなどの狩猟、クリ・クルミなどの採取と結びついた複合文化は照葉樹林文化よりも生産力が高かった。
最終氷期に熱い氷河に覆われていたヨーロッパでも堅果をもたらしてくれるオーク類が極相林として栄え、それに支えられた先住民族がいた。しかし砂漠地帯から北上してきた農耕民族たちはその豊かなオーク林をアルコール飲料の樽とパン釜の薪に変えてしまった。肥沃な土がなく、雨が少なかったヨーロッパでは放っておいても簡単には森林にはならなかったために、自然保護の精神が広がる現代までオーク林はなかなか戻ってこなかった。
温帯地域にも関わらず暖流に囲まれた日本列島は大陸のように寒冷期の間に厳しい乾燥と寒さに晒されることなく、世界でも珍しい落葉樹中心の生態系を作り出してきた。落葉樹は斜面を得意とするばかりではなく、草類との棲み分けもでき、一年中何かしらの実がなる。実なりも照葉樹に比べると早いのは農耕文化において非常にありがたいものだ。三内丸山遺跡でクリの木が植樹されていた跡が発見されているということは、縄文人はすでにそのことに気がついていたのだろう。
日本のように傾斜地の多い地域では落葉樹を中心とした食糧生産のデザインは有効だろう。賀川豊彦はそれに気がついて早くから「立体農業」を推奨している。傾斜地は段々畑や棚田などにして利用してきたが、平面を作ることは田畑の作物のためであって、樹木のためではなかった。そのため樹木は伐採されるのが常だった。しかし百姓たちは家族のために果樹を家の周りに畑の端に植えていたし、防災のために決して山全体を全て田畑に変えることはなかった。
樹木の多機能性をうまく利用することができれば、ヒトの暮らしはより多彩となり、生きやすくなるだろう。現在の先進国では森林は都市に囲まれて一部だけ残っているが、いずれヒトが森林に囲まれて暮らす時代が戻ってくるかもしれない。森林が多くの生物を養うように、ヒトもまた森林に養われる存在に戻るかもしれない。先進国の都市の多くが冷温帯に属していること考えれば、落葉樹はその中心的な役割を担うだろう。