在来種と外来種、そして土着化
<在来種と外来種、そして土着化>
「外来」の言葉の対義語を一発で答えられる人はほとんどいない。特に外来種を忌み嫌う人は。そういう人の答えはいつも「在来」である。漢字をよく見てみれば、そこに違和感を感じるだろう。「外来」は「外から来る」で、在来は「在るし来るし」で意味が不明だ。外来の対義語として正しいのは「在地」である。「その地に在る」だ。
しかし、生物学には外来種と在来種という言葉はあるが「在地種」という言葉は出てこない。ここに言葉のややこしさと科学の限界がある。
生物学上の外来種の定義は「もともとある地域にいなかったにも関わらず、人為的に他の地域から持ち込まれた生物」となる。ここでもまたヒトは特別な存在のようだ。
この定義には少し違和感がある。日本のように海に囲まれていて鎖国をしていたならまだしも、世界のほとんどの国は陸でつながっているし、国境線は時代によって簡単に書き換わる。地図上にはあるが地球上にはないのが国境であり、他の生物からしたら全く関係ない。いったいどこからが内でどこからが外なのだろうか?国境線同様、時代区分もまたヒトにしか通用しない概念である。
私たちが愛する在来種だってもともとどこか遠くから何者かによって運ばれてきたものであることが多く、生物の進化史が海から始まり、5億年前に陸上に進出したように、生物は移動し続ける。いったいいつからそこに居たのかは誰にも分からない。そのため、在地種というのは決めることができない。そこで生物学では外来種と在来種の二つの概念で研究を進めている。
もともと陸上に生物がいなかったように、すべての陸上生物は外来種の歴史がある。そこに定着した種は在来種であり、定着できない種はいつまで経っても外来種扱いがされる。しかし現代人は明確に区別をして、明確に差別をしたがる。いったんレッテルを貼ってしまえば、定着しているにも関わらず、外来種として駆除される。イジメはそう簡単になくならないのは子供の世界でも大人の世界でも同じようだ。
講座で外来種の定義について質問すると「明治以降にヒトによって持ち込まれたもの」という答えがよく返ってくる。これは明確な間違いである。「明治以降」と定義づけているのは「特定外来生物」の話であって、生物学上の外来種ではない。そもそも「明治」という時代区分を持っているのは日本人だけであり、世界では全く通用しない。
世界中で特定外来生物による在来種の存在が脅かされているが、その国や地域によっって特定外来生物を定義づける時代区分はそれぞれである。日本では明治以降と定義づけしているのは現在の日本政府と専門家であり、今後変わる可能性は十分にありうる。しかしそれでも特定外来生物だとか外来種だとか区別し、差別しているのはヒトだけである。しかも先進国の現代人だけである。見た目や出身地で差別し、イジメるのもまた現代人だけである。
ほかの生物たちはその境目など気にすることなく、時空間を行き来する。台風は熱帯地域から虫や鳥を運んでくるし、微生物やウィルスは黄砂に乗って2週間ほどで世界一周を果たす。
現在の地球では大陸はくっついているものと海で隔てられているものがあるが、恐竜がいた時代は赤道付近にすべての大陸が合わさった超大陸パンゲアが形成されていて、2億年前に分裂し、2億年かけて現在の位置まで移動した。そして約2~3億年後にはまたすべて一つの大陸に合わさる。トマト、ナス、ジャガイモ、ピーマンなどのナス科植物を始め、同じ科でありながらその形態が地域によってさまざまなのは、この大陸の移動の旅の合間に気候に合わせて、植物は多様な姿へと進化したからだ。
現代では動植物はヒトとともに飛行機に乗り、時速数百kmで移動する。ヒトは生物が大陸間を旅する頻度を格段に増加させ、結果として在来種と外来種が衝突する例はますます増えている。地理的に隔離されているはずの生物種がこれほど急速にかき混ぜられる時代は、この地球歴史上これがはじめてだ。
新たな生息環境にほとんど害をなさない外来種も多いが、一部は大混乱を巻き起こす。近代以降の鳥類、哺乳類、爬虫類の絶滅の約60%は侵略的外来種が原因であり、今も数百種が危機にさらされている。
外来種の駆除には多くの最先端科学とエネルギーが投入されている。外来種駆除のために虫や獣、微生物まで遺伝子に放射線を当てて不妊化したり、遺伝子をいじって変化させている。その遺伝子組み換え種や不妊生物のその後の環境への長期的な影響はもちろん誰にも分からない。駆除に成功した例もあるが失敗した例もある。徹底的な除草剤や火器の使用も同様だ。
少し前まで全国の里山ではセイタカアワダチソウの駆除が徹底的に行われたが、その結果分かったことは駆除が現実不可能なばかりか、駆除していなかった地域のセイタカアワダチソウは自身のアレロパシーによって姿を減らし、ススキの群落が姿を現したことだった。むしろ、除草剤や火器の使用では在来種の種子も根も生き残れず不毛な大地となるだけだった。
ヒトは意図せずに無数の種を絶滅させてきたというのに、ようやく意図的に絶滅を引き起こそうと決めたら、思った以上に難しいというのは、なんとも皮肉なことだ。
強力な外来種といえども、そこで暮らしていくためには気候に適応し、エサなどの資源を獲得し、特異な環境に適応しなくてはならない。これを「三つの適応」という。つまり、生まれた場所とは全く違う風土・気候・生物に適応しなくてはいけない。日本史上最強の外来種「イネ」もまた日本の風土に、気候に適応し、ヒトに気に入られたからこそ、駆除されることなく逆に日本食にはなくてはならない「ソウルフード」となったのだ。あの家の中でひっそりと暮らす最強生物と言われるゴキブリでさえ、山の中では暮らせない。逆に山の中にいるゴキブリは家の中では生きていけない。
都会の中にしか住まない生物もいれば、都会の中には入ってこれない生物もいる。都会もまた地球の微気候の一つとなり、多様性を生み出したようだ。ここで大事なのはヒトそのものの存在ではなく、ヒトの活動が生み出した状況が生物たちの生きる条件を作り出したことだ。そこにヒトの倫理は関係ない。
明治以前の江戸時代の植生に戻そうとしても、数百年前と環境は大きく変わっている。アスファルトやコンクリートはもちろんのこと、建物から外に出る水やゴミも違うし、都会も里山にも住む動物や家畜が違う。さらに肥料や農薬の質も量も全然違う。車や工場から出る空気も水も、捨てられる物質も違う。
現在の環境に適応した動植物を取り除き、江戸時代の動植物を維持しようとすればそこにどれだけの資源とエネルギーが必要なのか、誰も調査しないのも不思議だ。動植物を環境や気候と切り離して考えると、外来種の駆除が可能だと安易に考えてしまいやすい。
そして、数百年も経ってしまえば外来種の遺伝子は間違いなく現在の環境に適応し、その種と共生関係を結んでいる在来種もいるだろう。安易に明治時代に境界線を引き、その前後で種を区別するのは分かりやすいが、生物多様性のためにはならないだろう。
ユネスコ『バイオスフィアの利用と保全』では「自然の植生、野生の植生、改善された植生、半自然の植生、開発された植生、栽培目的の植生、純粋に人為的な植生と分けている。これらの間に本質的な違いは何もない。生態系はどれをとっても同じ原理に貫かれている」とあるようにそれぞれの植生の前に着く言葉で自然界を分類し、判断し、レッテルを貼って差別いるのはこの地球上でヒトしかいない。
アボリジニの文化では群れ全体や種を絶滅させようとすることは、どんな理由であろうと非倫理的であり、彼らが信じる神様の教えとは反するとみなされる。アボリジニは外来種の動植物を喜んで利用する一方、たくさんの外来生物を殺すことで固有種を守ろうとする環境運動を道徳に反する無駄とみなし、ましてや生命を奪いながらそれを利用しないいのは最大の不敬であると考える。
在来種と外来種が共存するところでは、その植生を破壊せず、管理することならできるはずだ。こうした植生ができるのは在来種も外来種もその土地の環境・風土に適応し、お互いに適応した結果である。
私たちは足元にいる雑草を在来種だとか外来種だとか判断するが、実際のところは雑種がほとんどだ。北海道大学の研究によると、自生している日本タンポポと西洋タンポポの遺伝子を調べてみると、その80%が雑種だったという報告がある。どうやら生物は全て見た目で判断してはならないようだ。ヒトは交雑することを嫌うが、自然界では雑種がごく当たり前のことなのだ。雑種こそ、生物の生き残り戦略の一つである。雑種だからこそ、何億年もの間の気候変動に対応し、生き残ってきたのだ。
この数十年で多くの種を絶滅させてきたはずのヒトだが、皮肉にも生物学的には種数は増え続けている。なぜならば、見た目では同じ種だと思われていた生物が遺伝子レベルでは別種だったと発見される例があとを絶たないからだ。見た目の形質が同じでも遺伝子レベルでは違うのが最近の遺伝子工学の常識となりつつある。種を定義しているのは結局ヒトだけである。ヒトの価値観や世界観がどうしても入り込んで、自然界とはぴったり合わない。
エコシンセシスとはこれまでにない条件に在来種・外来種が適応し、新たな生態系を作り出し、共進化する過程を指す言葉である。人類の拡大がもたらす環境負荷を緩和し、修復するだけでなく、帰化する外来種はこれまでにない資源もたらす。保全生物学によれば、外来植物が広がる大きな要因は相利共生(協力関係)である。だが、一般的には生態系の進化との関連ではほとんど理解されていないのは残念だ。
現代人は時代区分を元に外来種とレッテルを貼り、駆除したがる。微生物学の発展により、植物の90%以上は土壌内の菌根菌や細菌との共生関係によって成長していることがわかってきた。ということは、たとえ外来種といえども土壌内にいる微生物と共生関係を結べなければ生きていけない。植物は先に挙げた三つの適応の3番目に土着微生物が含まれる。
つまり、ヒトに気に入ってもらう前に土着微生物に気に入ってもらう必要がある。逆にいえば、土着(帰化)種になれるかどうかは微生物次第である。在来化、帰化とはいわば土着化であり、土壌にこそ主導権があるのだ。それを忘れてしまって、ヒトの価値観で接してしまえば、そこには無意味な資源とエネルギーが掛かり続けてしまう。そのおかげで除草剤の売り上げは年々増えるのだが。
結局ヒトが変われば「無価値で有害で駆除すべき存在」は「価値ある利用可能な存在」として研究と活用されることになるだろう。他人を変えるのは難しいが、自分を変えるのは簡単で有益なことが多い。いつだって「自然と向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ということである。