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現象と出来事 ごっこ
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<現象と出来事 ごっこ>
秋のよく晴れたある日、朝一温泉に入り、近くのコンビニへと立ち寄った。ここでアイスコーヒーを買って、高速道路に乗って講座会場へと向かう。それは私にとってよくあるありふれた1日の始まりだった。そこで私は魂が強く震える体験をするとは思ってもいなかった。
いつも立ち寄るコンビニに入って、いつも通り店の奥の棚から、いつも選ぶアイスコーヒーを手にとって、レジへと向かった。そこにはおそらく70代と思われるおばちゃんがレジを担当していた。
おばちゃんは慣れた手つきで商品をスキャンし、値段を伝えてくれた。私はいつも通り財布から小銭を出して、おばちゃんが伝えるよりも先にトレーに置いていた。決して急いでいるわけではないのだが、習慣からついついおばちゃんのスピードよりも速く進めていた。
おばちゃんは釣られて急ぐわけでもなくトレーのお金を受け取り、レジにお金を入れる。ここまではいつものコンビニで起きている現象だった。いや、どのコンビニでも24時間365日起きている単なる現象だった。しかし、おばちゃんの一言で世界がガラリと変わったのだ。
おばちゃんは言う。「お仕事ですか?」私は驚いて、一瞬動きが止まってしまった。行きつけのカフェならともかく、月に一度しか訪れないコンビニで、しかもお互いの顔を覚えているような中でもない。にも限らず、声をかけられることに驚いてしまった。
私は少し間を置いてから「はい。そうです。」と答えるとおばちゃんはお釣りを手渡しすると同時に「暑いけど頑張ってね」と私の目を見て元気よく伝えてくれた。私は「おばちゃんも頑張ってくださいね」と応えると、おばちゃんは「ありがとう」と皺くちゃの満面の笑みを浮かべた。
私はその笑顔を見て、魂が強く震えた。おばちゃんの皺くちゃの笑みにカミを感じ、そして自分のタマ(魂)の存在を実感した。おばちゃんは私の魂を強く震わせた。
私たちが普段の暮らしの中で体験していることのほとんどが単なる現象である。その現象は実際に起きているがそのほぼすべてが記憶に残らない。しかし、その現象が強く心に残る出来事となる瞬間がある。するとその出来事は記憶に残り、何度でも思い返すことができる。
アニミズムの世界観では単なる現象の中でカミを感じるとき、魂が震えるとき、それは出来事となると考える。つまりコトダマが宿る現象は出来事となる。
宗教史ではアニミズムは次第にシャーマニズムに取って代わる。シャーマニズムとはアニミズムが感じるカミを自在に操ることで、誰かにパワーや癒しを与えることも呪いをかけることもできるという宗教観である。その際に私たち誰もが持っているタマ(魂、霊)が動いたり、揺られたり、震えたりする。
カミとの出逢いや交流はこのタマを通じて行われる。
江戸時代の俳諧師宝井其角が「夕立や田をめぐりの神ならば」と歌うと、実際に雨が降ったと言う。俳句は決して一文芸にとどまらず、その言霊と音霊を通じてカミ(神)との交流の手段でもあった。民族の中に生きているカミ(神)に訴える祈祷としての役割を持っていた。日本文学において芸術は常に神事でもあったのだ。そのため伝統芸能の世界では今でも演者に神が舞い降りて宿ることがある。
「コト」とはもともと祭りを意味する。家事(いえごと)、季節行事(きせつごと)、仕事などはカミとつながる時間や風習だった。常にカミの存在を感じつつ、カミの声を聴き、カミを喜ばせることが「コト」だった。
子供達がよく遊ぶ「ごっこ」の語源の由来の一つに「事っこ」が省略されたというものがある。つまり大人がやっているコトの小さいバージョンとか子供向けという意味合いである。
子供の遊びに本気で参加しないと子供に大真面目に怒られる。「真面目にやって!」と。子育てをしたことがある大人なら誰もが経験したことがあるだろう。ごっこ遊びに魂を込めないと怒られるのはそれがもともと神事であるからだ。そのため子供のごっこ遊びに本気にならない大人は子供からそっぽを向かれるし、話も聞いてくれなくなる。
江戸時代の風習や祭りについて調べてみると、想像以上にたくさん子供だけが参加できる季節行事やお祭りの一場面がある。それは子供だからこそ交流ができるカミが存在するからだろう。子供と一緒に行う野良仕事や家事もたくさんある。
松任谷由美の名曲「やさしさに包まれたなら」の歌詞が誰の心、いや魂を揺さぶるのは決して偶然ではない。誰もが子供の頃にカミの存在を感じたことがあったからだろう。私たちは誰しもが幼いときにカミと交流していたはずだ。
江戸時代では村の神事を村人や百姓たち、子供たちが務めることが多かった。そのためカミは身近な存在であり、いつも私たちを見守っていたし、魂が震える経験を大人になってからもしていたようだ。
現代になって神事は一般人から隔離されてしまった。そのためカミの存在を感じるような体験は神秘的な体験や超常現象と呼ばれ、誰もが簡単には経験できなくなってしまったと思われているが実際のところ違う。
私がコンビニのレジで経験したように、実はいつどんなときも経験することができるのだ。そのためにはごっこ遊びを大真面目にやるように、いつもの習慣に魂を込めるのである。
魂を込めるという行為もまた現代人には馴染みがなくなってしまったことだろう。想いを乗せるとか気持ちを込めるとか、そういった表現でも構わない。自動販売機との冷たいやりとりではなく、血の通った暖かいやりとりといった具合だ。私たちの心がほっとするような、じんわり暖かくなるような体験である。
心情を持つ人間には人間特有の生命現象として知恵「生知」があるという。それは精神の所産である知識とは異なる。頭ばかり働かせて田畑や里山はもちろんのこと、都市部で暮らしていては決して体験することができない。いつも心を開き、人間らしく現象を体験するとき、不思議と魂が宿る。
魂は私たちの身体の奥底にあるものだから、心を開く必要がある。私があのおばちゃんに心を開かなければ、決しておばちゃんの笑顔は私の魂をふるわすことができなかった。つまり、私たちに今必要なことは心を開くことである。
カミは今もあなたの周りに存在し、魂を通じて交流をしようとしている。しかし私たちは頭ばかり働かせてしまい、心を開くことを忘れてしまった。
古神道やアニミズム、シャーマニズムの世界観を取り入れた映画や漫画が日本だけではなく世界中で評価され、人気がある。そのなかでカミと出会い、交流するシーンには不思議とセリフは少ない。特別な呪文や特別な準備を必要としていない。角を曲がった先で、突然雨が降り出して、いつもの交差点で、いつもとは違う寄り道をしたところで、起きる。
超越的な存在である神やアニミズムのカミ、真の自然との出会いに本来言葉は要らない。形はどうであれ、さまざなな真の対話によって私たちはひとつの共同世界(コイノス・コスモス)を作り、美しい物語を生きる。
私たちは現象の積み重ねの上に立っているわけではない。出来事を積み重ねた存在なのだ。だから、どれだけ魂が震える出来事を体験するかは私を形作る。
多くのサラリーマンが「20代はあっという間に過ぎる」と嘆くが、それは生まれてから就職するまで魂が震えるような出来事ばかり体験してきたのに、社会に出るとsぐうに資本主義の歯車として単なる現象の一部として過ごしているせいだ。
私は田畑で、原生林でカミを感じるとき、「あぁ、地球は美しい」と言葉を漏らす。そしてそのたびに自然との一体感を強く感じる。私の魂と地球が共振しているような感覚だ。そう、私にとって地球とはカミそのものである。あなたの暮らしに出来事は起きているだろうか?
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