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自然界には嘘がない。だから、嘘がつけない。


<観察の極意と感性>自然界には嘘がない。だから、嘘がつけない。

言葉とは、人間だけが使うコミュニケーションである。
鳥の鳴き声や狼の遠吠え、クジラのソングなど
他の動物にもコミュニケーションが存在していることは紛れもない事実だ。
植物も自身が持つ香りや微生物の協力によってコミュニケーションをしている。

しかし、言葉を使っているのは人間だけだ。
その違いは他の生物のコミュニケーションは嘘がないこと、人間の言葉は嘘であることだ。

言葉はどんな細かく精巧に思える表現を編み出したとしても、必ず嘘になる。
そのことを言語学では「言葉の多義性」と言い、心理学では「ディスコミュニケーション問題」と言う。
私たちは各々のバッググラウンドや思想、経験によって、言葉の意味や連想するイメージは必ず違う。
私たちは言葉を交わし、分かっているふりをしてコミュニケーションを続ける。
だから必ず誤解や勘違いが生まれている。
普段の生活ではただそれに気がついていないだけだ。

どんなに科学が発展したとしても言葉だけは主観性から離れることができない。
言葉による評価、判断、レッテル貼り、決めつけなどは
それがたとえ良いものであっても悪いものであっても、すべて嘘である。
だから、どうであっても気にする必要はない。むしろ気にしない方が良い。
自分以外の主観ほど役に立たないものはない。

山の中を旅していると、つくづく自然界には嘘がないことがわかる。
どんなに頑張ったとしても1mmもまけてはくれないし、
山頂の方から手を差し伸べてくれることもない。
山頂にたどり着いても誰も賞賛しないし、絶景も必ず見せてくれるわけではない。

人間が作り出された地図もよく嘘をつく。
倒木によって道が塞がれていることもあるし、がけ崩れで大きく迂回する羽目になることもある。
水があるフリをして、枯れていることもよくあることだ。

人間は「今、ここ」にはないことを語ることができる。
特に過去と未来のことを。
他の生物にはそんなことができない。

そのおかげで人間は社会を作り出すことに成功した。
一説によると人間が森林を追い出され、サバンナに出たとき言葉を発明したと言われている。

人間は過去に大型肉食動物によって襲われた経験をもとに対策を練り、仲間に伝え合い身を守る術を身につけた。
そうやって、「今、ここ」にはない過去の経験から安心・安全な集団を作るために言葉を使ったのだ。

言葉は蓄積されていく。
私たちは偉人が残した本を読み、先人の知恵を短期間で学ぶことができるのはこの言葉のおかげだ。
私たちが住んでいるこの現代科学の結晶とも言える社会は言葉の蓄積によって育まれたのだ。

そして、その言葉のコミュニケーションは発展し、逆に自分より大きな動物を瞬断によって狩猟することを可能にした。
狼のように集団で狩りをする動物は珍しくない。
しかし、自身より何倍も大きな動物を道具を使って、狩りをするのは人間だけだ。

言葉は未来を作る。
言葉は「今、ここ」ではない未来をイメージすることができる。
言葉は想像力を掻き立て、人々の勇気や希望を生み出すことができる。

私たちが住んでいるこの社会はまさにその言葉によるイメージが少しずつ実現された場所だ。
狩猟採集に使った道具や身近な家電製品などの便利な道具は想像力の賜物だ。
私たちは言葉が作り出すイメージの嘘によって努力をすることができる。

自分の理想を言葉や記号ときにはイラストなどで具体的に表現することができると、
嘘を嫌う本能がそれを現実のものにしようとして動き出す。
これが言霊や引き寄せの法則、アファメーションなどの仕組みである。
そのとき、嘘を言う理性ではなく、本能の声を聞き続けることができるかどうかがポイントだ。

この人間社会は嘘が作った。そう言っても過言ではない。
だからきっと、人間社会では嘘が必要になる。
それは建前だとか、空気を読むだとか、社会通念だとか、社交辞令だとか、そんなものだ。

自然農の畑に育つ植物にはそんな嘘は通用しない。
彼らは人間社会の基準からすれば、超ワガママで超素直だ。
私たちの努力や人間性など関係なく、土ができていなければ虫がつき、病気になり、実をつけない。
肥料や農薬を使ってごまかすこともできる。
しかし、やはり超ワガママで超素直なので、使えば使うほどどんどん土が悪くなり、
使用量が増えて人間の心身が廃れてしまうか、土が使えなくなるか、どちらかだ。

山では嘘をつくことが命取りになる。
自分の身体に嘘をつけば、どこかで歩けなくなる。
自分の身体が教えてくれる違和感に嘘をつけば、遭難や事故に遭ってしまう。
見栄や根拠のない自信・盲信、人間の都合が自身の首を絞める。

自然界には嘘がない。だから、嘘をつけない。
嘘をつけばしっぺ返しを食らうことになる。
山では最大限のリスペクトと徹底的な謙虚さが必要なのだ。

人間社会ではそれが必要ない。
嘘をついても簡単に死ねないようにできている。
むしろ、そのために作られたようなところもある。
だから人間は身体的に、もしくは精神的に疲弊しきるまで頑張ってしまう。
山の中でそんなことをしてしまえば、もうどうなるのか説明する必要はないだろう。

原生林で過ごすとき、無言になるばかりか言葉による思考も止める。
自然が24時間365日出し続ける「今、ここ」のメッセージを五感を使って受け続ける。

畑での観察も同じようにして過ごす。
過去に縛られることなく、未来に囚われることなく、「今、ここ」に繋がるとき
自然との調和への扉が開く。
私たちの身体の中にある本能が、野生が輝き始める。

最後に何度でも同じことを言おう。

だから月一の講座よりも、毎日の観察が大切なのだ。
嘘のない畑にいるとき、人は癒されるばかりではなく、自分に素直になれるから。

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