少しずつ、少しずつ、少しずつ
<少しずつ、少しずつ、少しずつ>
そろそろ、ここ島根にもたっぷり雪が降る。
初めて雪国にちゃんと住んだのは長野県の職業訓練校に通っていたころ。そのとき紅葉が終わってから初雪が降るまでの間のちょっとした緊張感のような時間が小さな町の中に流れていることに気がついた。
降ることは分かっている。それまでにやることがある。いつ雪が降るのかという話題はこの時期の町に住む人々の挨拶だった。そうして、そわそわしながら毎日を過ごす町の人々。その初雪が降る直前まで農家は走り回る。この季節は僧侶ではなく農家が走る。
そして、降ってしまえば何だか諦めのような覚悟のような気持ちがじんわりと湧いてくる。そこに少しばかりの安心感も感じ取れた。
季節の合間はいつも少しずつ変わっていく。空の色も、風の味も、大地の顔も。そのなかでもやっぱりこの秋から冬が一番好きだ。特に畑を始めてから、さらに好きになった。
生命の終わりと始まりが交差するこの季節は様々な体験が少しずつ積み重なっていく。今年の反省と来年の展望が交差するこの季節は様々な思いが少しずつ混ざり合っていく。
この季節の野良仕事は落ち葉集めがメインだ。山の中の道路の端に降り積もった落ち葉をかき集め、畑へと持ち帰る。一部はマルチにして、一部は堆肥にして、一部は焼き芋を作る。もちろん来年の3月に作る踏み込み温床の準備でもある。
少しずつ野菜の隙間に落ち葉の布団を敷いていく。一度にざっと敷いてしまうのでなくて、それぞれの成長に合わせて敷いていく。
落ち葉の布団の役割はたくさんある。他のマルチと同様に雑草防除、泥はね防止、地温アップと維持、乾燥防止・保湿効果。落ち葉だからこそのメリットは、土着菌と土壌昆虫たちのエサ、そして、彼らの住処の提供だ。大地の中ではモグラが落ち葉を集めて布団をこしらえている。
自然農は野菜を育てているわけではない。畑という、里山という生態系を育てているのだ。この冬の間、土着菌や昆虫たちは落ち葉の下でゆっくり過ごす。最低限の暮らしをしながら、少しずつ落ち葉を食べて、栄養分を大地に落とす。
その積み重ねが来年の夏野菜を育てる。慣行栽培のように肥料をあげることはないが、畑に住む生物たちへのエサはあげ続ける必要がある。
私たちが畑から野菜を収穫するということは、畑からすれば消費であり、収奪でもある。だからこそ、お礼肥として有機物でマルチを敷いていくのだ。もともと日本では、施肥といえば収穫後にするお礼肥だった。
畑とは土の塊ではない。畑とは土であり、空気であり、水である。畑とは土着菌であり、土壌昆虫であり、徘徊する昆虫たちである。そして、それあっての野菜であり、雑草である。
自然農法家は彼らと生物多様性の調和を紡いでいく。まるで、オーケストラの指揮者のように小さな動きで。
雪が降れば本格的な冬となる。夏に比べたら静かな時間が続いていく。小さな生命が静かに暮らしているように、農家は冬の間にも静かに春の準備を進めていく。
少しずつ少しずつ少しずつ。彼らのスピードに合わせて。自然と調和した暮らしはその季節のリズムに合わせて、少しずつ少しずつ少しずつ降り積もっていく。