野良仕事と里山生態系
<野良仕事と里山生態系>
野良仕事とは「野を良くするために、事に仕(つか)える」という意味だが、「コト」とは価値ある体験や経験のことを意味し、古来日本ではコトにこそ魂が宿ると考えられていた。つまり「コトダマ」である。
現代の日本人の感覚では仕事という言葉にはあまり良いイメージがない。やらされている感や退屈感が身にまとっているようにも思える。しかし、日本のアニミズム文化の点から推測するに、仕事とは自分自身や目の前の草木獣類に宿る魂(タマ)に奉仕することであり、魂を喜ばせることだろう。神事、仏事、家事、行事、工事、用事、食事なども同様に魂との関連が深い。
「野良」は8世紀の書物に出てくるほど古い言葉で一般的に野原や田畑という場所を表す。野良の空間は一つの場所を舞台にヒトの活動と自然とが織りなす一体とした営みから成り立っている。そこには風景や個々の生物が存在するだけではない。意識的であれ無意識的であれ、それぞれの生命の営みを通じて関連する要素の有機的なつながりがある。その結びつきは季節の変化、その変化による成長の姿や営みの違いが連関してできている。
野良の空間とはヒトを含めあらゆる生命が育つ成長の場であり、ヒトの手で完全に管理・維持されるのではなく、適度に自然任せにされている状態の場でもある。
都市部では自然と共存共生といっても、人間の都合が中心に位置する自然公園のように、ヒトと野生生物が分け隔てられ切り離されている。しかし野良的世界(里山)はヒトは舞台の一役者であって、中心的な主役ではない。しかしなくてはならない存在でもある。
里山は百姓の生業と自然遷移のせめぎ合いの舞台とも言える。その美しい景観はヒトが利用することによって、ヒトにとって都合の良い状態に改変した状態だ。現代人は人間と自然をついつい分けて考えてしまいがちだが、尾張の農書『農業時の栞』に「何事も中道か宜シ」とあるように、人間か自然かの二者択一ではなく、相応に折り合いをつけて合わせていくのが中庸の精神でもあり、里山に流れている思想でもある。
里山生態系はヒトにとって食料だけではなく、衣食住すべてにおいて有用な生物たちで彩られた生態系だった。里山を放置すれば日本の場合すべて人間にとって都合の悪い極相林へと変わってしまう。
生物多様性の里山生態系を維持するためには、ヒトの手によって里山を管理・維持する必要がある。その管理というのが適度な自然撹乱なのだ。
里山文化とは生態系に影響を与えながら、最大限の恵みをいただく文化である。その文化の継承なくして里山の生態系の維持はない。共生をうたうスローガンではなく、文化が多様性を生むのである。
その文化の中心こそはy苦笑の生業であり、農である。農のない暮らしでは里山を維持することはできない。
そして、農が中心にない政治や経済に多様性もなければ、生態系を築くこともできないことを忘れてはならない。
今の政治家や官僚を務める人たちの中で一体どれだけの人が里山で農中心の暮らしを経験したことがあるのだろうか?
また資本主義経済の中心を担う大企業で働くサラリーマンから資本家の方達も同様に。老後やリタイア後の悠々自適な暮らしのために里山があるわけではない。里山での農中心の暮らしが政治と経済を支えていることを思い出してほしい。
シナントロープという言葉は「ヒトとともに」という意味でヒトが暮らしている生活圏に暮らし、人間社会に依存し、人間活動の恩恵を受けている生物のことを指す。逆に言えば、ヒトを利用して繁栄している生物だ。里山の動植物はもちろんのこと、野菜などの栽培種、家畜類も含まれる。もちろん害虫や害獣なども同様だ。
ヒトの必要性が他の動植物の生息環境を破壊し、多くの種を絶滅に追い込んだ。生物多様性の宝庫だった森林も、生物がほとんど生息しない砂漠もショッピングセンターやカジノ、住宅地、軍事基地、モノカルチャーの畑に取って代わった。ヒトはそれを自然破壊と呼ぶが、自然を破壊することなど不可能なのだから、自然変更と呼ぶのがふさわしい。もしくは「あなたが良いと思う自然環境の破壊」だろう。人類圏はあなたが思っている以上に多くの動物種が暮らす。
パーマカルチャーは意識的に有用動植物をデザインに採用するために、無用かつ非生産的なものを全て排除するかのように勘違いされる。しかし、それではすぐにデザインの再編や限界にぶつかるだろう。
多様性をより理解し、うまく活用するためには、里山生態系システムのバランスと動き、反応をあらゆるレベルで観察して、融合させていく必要がある。そうして、初めて多様性と共働でき、様々なレベルで多様性をデザインできるようになる。
ヒトが現在多くの種を絶滅に追いやっているが、それは意識的に特定の種を絶滅させているわけではなく、ヒトが生息する人間圏の拡大である。つまり先進国では都市部を、それ以外の国では里山の積極的な開発に他ならない。
里山生態系は森林生態学でいうと、エコトーン(移行期)にあたる。ヒトが原野を開拓し、原生林を開墾することでそこには今までには無かった生物多様性が生まれる。ヒトの手による開墾は自然界では自然火災や地震、噴火、土砂崩れ、倒木など自然攪乱と同等で、開拓は移動する動物の糞や死体と同じである。
日本では放っておけばどこも草木のジャングルとなり、昆虫や野生動物の住処となり、森林となる。その移行を止めるのが人間の論理であり、営み。それは自然遷移をコントロールしているに他ならない。
原生林や絶景と言われるような自然は「人間なんてちっぽけ」というような圧倒的なパワーを持つ。その代わり里山という自然はなぜか分からないが人々は安心し、和ませる。
エコトーンとは多様性をはらんだ環境であって、さまざまな植物が育っている。極相林となる森林に連なる部分には高く茂った木。そこの林床には日陰を特に好む草がまばらに生えているだけである。ここには里山で見るような生き物はほとんどいない。
日当たりを好む林は若く、木々はまばらで開けた梢を通して、日光が降り注ぐ。だからそこには日差しを好む色々な草が生える。そして思い思いに様々な花を咲かせる。
花に依存しているのはもちろんチョウだけではない。ハチやハエも、甲虫そのほか多くの虫は花の蜜や花粉に頼って行きている。したがってエコトーンにはそのような昆虫が集まってきて、その昆虫を食べる小鳥やクモカエルトカゲそして肉食昆虫が集まってくる。
こうしてエコトーンはさまざまな生物たちを引きつける。エコトーンは環境の状態が移行する場所。そのため大規模に広がることはない。広がっている場所こそ里山で、そんな環境こそ、ヒトが作り出し安心する環境であり、美しい景観と称してわざわざ守り、なんでもある都会から足を運ぶ。
自然撹乱とヒトによる開墾は同じ原理。
新しいエコトーンが生まれ、自然の再生プロセスが始まる。ヒトはその再生を喜んで利用し、そして同時に嫌った。自然の再生プロセスは終わりはない。だからヒトによる管理も終わらない。だから「自然との闘い」のような言葉もあながち間違っていない。ただ闇雲に「自然を守れ」では里山はなくなってしまうのだ。
農家がせっせと働くのはそのためだ。日本人がよく働き、勤勉なのは自然遷移のスピードが速いから、である。
里山は人間の論理と自然の論理がせめぎ合うところ。
人間はしばし、自然の論理を徹底的に排除しようとする。完璧に舗装されたアスファルトの道路、水を早く流すためのコンクリート製の側溝、雑草が1本も生えていない芝生、小綺麗に剪定され落ち葉は綺麗に片付けられた林などそれを維持するのは非常に大変だ。
足るを知るとは「どこで止まるか」を知るということだ。自然農のあとは放っておけば森林になっていく。慣行栽培の後は荒れ地になるが、日本のように自然遷移のレジリエンスが高ければいずれは森林になっていく。ヨーロッパやオーストラリアのような乾燥が強い地域では残念ながら荒地のままとなる。それが現代農業の跡地に草が一本も生えてこ日本の里山にとって、ヒトが管理するとは自然遷移をコントロールすることに他ならない。
人間が森林を破壊すると大喜びして繁栄する生き物もいれば、人間が森林を放置すること大喜びして繁栄する生き物もいる。人間が適度に手入れをすることで大喜びする生き物もいる。日本の里山で、日本人とともに文化を作ってきた生き物とはそういった生き物たちのことだ。もちろん、森林破壊で苦しむ生き物も、放置で苦しむ生き物も、適度な手入れで苦しむ生き物もいる。それは目に見えてわかることもあれば、誰にも気づかれないこともある。
日本の里山に特徴的なモザイク状の土地利用は一見して非効率なものと思われがちだが、実際はその土地の微気候を最大限に活用している証拠で、百姓が大地と対話してきた証だ。
モザイク状であるということは田畑と雑木林、集落の接点・接地面積が増えることであり、エッジ効果が十分に発揮できる。山菜がそういった場所に生えてくる性質からから、食糧の多様性と質量を増す。
また土砂崩れや斜面の崩壊などリスクの軽減と集落の全滅を防ぐ意味合いが強かったのであろう。山を開発しすぎることへの警告と人が増えすぎた時に間引いたり、ほかの村や都市部へ出稼ぎや奉公の文化がそれを物語る。
日本各地の山岳信仰や山ノ神信仰には「ヒトが山の管理を怠れば、災害が起きる」というのが必ずある。これは先代の自然遷移とのせめぎ合いの経験から受け継がれてきた。ヒトが山の近くで生きていくためには、ヒトの手による管理が継続していく必要があるのだろう。
里山は百姓の生業の結果生まれた多機能の場である。つまり、食糧生産の場でもあり、林業の場でもあり、家畜の場でもあり、狩猟採集の場でもあり、憩いの場でもあり、鑑賞の場でもあり、遊びの場でもあり、宗教の場でもあり、防災の最前線でもある。野良仕事とは決して食糧生産や美観のためだけに行われるわけではない。
現代の効率化の論理には専門化や特化が必ずついてくる。あれかこれかと一つだけに絞る必要はない。里山はもともと多機能な場であるからこそ、多様な生物が住み着き、多趣味で雑食なヒトにとって楽園なのである。
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