見出し画像

遺伝子と生命のアウトソーシング


<遺伝子と生命のアウトソーシング>

私たち生物を構成している元素と宇宙全体の元素は面白いことによく似ている。水素、炭素、酸素、窒素が生物の90%以上を構成するが、この4つは宇宙全体の上位5位までを占める。そのため生命の奇跡はその材料の希少性ではなく、複雑さにあると言われる。

遺伝子の発見は生命の起源の研究を袋小路に追いやった。なぜなら、その複雑さと長大さのためだ。それでもこの数十年の間に遺伝子工学が飛躍的に発展し、さまざまなことが明らかになった。

「遺伝子とは何かと?」と問われれば「タンパク質を合成することが仕事」だと答えることができる。私たち生物の身体は細胞からできているが、その細胞こそがタンパク質であり、身体中の各組織に命令と機能の調整を司るホルモンやそのお手伝いをする酵素もまたタンパク質である。そのタンパク質の元がアミノ酸であり、窒素である。

チッソ無くして農業が語れないように、遺伝子無くして生命を語ることはできない。

実は生物が子孫に伝える最小単位は、細胞であって遺伝子やDNAではない。生物は卵や子供を産むが、いまだにDNAを生み出すことができない。子孫へと遺伝されるものは細胞(受精卵)であって、生命システムそのものだ。

生命の不思議なところは遺伝子を自由自在に使いこないしていることだ。私たち生命は遺伝子を使いこなし、さまざまな細胞を作り出し、生命を維持・再生する。遺伝子は逃れられない命令や生命の全体像が書かれた地図のように考えがちだが、せいぜいカタログが良いところで無意識にそのカタログから最適な細胞を作り出す。

実際、受精卵から細胞は次々へと分裂・分化して皮膚や内臓、筋肉などの細胞になっていくが、それら細胞の役割を決めるのは脳ではなく細胞自身である。まだ脳は形成されていないのだから当たり前のことだ。

隣り合った細胞がお互いに表面に凸凹を作り出して相補的な結合を行い、そのとき相互の存在を規定するように働く。無個性だった細胞群の中に、このとき初めて違いの機会が生まれる。細胞同士がコミュニケーションして、それぞれ違う相補し合う細胞となる。

全ての細胞は同じカタログブック(DNA)を持っていて、そこから部品を選んで作り出して、細胞自身の個性を作り出す。隣り合った細胞との違いが、コミュニケーションが個性を作り出す。誰からも命令されることなく、隣り合った細胞とのコミュニケーションから個性を作り出す。彼らはヒトの肉眼では確認できないほど高速で触れたり離れたりして、お互いを確かめ合う。

実験のために細胞を切り出してバラバラにすると、彼らの相互作用は失い、自分が何になるべきか分からなくなり、自分を見失って死滅してしまう。たとえ栄養や酸素が十分にあったとしても、だ。ここに遺伝子を操る生命の細胞の奥深さがある。

他にも遺伝子工学の発展の中で遺伝子と生物の間に面白い関係性がわかってきた。遺伝子の総数はヒトが約2万1千個、ネズミが約2万3千個、小麦が約2万6千個、イネが約3万3千個、ミジンコが約3万1千個、大腸菌が約4400個とその生物の身体の大きさや複雑が増したとしても、遺伝子数は増えるのではなく相対的に減っているのである。また、最近進化して誕生した生物ほど遺伝子数は少ない傾向にある。

遺伝子工学によって分かったことは、進化の最先端の生物ほど少ない遺伝子でさまざまな細胞を作り出し、巧みにデザインして複雑な生命体を作り出していることだった。しかし、その生物が複雑な生命体を維持するために必要な仕事の多くを他の生命にアウトソーシングしていることは、ヒトを「自立した強い生命」だと考えていた西洋の科学者を驚かした。

植物の側根に共生・寄生・同居する微生物がいるように、私たちヒトの腸内・肺内・口内・皮膚上にあらゆる微生物や寄生虫が住み着く。免疫・消化系として役に立つものもいれば、悪さをするものもいれば、何をしているのかよく分からないものもいる。しかし、それらがバランスをとっているおかげで私たちは生きていれられる。

細胞内に住むミトコンドリアや植物の葉緑体はもともと違う生物だったのにも関わらず、いつのころか違う生物の細胞に入り込み、そこに居座りながら生命の維持・再生において、もっとも重要な役割を果たしている。そのおかげでもともと猛毒だった酸素を私たちはエネルギーに変えることができた。誰も使いこなせていなかった太陽エネルギーを資源にすることができた。共進化は生物の常識を大きく塗り替える力を持っている。

現在、動物も植物も3~5%しか遺伝子を発動させていないことが分かっている。これは残りの遺伝子は何もしていないのだが、気候変動や生命の危機に対応するために温存していると考えられている。火事場の馬鹿力はどうやら遺伝子にも当てはまるようだ。今現在の気候や環境に対して100%で挑んでしまえば、それは全力なのではなく余力がないことであり、環境が変われば死を意味する。

そのため、遺伝子が詰まったタネには幅広い多様性をもたらす潜在力がある。タネから生命システムの特徴が発展していく。栽培種を積極的に交雑させて自家採種を繰り返し、野生種に近づけていくと遺伝的多様性の真実にたどり着く。

生物多様性の世界には早い遅い、強い弱い、優劣はなく、「個性とらしさ」だけがある。個性とはその場で生き残るために備わっていて、誰かに見せびらかすものでもなくコンプレックスを感じて落ち込むためのものでもない。個性がバラバラなのは意味があるからで、生きるために必要だからだ。私たちヒトの顔や姿形、才能がバラバラで違うのは、必要であり意味があり、価値があるからだ。逆にヒトの目が誰もが二つなのはそれが最適であり、個性は要らないからである。

人間が持つDNA配列をすべて解読しようとする「ヒトゲノム・プロジェクト」構想が1989年に打ち出されると世界中の研究者が協力して解読に挑んだ。そこで研究者が驚いたことは身体を作るためのタンパク質をコードする遺伝子はわすが1.5%ほどしかなかったことだ。ショウジョウバエの身体に使われている遺伝子情報の数と対して変わらなかった。

手足など誰にでも共通するものを作り出すDNAはごくわずかで、残りの遺伝子は個性を変化に適応するために温存していると話したが、どれを温存しているかはヒトそれぞれ違う。つまりスイッチがオンになったりオフになったりすることが確認されていて、それが個性を作り出しているのだ。私たちの中の何かが必要だと判断すると遺伝子のスイッチは切り替えられる。

そのきっかけに関する研究は多くなされているが、いまだに分かっていないことだらけだ。しかし、微生物がその役割を担っていることはほぼ確実視されている。しかも、生物としての進化そのものにも。

遺伝子の数が少なくなればなるほど、共存する微生物群は多種多様になることが分かっている。その微生物とのやり取りの中で微生物が作り出す化学物質が遺伝子のスイッチがオン・オフに影響を与えているというのだ。

植物の種子の表面にはまた多様な微生物(内生菌)が住みつている。果菜・果実類の熟す部分には酵母菌や乳酸菌類が住み着き、熟す過程で甘い香りを漂わせてくれる。私たち生物はこの香りに敏感で弱い。さらにはこの菌を利用してワインなどを醸してきた。また米糠のように乳酸菌が種子の中に入り混んでいるものもある。味噌やドブログなどはこれらを利用する。

また内生菌は発芽抑制物質を分解することで発芽のタイミングを司ることが知られている。内生菌は茎葉や畑の土に住み着いている土着菌ともコミュニケーションをとり、情報を交換しているようだ。そのコミュニケーションのやり取りの繰り返しが、その畑の風土にあった種子へと進化(変化)を促す。

植物の種子は動物の皮膚や毛にひっついて運ばれることもあれば、食べられたり口に咥えられて運ばれることもある。どちらにしても動物の皮膚上や体内に共存する微生物と出会うことになる。その出会いが共生する動物に適応した種子へと進化(変化)を促す機会になる。

これらの事実から考えると「アナスタシアのタネ蒔き」が身体に最適な野菜が育つようになるというのも説得力が増していくる。舌下には唾液が出てくる線があり、唾液を調べることで遺伝子情報を解明できることは知られているが、体調や気分まで分かるのではないかと研究が進められている。また足の裏からは身体の毒素が出ることが分かっていて、その毒素を常在菌が分解して、臭いを出す。足の裏を含め手のひらや口内など皮膚が薄いところには常在菌が多く住んでいる。

アナスタシアのタネ蒔き自体を全て真似る必要はない気がする。私がオススメしているのは、畑でおしゃべりをしたり、生き物たちに声をかけたり、素手で触れたり、裸足で歩くことだ。服や手袋、靴などは外なる自然とヒトを切り離してしまう。ときに素足・素手で彼らと触れ合うことは生物として重要なことのように思える。

自然農で自家採種が重要なのは彼らの幅広い才能を十分に引き出すためだ。F1種などの改良種はどこでもある一程度の終了を得るために開発・育成されている。そのため経営を成り立たせる農業において最適な種だ。家庭菜園での自給のためなら、それよりも畑の風土や環境に適応している方が都合が良い。

自家採種を3年ほど繰り返すと、畑の風土や環境に適応し始め、7年ほどもすれば適応した最適種となる。その土地で最大限の終了を得られる種になる。遺伝子組み換え種やF1種、育成種も7~9年ほどの期間が必要となることを考えれば、どちらにしても自然界の摂理からは逃れられないようだ。

ここまで見てきたように最適なタネ作りもまたヒトには作ることができない。環境と植物、栽培者自身が調和することで自ずと育まれていく。野菜たちはヒトによって美味しくなるように味を変え、ヒトはそれに魅了されて世界中にタネを運ぶ。これほど多くのタネを運び、蒔く生き物はいない。ヒトだけが持つ特別な才能とも言える。

「足るを知る」とは自身(ヒト)の力の限界を知ることであり、このことこそ実はヒトの豊かさの根源だ。ヒトは進化の過程で他の生命を信じて(利用して?)アウトソーシングしてきた。

遺伝子そのものにもアウトソーシングの歴史が残っている。遺伝子組換え作物はその開発から現在に至るまで、多くの議論がなされ、今でも希望と不安のなかで開発・育成されている。

しかし、遺伝子組み換え技術は決してヒトだけの専売特許ではない。生物学では別種の生物に由来するよりぬきのDNAを植えつけられた生物のことを形質転換生物と呼び、サツマイモが私たちの最も身近にいる例だ。

サツマイモは自然界に存在する形質転換植物であり、単細胞生物アグロバクテリウムの遺伝子を含む。実験室で組み込まれたわけでも、巧妙な品質改良によって生まれたわけでもない。8000年前にサツマイモがこの細菌に感染し、なんらかの理由で細菌の遺伝子の一部を保持し続けた。そのおかげでサツマイモはどんな荒地でも育つ才能を身につけ、救荒作物としてヒトに利用され、ヒトを生かしてきた。こういった例はどんどん見つかっている。

そして、私たちヒトもまたその一種だということが分かり、世界中の科学者を困惑、驚愕させた。私たちの遺伝子のうち約9%がレトロウィルス由来だという。ウィルスが生物か非生物かはまだ科学界でもはっきりしていないが、ウィルスも私たち生物と同様の遺伝子を持つことは間違いない。このレトロウィルスは哺乳類に感染し、哺乳類の遺伝子にコピペするように取り組まれたことで、哺乳類は胎盤で我が子を育むことができ、気候変動の中生き残ることができたというのだ。私たちはウィルスへの感染を異常であり、避けるべきと考えるが、それは人間の都合に過ぎないのかもしれない。

遺伝的には、同じ人類の過去に生きてきた人々から少しずつDNAが受け継がれて、現在に生きている一人のヒトである。しかしそれだけではなく、もっと遡れば過去に生きてきた生命たちのDNAもまた受け継がれてきている。

私たち生物(ヒトが生命と呼ばないウィルスも含む)がみな同じDNAを持つということは、たった一つの種から進化し、それぞれの姿形に変化してきたことを意味する。中世のキリスト教学者が考えるようなヒトだけが神様が特別に作り出した存在ではなかったことが分かったわけだ。

そして、すべての生物が同じDNAから組織づけられているからこそ、レトロウィルスが入り込んだヒトや形質転換生物が存在しているのだ。遺伝子組み換え技術が可能となったのはヒトが特別な存在だったからではなく、ヒトもウィルスも他の生物もすべて同じ生き物だからである。私たちが種の定義も生物の定義もまた、人間の都合だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?