フィードバックループ
<観察の極意と人間生命>フィードバックループ
綺麗に色づいた葉が木枯らしによって大地に積み重なり、冬の本格的な訪れが静けさとともに私たちを包み込む。春から秋にかけて四季とりどりの表情を見せてくれた自然は黙り込む。お坊さんが走り回り、ヒトたちが動き回るのをよそに、自然はシーンという音を奏でる。
この冬の変化の少なさに寂しさを感じるものの、この季節は自然の中で暮らす人々にとって貴重な季節でもある。古代日本人はこの冬こそ、生まれ変わりの舞台であり、クマやヘビを始め、生まれ変わりの象徴の生物はシーンの中に籠る。
江戸時代の農書を読んでみると、農法の改良に励む人々はこの冬の間にあれこれと思案していたことが分かる。夜が長い分、読書にふけこみ、仲間とともに鍋をつつきながら情報交換をしていた。
農法の改善改良に励むものは好奇心旺盛な物好きで、農に限らず、いろいろなことに興味関心を示した。そのため農書には哲学や宗教からトイレ掃除や家族経営にまで多岐に渡って金言が登場する。また周りのものは新しい試作に失敗するのを待って、笑いものにしようとするが、彼らはくじけずに試作に挑み農法を改善改良しようとする。それは現代でもあまり変わらない。
この好奇心こそ、改善改良の重要な資質であった。大和「勧農微志」出雲「豊秋農笑種」信濃「御米作法実悟之教」などにはその土地土地に合わせた在地農法にたどり着くために試作を繰り返した結果を書き残したものである。
優れた百姓は自分の行いに対して植物や動物を含めた自然全体がどう反応するのかをいつも受け取り、それを理解しようと努めた。無反応もまた反応の一つとして観察した。
同業異業関係なく他人の言葉にも耳を傾ける必要があった。自分と違う意見や価値観、人生を持っているとしても、いやその方がむしろなかなか変わらない局面を大きく変化させるきっかけにつながることを心得ていた。だから他人の話を聴けないものに自然農は難しいのだろう。江戸時代の人々は「素直な心を持つもの」には自然が手助けしてくれると説いた。
本来、負のフィードバックは穏やでかつ些細なもので、自己制御を促してくれる。しかし、他者の話を聴けないものは頭でそれらを無視してしまうために、大きな負のフィードバックが起きるまで動き続けてしまう。その結果、大きな失敗や重大な心身の不調、人間関係の悪化なくしては暴走を止められなくなってしまうのだ。あなたにもそんな経験があるのではないだろうか?だから違和感は小さいうちに気がつく必要がある。
自然との対話、他者との対話は不断のフィードバックループを生み出す。それはときにインプットとアウトプットが同時に起きているような感覚となる。観察と実践が結びつくとき、人は手を動かしながら考える。考えながら手を動かす。現代人はついつち立ち止まって考え、何も考えずに動き出してしまう。
哲学者ディヴィッド・ヒュームは「偉大な哲学者や詩人を生む時代には、優れた織物職人や船大工が大勢いるものだ。天文学について無知な国家や、道徳がないがしろにしている土地では、完璧な仕上がりの毛織物が作られることはない」と述べる。
インターネットはあらゆるものの上辺をすくい取ってざっと目を通すだけで、詳しく調べなくても要点を救い出すことができてしまう。分かった気になってしまう。
いま私たちに必要なのは手を使って考える努力をすることだ。大きなことを考えながら小さなことを真剣に追求しなければならない。ごく細かなことがらと壮大な構想の両方を融合する努力が必要だ。
フィードバックループによって人間はこの世界の見え方を変えていく。観察力を極めていくことでインプットは言葉による情報ではなく、五感から入ってくる知覚・感覚による情報である。その五感の情報が知識とつながることが陽明学が言うところの「知行合一」となり、頭による理解と身体による実感が融合し、納得にたどり着く。そうすると私たちは「あぁ、そういうことか。」と短い言葉で深い感銘を表現する。
本当の文武両道とはこのことである。野球ができて、英語のテストの成績が良いことが文武両道だと思われているが、江戸時代に武士が大切にした文武両道とは違う。野球のプレイを英語を使って説明し、英語でコミュニケーションしながらプレイすることができ、英語で野球について仲間たちと語り合うことができることだ。野球の成績をあらゆる数学の方式を使って、さまざまな数値に変換し、その選手の良し悪しを評価すること。野球論についてあらゆる表現方法や比喩を使い、その面白さを論じることができること。野球の運動の生理を理科の知識で理解し、運動能力を高めるトレーニング方法について考えることができること。
このように文と武が繋がり同じ道を進む力となることが本当の文武両道である。だから、現代人が言っているそれは「文武離道」である。現場を知らない官僚たちがつくりだす政策がいつも的外れなのはこのためである。
このように適正技術にたどり着くためにも、自然と調和した暮らしにもフィードバックループによる文武両道が欠かせない。フィードバックループは現代人が分けて考えてしまうものをつなぎとめ、つながあわせ、そして融合へと導く。
たとえば現代人は「木を見て、森を見ない」と指摘されると「森を見て、木を見ない」。そこで終わるのではなく、何度も何度も「木を見て、森を見、森を見て、木を見る」と繰り返していくと、細部と全体像を切り替え、ズームアウトして森を俯瞰してからズームインして調べるようなアプローチを生み出す。その繰り返しがミクロとマクロの融合、具体性と抽象性の融合を導き出す。
他者との対話を繰り返すうちに、自分と他者を言葉が何度も行き交いし、言葉が私たちをつなぎ合わせて、次第に調和しだすと阿吽の呼吸が可能となる。その体験は音楽や演劇、スポーツなどで何度も経験してきただろう。それと全く同じことを自然農でも、パーマカルチャーでも観察と実践を繰り返していくうちに体験することになるだろう。
フィードバックループは自ずと自身の内側へと意識が向く。「観る」には「己を観る」という意味合いも含まれている。なぜなら、他者の反応を受け取ると自分自身は必ず「感応」するためだ。そして「対応」するために自分自身と向き合うことになる。
ディビット・ホルムグレンは「パーマカルチャーのデザインがうまくいかない場合、外にあるシステムに関する知識の不足ではなく、デザインする人間の内部システムが傷つている場合が多い。治癒とリ・デザインの必要性がある」と説く。
日本人は「反省しろ」と言われるとついつい「自責」してしまいがちだが、本来は「ふり返って、省きなさい」という意味である。自身が持っている勘違いや思い込み、一方的な価値観や都合の押し付け、余計な手出しを振り返り、やめていくことを意味していた。問題は解決するために起こるのではなく、自分自身を洗練させるために起こる。
江戸時代の百姓たちは「私たちは生かされている。だから、天地・宇宙やこの地球について知ると言うことは必ず自分自身について知ることになる」と考えていた。
フィードバックループによって自分の内側から変化が起き、外側(言動)に変化が起き、身近な他者(自然を含む)から次々へと変化が起きる。そのとき、自分と他者が、自分と自然が切り離された存在ではなく、もともとつながった存在であることに気がつくだろう。「ワンネス」は目指すものでも、作り出すものでもない。もうすでに「そうなっているもの」なのだ。それが地球であり、宇宙なのである。
だからこそ、観察は自分自身の内側にも外側にも、ありとあらゆるものへの好奇心を生み出し、さらなるフィードバックを繰り返すことになる。あとはその美しいデザインを邪魔しないようにするだけだ。