
ヒト作り

<ヒト作り>
自然農に限らず農に携わる職人たちは「作物はそのヒトの性格通りに育つ」という。作物は土の個性、天気の個性、作物の個性、栽培者の個性がぴったりハマった一つの作品であり、そのヒトの生き方が現れた作品だと言える。
自然農の職人たちは常に「土作り、タネ作り、ヒト作り」を口にする。この中で一番難しく長く時間がかかるのがヒト作りだろう
ヒトはすぐに嘘をつくが、自然は嘘をつかない。野良仕事と口で言いながらも、手抜きするとすぐにバレる。すぐに自然は暴れ出す。畑を見れば、そのヒトの精神状態や世界観がすぐに分かってしまう。
「素直な心で自然を読むことができるようになれば、どこでも一人前の農業ができる。」という教えもよく耳にする。素直な心を持ってはじめて、良い作物を育てられるとして、人間形成を重視した考え方だ。儲かるかどうかが百姓の楽しさではなく、作物と話ができるようになって、喜びや悲しみを作物と共振できるようになってこそ一人前の百姓だという。
目の前の生き物にしたことはすぐに返ってくるが、大地や大気など大きな自然に対してしたことは巡り巡って還ってくる。自然と調和した暮らしとは自分の状態が目の前の自然に現れてしまうことを意味している。ヒトと自然はつながっているからこそ、ヒトの豊かさと自然の豊かさは同時に生まれ、同時に失われる。それは精神的にも物理的にもである。
そのため地域を地域たらしめてきた雰囲気はヒトとモノとコトのつながり方、生産と消費と文化の相互関係が問題となってくる。
人間が生きるためには作ることと食べることが切り離せない。食育がタネを蒔くことから始めないことに私は違和感を持つ。ただ知識を詰め込み、消費することだけを体験させてもそれは体験学習にはならない。命と農と食のつながりを実感することが百姓が数百年間積み重ねてきた教育であり、躾だった。だからこそ「いただきます」という祈りの言葉にパワーが宿る。
「幸福は創造しない。人間は失うものが大きいと生み出したり、知ることも多い。自分の身辺の幸福を守るために夢中になっていた時に見えなかったものが、失意の時に見えてくる。したがって、人間には、たとえ宗教的は無くても、失意のうちの、いわば一種の祈りが重要なのかもしれない。」と霜山徳爾はいう。
何かを変えようと足掻いたり、なかったかのように無視したりするのでは無く、じっと静かに観察することが自然と調和するためには必要だと思う。その観察の中で洞察が生まれ、希望が浮かんでくるのだ。
福岡正信が言い続けた「無為」とは「何もするな」ってことではない。「余計なことをするな」という意味だ。無為とは知識や技術を身体で体得した人が、何に対しても応じられるベストな状態のことをいう。あとは存在の内なるリズムに任せて、信じて待つことを言う。
心が空っぽになった人は言葉に惑わされない。世の中の流行や空気に流されない。頭で考えているうちは観察しているつもりでも調査ばかりしてしまう。頭で考えていることと身体が感じていることが分からない。
観察して、小さい変化に気がつくこと。そして、小さいうちに対処することで最小限の力で最大限の力を引き出す。問題は大きくなってから変えようとすると、大きな力を必要とする。難しいことは小さいうちにやれば易しく、大きなことは小さいうちにやれば簡単となる。
人類だけが持つ「待つ」というのは「諦めない心」とも言える。過酷な環境でも創意工夫して、道具を、技術を、文化を適応させる。それは過去から学び、現在を把握し、未来に賭けることがなくてはならない。そして、それを繰り返し続けること。
継続が力になるのは決して成功を続けることだけではない。失敗も続けるから力になる。それを数千年もの間、積み重ねてきたのは哺乳類でも人類だけだ。だから、人類は何度も絶滅の危機に瀕しているにも関わらず生き延びてきた。
人類は失敗を糧にする能力を持つ。待つ余裕と失敗する余裕がなければ、教育にはならない。すぐに結果を出さなくてはいけない環境では、人類が持つこの才能を全く生かせない。
言語のレベルではなく非言語的なレベルで、つまり言葉ではなくて感覚で、「わかる」ことが必要。いつどんなときも、机の上や本の中にある言葉で学んだことは現場では役に立たない。現場での体感とあなたの言葉が繋がらなくては、他人から聞いた言葉はいつまでも浅はかで薄っぺらいから、誰にも伝わらないものとなる。机上の空論とは聞いていて空しい話のことだ。
自分感覚を磨くこと。それは生きる物差しを磨くこと。自然と調和した暮らしには、自然のリズムを感じる道具が必要。錆びついてしまったその道具を研いでいく。観察と実践を繰り返して、フィードバックループを続けることでしか磨くことはできない。時間はかかるが、やる価値がある。
ヒトの頭は「分かろう」とする。しかし、ヒトの身体は「分かってしまう」。頭で考えても自然は応えてくれない。いつも応えてくれるのは身体であり、自然である。だから、私たちは自然には敵わない。
ヒトが思い込みや信念、勘違いに突き動かれるとき、自然はいつも無数の示唆や警告、疑問を投げかける。私たちの身体はそれを感じ取っているにも関わらず、頭はそれを感じていないフリをしてしまう。そういうヒトは体調を大きく崩すか、事故に遭うか、人間関係を壊すまでいって、はじめて自分の思い込みや信念、勘違いに気がつく。
実際に現場に出向き、目を開き、手を動かし、魂を震わせなければ、世界中の知識と思想を持ってしても、この地球で生きていくのは難しいままだ。あなたが現代社会の中で機械のように生きたくなければ、土に触れることからはじめよう。
