小説「ヘブンズトリップ」_20話
俺はすっかり気を失ってしまったみたいだった。心地よく眠っていたようでスッキリと目を覚ました。よかった。とりあえず、生きてる。
隣に史彦がいると思って目を向けるが、そこはどこだかわからない、覚えのない場所だった。
俺が眠っていたのは車の中ではあったが、助手席ではなく、後部座席。
史彦の姿が見えない。そしてこの車はマークⅡではない。
窓の外を見て確認しようと状態を起こしたら、バックミラーを通して、運転席の人物が声をかけてきた。
「気がついたかい? 傷は平気かい?」
低い声だった。
質問された返事はできなかった。俺の体は拒否反応を示していた。
運転席に座っていたのは警察官の男であった。
警察に見つかったら最後という思考が頭に血を上らせて、俺は体が熱くなった。
そういえば、自分のこめかみから流れていた血を思い出して手を当てて確かめてみると、きれいに巻かれた包帯の手触りが伝わってきた。気持ちのいいザラザラとした表面が、高ぶって締めつけらえた心臓に安堵が広がった。
助かった。俺たちは保護されたのだとその瞬間にわかった。
外のいた史彦がニッと歯を見せて、こちらに微笑みかけてきた。
ふたりとも生きてる。
史彦は木に引っかったりせず、無事にやわらかい土の上に落ちたという。幸運にもどこもケガをしなかったらしい。
残念ながらおれは致命的なダメージはなかったものの、予想以上に血が流れていたことに気がつかなかった。こめかみから首へ、首から中のシャツにまで染みこみ、重ねて着ていた肌着までまっ赤に染まっていた。
ぼやける視界とふらつく足どりにそのまま顔を泥につけて倒れていたのを史彦は奇跡的に発見したらしい。
その場は完全に方角を失った森だったそうだ。体力を消耗しているはずの史彦は俺を背中に背負って、カンだけを頼りに歩いたという。
車を停めた駐車場には行きつかなかったが、なんとか森を抜けて赤さびたガードレールが見えるところまでたどり着いたという。しかし、早朝の山道では車は一台も通らず、史彦はさらにそのままコンクリートの道路を歩き続けて、やっと小さな土産屋のような建物を見つけたみたい。
しかし、そこはひとが在住していないタイプの店舗で入口のドアは鍵がかかっていて、助けを呼ぶことはできなかった。
なんとなくこの辺までは記憶がある。でもその後のことはどうなったかわからない。
体力の限界を迎えていた史彦はこれ以上は歩いて下山するのは危険だと考えた。
史彦自身も倒れてしまったら、ここでふたりともゲームオーバーになってしまう。
「ルールやぶるけど、いいよな」
その言葉が意味する声がやっと理解できた。
携帯電話を使わない。
俺たちが設けた逃亡中に設けたルールだった。
わずらわしい日常を断ち切るための決断だった。
そのルールを破る・・・・。
史彦は自分のスマートフォンの電源を入れて、警察を呼んで、助けを求めた。
そういうことか・・・。
不明確だった出来事がつなっがた瞬間だった。史彦は自分の車には乗りこまず、俺が目覚めたパトカーのすぐ外にいた。
「ケガ、平気か」
「ああ」
俺の身を案じている言葉が聞こえたが、声色はいつも通りの史彦のものだった。
車のドアを開けて、史彦の隣に立った。彼のズボンには干からびた泥や土がこびりついていて、俺が眠っている間にどれほど必死で山の中を駆け抜けたのかかが、うかがえる。ずいぶん迷惑をかけてしまった。
でも、俺は全くちがうことを史彦に問いかけた。
「山の中で携帯の電波入ったのか?」
「なんとか入るところまでって思いながら、歩いた。さすがに俺もヤバかった」
腕を組んで目を向けた靴の先はやっぱり泥で全体が汚れていた。
「ああ、しかし、本当にヤバかった・・・。なんとか生きててよかったな・・・。」
深く息を吸いこんで吐き出した史彦はひどく疲れているように見えた。
「ありがとう・・・」
俺はそう言おうとしたが、急に史彦は腰を下ろしてその場のコンクリートに座りこんでしまった。
「参ったな~」
右手を額に当てて、嘆いている。
駐車場にはニ台のパトカー、そして俺たちが乗ってきたマークⅡを警察官がパシャパシャと写真を撮っている。
「大変なのはこれからだぞ」
史彦は言いながら顔を上げた。
「何が?」
俺が何も考えずした質問に史彦が答えようとしたら、けたたましい叫び声が遠くから聞こえてきた。
俺たちが登っていった草木が生い茂る階段状の道から人影が激しく動きながら現れた。
疲れ切った目を見開いて俺たちはつばを飲みこんで固まった。
白髪まじりな老人は歩くのもままならないくらい目をどんより沈ませたまま、こちらを見てる。
毛布をかけられたまま、二人の警察官に付き添われ、無抵抗なまま、パトカーに乗っていった。
あとふたりも同様に俺を殴りつけてきた、めざし帽の男は一番若そうで、無精髭を生やした悪人プロレスラーのような顔をしていた。
反抗しないように手首のほうまで毛布で覆っていて、いたたまれない気持ちが胸をしめつける。
その三人の姿を俺と史彦はしっかりと目に焼きつけた。