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ケイバの壁(#5馬券、第1弾改)

馬券を勝馬投票券と呼ぶようになったのは、補助金競馬時代(1908-1923)からのことである。

もともと馬券と勝馬投票券は違う言葉だったが、

現在ではほとんど同じ意味で使われている。

(例えば、自由民主主義=自由主義+民主主義は現在において互いに似たようなイメージを抱きがちであるが、もともと自由主義と民主主義は喧嘩をしていた、笑。社会主義というイデオロギー上の共通の政敵が出現したがゆえに両者は結合したのだ。自由主義は私有財産の擁護などの政治的経済的自由の保護を主目的として、他方民主主義は参政権の拡大や議会制度の在り方など主権者、人間の平等に関わる問題群として出発した。)

勝馬投票の名は補助金競馬時代に馬券を発売出来なかったこと(刑法上の理由)から、

大正2年(1913)年4月18日開催の春季宮崎競馬において

勝馬投票(景品券投票)として発売されたことから始まった(と公式には言われている)。

この時期、全国の競馬倶楽部は賞金の代わりに入場券に福引券や優勝馬予想投票券をつけて的中者には景品と引換える(勝馬投票)等をして、入場者の減少を抑え、収入源を確保する努力をした(中にはパチンコの3点方式も)。


大正12年(1923年)の(旧)競馬法制定のときに馬券と勝馬投票券は現在に近い意味になり、これが定着した。


これは競馬法を制定する為の作戦でもあった。

(実のところ1905年までは、政府見解で馬券という言葉もなかった。)


競馬法では入場料を取る(ただし、主務大臣の認可を受け無料入場者と認められたものはこの限りではない)=第三条


勝馬投票券の金額は5円以上20円以下の勝馬投票券を額面金額を以て発売する


勝馬投票券の発売は競馬1競走に対して1人1枚に限る


勝馬投票券はこれを譲渡してはならない。


以上、第四条。


(ちなみに、大正7年の大卒会社員から国家公務員超エリートの初任給は50(~70)円であった。戦前はほぼ変わらず。※ 一般人はその半分以下


学生生徒または未成年者に対し勝馬投票券を発売してはならない。


(この縛りは最近まであった、笑。2005年1月1日から20歳以上は購入可能になった。でも昔から「抜け道」があったことは言うまでもない・・・未成年者の飲酒とよく似ている、笑)


勝馬投票的中者に対しては命令の定めるところにより、当該競走において勝馬投票券の売得金の額を越えない範囲内で払い戻しをする(筆者注:当たり前だろう、笑)。ただし、その金額は勝馬投票券の額面金額の10倍を越えてはならない!


ちなみに馬券発売黙許時代(1905年から1908年、実施は1906年)、


馬券は各主催者が運営する競馬場で発売したのであるが、


明治41年(1908年)4月13日の馬政局競馬取締に関する口達では、馬券は1枚5円から10円となった。


馬券は単勝式のみの発売であった。


明治40年の公務員(エリート)の初任給は50円(無論、一般人はそれ以下)であったので、現在の換算で2~4万(50円=20万)ということになる(笑)


入場券の料金は主催者ごとにバラバラで、根岸(横浜)や池上では1等席3円、2等2円だったが、馬券同様、馬政局の口達で1等5円以上、2等3円以上となった。


なお、明治42年の映画館入場料は15銭である。


初回の池上競馬(明治39年11月)では、


馬券は「ガラ」(スゥイープステークス方式)馬券と「アナ」馬券(パリ・ミューチュエル方式、現在、発売されている馬券と同じ)の2種類があった。


他に「モリガラ」があった(主催者ではない者が売る。何とも怪しい馬券である、笑)。


ガラは切手という札を1枚10円(現在の4万円)で購入する。これは自分では選べずに主催者が勝手にクジ箱から振り出した番号札のことをいう(笑)


締め切られると出馬登録が行われ、出走馬の枠順が決定する。


この時、持っている馬券の馬が出走しない(棄権、ゲート出ない等)とその時点で外れ(終わり)、


出走する馬を引いた(ラッキーな、笑)者は無事レースに臨み、その番号の馬が優勝すると120円(48万円)、2着になると60円もらえた(24万円)。主催者は1割取る。


(この時点における「ガラ」はある意味複勝に該当すると思われる。)


一方、「アナ」は、単勝式のみを売っていた。


1枚5円(現在の2万円)。希望すれば何枚でも購入できた!


(この何枚もが一般人にはヤバかった!笑)


払い戻しも「無制限」だった!


(これもヤバかった!笑笑)


こちらも主催者は売り上げの1割を取った。


当時、馬券は高額だったので、「宰取(さいとり)」という世話役が居た。


1人から1円とか2円出資させ、5円、10円にまとめて札を買い、当たれば配当金の1割を宰取が奪い、残りを出資者に配分するシステムがまかり通っていた。


もっと古くはロッテリー形式(非公式)だとか、公開馬場(日本人主催における競馬)における私的間のギャンブルが行われていた。

横浜に「近代競馬(洋式競馬)」が導入された1860年代にすでに賭けは行われ、当初はブックメーカー方式の賭けや個人間同士の賭けだった。


やがてロッテリー馬券(スウィープステークス方式)の発売も可能となった。


横浜の賭けを真似て、日本人主催による競馬場(ほぼ確実に初期の招魂社=現在の靖国神社における競馬でも、笑)でも賭け事は行われていた。


須藤南翠の『緑蓑談(りょくさだん)』(明治19年刊)には上野不忍池で公然と賭けが行われていた記述がある。


ただし、1888年(明治21年)までは(居留外国人と言えども)主催者による「公」の賭けはなく、あくまでも個人間や私設馬券屋(ブックメーカー)による賭け(を黙認する)に過ぎなかった。


馬券発売黙許時代の前は1888年(明治21年)に根岸(横浜競馬場)でのみ公式の馬券発売が許された。


主催者である日本レースクラブが1枚1ドル(これはほぼ1円にあたる約4000円前後…さっきの公務員換算で)で馬券を売りだした。


なぜ売り出せたのか?


この地(外国人居留地)は他の日本人主催による競馬と違って治外法権であったからである(と言っても前述したようにそれ以前から賭け事は行われていた、笑)



明治32年(1899年)7月、根岸(横浜)も外国人居留地としての期限が切れて、明治政府の旧刑法に従って賭けが禁止されるはずだったが、日英同盟(=1902年、による親英政策が確固となっていた状況、かつ根岸競馬を主催する日本レースクラブ会頭が伝統的に同盟列強国のイギリス大使、さらに運営自体が列強国の外国人中心だった)により賭けが自粛されることなく、また日本政府によって禁止されることもなかった(出来ようがない、笑)

もともと宮内省も消極的だった!!


それゆえ内地雑居(外国人が日本の法律・裁判に服するかわりに、全国どこにでも居住できるようになった)後、初めての競馬開催では、(欧米のジェントルマンと日本の皇族・政府高官による社交場、という競馬の雰囲気が壊れて)一般市民にとっても(が流れ込んで、笑)公然の賭博場となって異常な興奮に包まれた。


(筆者は論文や学会発表でこの「ジェントルマン」って実はヤバイ奴らだった!と書いた。ほとんど働かないで所得あり=かつ膨大な財産、ヨーロッパの円形競技場やギリシア・ローマ時代の見世物競馬、中世の動物虐めの伝統を受け継ぎ、とにかく野蛮でギャンブル大好き。それを当時は「ジェントルマンシップ=スポーツマンシップ」と言っていた、笑←あの“我々選手一同はスポーツマンシップにのっとり正々堂々と戦うことを誓います”ってやつです。これはギャンブルについても言えるのです、笑。(ノブレス・オブリージュ)ちなみに、スポーツ学の分野ではジェントルマンシップ=スポーツマンシップが定説であったりします・・・。これはスポーツの意味=語源史自体に“ジェントルマンの娯楽・賭博の時代があった”からです。

つまり、現代で云うところの“超”廃課金の連中の中に日本人が混ざっちゃった!政治外交的には不平等条約改正、内部的な意味においては新しい君主像を内外にアピールする=「ツール」としての競馬だったのだけれども、ジェントルマンたちは気楽に「ほうほう、この半文明人、未開の民(日本の天皇や政府高官のこと)も文明=近代競馬(高度な近代スポーツ)を少しずつ学んで来ておるのう、なかなかやりおるではないか!」という眼差し。天皇から頂いた賞・杯も外国=母国(文明国)向けのイラストでは「なんか半文明人の王が持って来て、もらっちゃったよ~ん、笑」みたいな画風(ノリ)となっている、笑


だから一般人がこんなヤバイ競馬に参加しちゃうと・・・。

しかも日本人には近代スポーツの伝統もない、それを動かす立派な制度・組織もない、回りに理解者・協力者も居ない、ノウハウもない、歴史もない・・・破綻するに決まっている・・・。


こうして庶民(下層民含む)が参加し始めた1900年頃から日本近代競馬史は大きな展開を迎えることになる(大衆競馬への道)。


ジェントルマン(王侯貴族から発展)の競馬が天皇(帝)による大衆(庶民)競馬へ向かうのである。


(競馬においてはジェントルマンスポーツの定着が失敗し、下層民による逆三角形を描く)


いくら最低購入金額を高く設定しても馬券を買う抜け道がたくさんあるのは昔も今も一緒であるからして、笑


「ツール」としての競馬は、この時期、日清・日露の両戦争で日本の馬が劣悪だったこと(日本在来馬=英訳:ジャパニーズ・ネイティブ・ポニー)から「天皇による勅諚」が出て、馬政局が設置され、政治外交における社交目的から馬匹改良増殖・馬事思想の普及という軍事上の目的が使命となっていく。(これは1945年まで続く)


と、途中余談が入ってしまいましたが、


このような理由で旧競馬法制定に至るまでは馬券発売黙許時代の競馬(無制限投票)の反省点=(野蛮な)外国から入って来た文化、すなわち「競馬=新しいギャンブル」に対する熱情→自己破産、一家離散、不正、暴動等の嵐(からの反省)をいかして、「制限投票」の在り方を巡る時期(補助金競馬時代)を経験する。その結果、現代に近い競馬(イメージ、制度)が形作られた(のである)。


もちろん(旧)競馬法制定後も抜け道があったことは・・・(繰り返す、笑)


一応、馬券発売黙許時代と比べて厳しく制限したのであるが・・・


あまり・・・笑


追記)

競馬=ギャンブル(一般的には刑法によってサイコロや花札などの一般賭博は禁止)のイメージを良くするために馬券を勝馬投票券と呼ぶことにしたのは陸軍や馬券復活運動を展開した競馬関係者(主に政治家、賛成派の衆議院議員⇔反対派は貴族院議員)、各地の競馬主催者の作戦であった!


本編は次回に譲ります!

ちなみに為政者側でみると、庶民は操作された。

今のところ定説。

私の場合は民衆の方が立場が上だったと思います。

民衆、民主化、史観です。

絶対に民が居なかったら日本の競馬は成立しなかった。

私はこの民を「帝国の賭博者」と名付け、

競馬ファンの始原としました。

単なる日記として・・・

参考文献(後ほど付記したい!)



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