「流れ星が消えぬ間に三度願い事を言えれば、その夢は叶う」(追憶)
という言葉があるが、これは揺るぎない真実の格言だ。
そんなことできるくらい、いつもいつもいつも自分の夢を意識している人なら、世間のどこからでもヒントを見つけ出すだろうし、それを形にするに決まってる。だから、放っておいても大丈夫そうだし、そういう人が夢を追う姿はそれ相応に美しい。
こういう人の中には、ごく稀に、生誕した直後にすっくと立って天を指差し、「天上天下、唯我独尊」と叫んだことのあるような人が混じっているのだが、そんな人は1000年に一人くらいしか出現しない。
問題なのは、それ以外の平凡な私たちだ。
誰かが何か夢を追う(ドキュメンタリー)。という言葉の裏には、
「少し考えれば、どれだけハードルが高いかすぐ分かりそうな」とか、
「それはあんた、あまりにハイリスク・ローリターンな」とかの枕詞がつくのだが、多くの記事やニュースではそれを隠してあげている。彼が傷つかないためのささやかな配慮である。
たいてい、彼が狙っている場所には席が少なく、そこにはすでに誰かが座っている。”彼”はどうしてもそこに座りたいから、席が空くまで待つ気満々だ。
ただし、”彼”の他にも席を狙っている人はたくさんいて、自分より素早く、効率のいいヤツがいるのも、頭ではわかっているが、敢えて考えないように心掛けている。
そんな”夢を追う平凡な彼”には、こんな口癖がある場合がある。
「オレの価値観が、オレの存在証明だ」
「他人の評価なんて関係ない」
要は「オレが美味いといったラーメンこそが、美味いラーメン」という話である。(誰にもそんな時期があるような気がする)
しかし、20代後半~30代前半に、この価値観には変化が起こる。
「オレが美味いといったラーメン」がホントに美味いかどうかには、あまり価値がなく、
「みんなが美味いというラーメンは、だいたい美味い」ということに気づいてしまう。
こうして、
「他人の意見は、思った以上に正しい」
「他人の決めた(評価した)自分の姿が、自分である」
「他人の評価は、自分の評価より公平で、的を得ていることが多く」
「実は”オレの価値観”は、たいして重要だと思われていない」
という事実を受け入れなければいけない日がやってくる。
たとえ、彼が夢見た席にまさに座らんとした瞬間でも、「ここは君の座る席じゃないよ」とみんなが言えば、唇をかみながら、黙って退席しなければいけないことを理解してしまう。
「忌み嫌っていた”他人の意見”を、自分の中心軸にしなければならない」
この良薬は”平凡な彼”の成長に不可欠だが、強烈に味が苦く、呑み込むのが辛い。
こうして”彼”は彼なりに悩むわけだが、ほとんどの大人は、大なり小なり
この時期を経験しており、平凡な彼もまた例外ではない。
いずれは越えられる峠である。
一番の問題は、いつ彼が気付くかであるが、世間ではそれを「運」と呼んでいる。
(より若い時にこの時期を迎えたのであれば、その人は幸運である、と言われている)
ちなみに
黎明期に携帯電話の開発に携わった人たちは、まさかこれが、
メールやネット端末、スマホゲームとして定着するなんて夢にも思わなかったに違いない。
夢というのは、案外思い描いた場所とは、ちょっとズレた場所に着地するものだ。
追記)
2010年の詠み人知らずを若干修正。
これに対して、私は成功と幸福の物語を評者に与えた。
彼は驚嘆していた。
その物語については何れ語ることにしよう。
(2023.1.14)