考えすぎと言われるな

私は、昔から考えすぎと言われるタイプの人間です。そんな私がさらに「最近よく考えたな」と思える内容の話をシェアします。考えすぎにも良い事はあるのです。

世の中には考えることが好きな人達とそうでない人達がいます。私はまだまだ分からない事の方が多いので沢山考える様にしています。私がどれだけ一生懸命世の中を理解しようと頑張ろうが、少しづつしか理解は深まりません。この過程を急いでしまうと感違いを起こしてしまう事になる事も知っています。考えながら行動も取るので学習がなかなかのろくなります。それでもなんとなく最近、仕事や友達、パートナーと話していてかなり理解ができた事がありました。

私は最近、世の中の出来事にあまり腹が立たなくなって来ました。それが欲と恐怖から引き起こされた行為であったとしても。欲と恐怖を含めて、それら全てが「我々」だと思うようになったてきました。「善」と「悪」は存在しない。ただ「我々」があるだけ。恐怖は欲を呼び、欲が恐怖を増長する。我々は自分の恐怖を人に知られない様に嘘をついたり、短期的な考えをもとに行動をとってみたりする。
又それと同時に、世の中の人達は、特に私のパートナーや親友や家族たちは私の恐怖と欲を受け入れてくれています。それに対して私に出来る事は、他人の恐怖や欲を尊重する事だと考える様になりました。理解が難しい場合でも尊重はする様にしています。もちろんそれさえできない時もまだ時々ありますが。

私はまだ時々怒ります。その怒りが人を傷ける事も知っていますが、その怒りが事態を改善する時がある事もあります。だから、私は怒る事を恐れていません。私には沢山の友達やフォロワーはいません。ただ、周囲と比較すると、私は自分の出来る事とやりたい事、色々な仕組みや世の中をどう良くしていけるか、などについて物凄く考える方ではあります。あと、私はものすごい好奇心を持った人間です。なぜ意見の食い違いが発生するのか、などといった疑問はほぼ毎日あり、ひたすら考えています。意見の違いを理解するにはまず意見の尊重から始まります。その先は結構簡単です。私はそうやって、自分なりの理解を得ることによって、周囲の人たちを尊重でき、彼らから信頼と尊重を蓄積してきました。
他人の意見と考えを尊重する事は聖人でなくても出来る事です。これが出来るだけで解決できる事がものすごく沢山ある気がします。私にとって、意見の尊重はすごくパワフルな武器です。

私はリーダーシップとは何かとか、ソーシャルイノベーションとはなんぞやの様な議論は出来るだけ避ける様になってきています。そういう議論に夢中な人達のほとんどが、その議論を理解していない人や、興味のない人達を理解しようとしないどころか、バカにしている様に見える場面が頻繁にあるからです。思想や信念は多様である事を学びたかったはずの彼らが、しっくりくる言葉やパターンを見つけるとそれを周りに押し付ける様な事をしているのを度々見かけます。最近の民主主義にも同じ現象が起きていると思います。選挙に行かない、行きたくない人達にも考えと自由はあります。有識者達が口を揃えて非難している候補者に票が集まったとしても、そこには全員に自由と思想があります。

私は子供の頃から、自分で考える事ができる人間だ、と胸を張って言える様に成りたかったです。今の私は、賢いかどうかはわからないし、人気者ではありません。でも思想の自由はある。そんなことに最近気付きました。

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