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「藤井風」の曲を聴きまくっていたら、「育児の価値観」がグラグラと揺らぎ始めた話
昨年秋、仕事で「名門」と呼ばれる中学を訪れた。生徒がのびのびと知性を磨く校風を垣間見て「こんな学校だったら、自分の中学時代はもっと楽しかっただろうな」と思った。
昨年冬、名門大学出身同士の夫婦が、住み慣れた地域を離れ、名門学習塾が集中する文教地区に転居した。園児が将来、名門中学に合格できるように。
昨年冬、卓抜した運動能力を持った子の親が、団体スポーツの試合に負けた悔しさから「こんなチームの試合には、うちの子はもう出さない」などと侮蔑の言葉をチームメイトに投げかけた。何人かの親子が泣いた。
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子育てをしていると、よく考える。「特別」と「特別じゃない」ってなんだろう。どこで線を引けばいいのだろう、と。
自分の子とよその子。
自分が暮らす地域とよその地域。
自分の子どもが通う学校と別の学校。
自分の子どもが所属するチームとそれ以外のチーム。
キッチリと線を引くことで、ある空間は守られ、ある子は疎外される。
「愛」という名のもとにお金と手間と情報収集の時間を注ぎ込み、ほめ言葉で子どもをコントロールしながら「理想の船出」のチケットを手に入れる。それができなければ泥船で沈む。子どもの失敗は親のせい。子どもの成功は親次第。
――あふれる情報はしばしば、子育て中の親や家族をそんな心理状況に追いつめてくる。
教育競争に勝つことが正解か、その子らしくいる環境のためにエネルギーとお金を注ぐのが正解か、地域に根差して与えられた場所に適応していくことが正解か。
「幸せ」の物差しが多様化した今、ときどき方向性を見失いそうになる。
しかし、確かなこともある。
「子どもを競争に勝たせて“より良い場所”へと導く」のは「誰かと協力して地域をよりよくする」のとすこぶる相性が悪い、ということだ。
誰もが“よりよい環境”に向かうことで地域がスカスカになると、家族が背負うものが大きくなる。
乳児が幼児に、幼児が学童になるにつれ、家庭外から受ける影響が大きくなっていくのなら、協力し合って子どもが生きる狭い社会を少しでも生きやすくすることも必要なのではないか、と思うこともある。
しかし、給与がいっこうに上がらないこの国で子どもを育てるためには、生活費や教育費を稼いで自分の子を特別扱いするのが精いっぱいで、連帯する余力が残されていない実情もあり、「“理想の暮らし”を送るためにはやっぱり教育が必要だ」というループに陥ったりする。
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こんなことを考えて悶々としていたころ、藤井風のアルバム「HELP EVER HURT NEVER」に遭遇した。
グルーブ感があるピアノのスキルで注目を集めているが、歌詞には一貫したメッセージ性が込められている。耳を傾けていると「このやり方以外、受け入れられない」「自分の思い通りに人生をコントロールしたい」「あの人の“ために”こんなにして“あげた”のだから、思い通りに動いて欲しい」という執着にも似た感情を少なからず解きほぐしてくれる。
誰かのために心を動かすのは奪われることじゃないし、誰かを打ちのめすために勝つわけじゃない。「特別な人」「特別な場所」だけでなく、隣人を愛し、日常をいつくしむ優しさに触れられる。
「大人も子供もみんな仲良しみたいな場所」で育ったと語る彼は、小さな町に根差して音楽の腕を磨き、コツコツと動画を配信し、地域の老人ホームや祭りなどで歌い、デビューに至る。
彼のファンは増加の一途をたどっているが、どのようなステージにおいてもおごらず卑下せず、「藤井風」然としている。生まれ育った地域の言葉を使い、つつしまやかな食生活を送り、ヨレたシャツを着て。
藤井風が、たぐいまれな才能と努力を継続できる資質と情熱に恵まれていることに加え、幼少期には家族が彼の「特別」なサポートもあっただろう。それでも、彼を見ていると、彼の紡いだ言葉に触れていると、「子どもが歩む最善の道を親が見つけてきて舗装して導く」のではなく「子どもの前に開かれた道を、子ども自身が発見する」と信じてみたくなる。もがいたり、苦しんだり、青春時代に自我の泥沼におぼれたりすることにさえも意味があるように思えてくる。
繰り返しになるが、育児の現場で「特別」と「特別じゃない」を線引きすることは難しい。
だって、みんな特別で、みんな特別じゃないからだ。
彼の歌を聴いていたら、この流動的なボーダーラインをえんぴつで薄く書いたり消しゴムで消したりして、今日会った人たちと共有している「この時間」を大切にしたいと思うようになってきた。
……とこんなふうに藤井風を特別扱いしている私だが、彼が今以上に「特別視されたい」と願っているようには思えないので、彼に救いや答えを求めたりなんかせず、少し疲れたら心地よい微風のような音楽と言葉を浴びて、たまに手拍子をして、じんわりと心を解きほぐしていきたいと思う。