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超簡単!健康寿命は決断次第で思うように伸びる!あなたに必要なたった一つのこと
健康寿命とは「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」とされている。日本では男性72.3歳、女性75.4歳である。
では、この定義に当てはまる人間は、すでに健康寿命が尽き、終活状態なのだろうか?
冗談じゃないよ、というのが僕の答えだ。
ある老人の覚悟
以前、週1回のペースで、介護施設で働いていた経験があるのだが、とても記憶に残っている入居者さんがいる。
Aさんは、80歳を少し超えた男性だった。とても穏やかで、驚くほど記憶力の良いクレーバーな方であった。
認知症の方が多い中、すぐに僕の名前も覚えてくれて、入居者さんの中で唯一僕を名前で読んでくれた人だった。
週に1度、土曜の夜勤しか勤務をしていなかったのだが、僕が部屋に入ると“ああっ!今日は土曜日でしたね!”といって迎えてくれる。そして、前の週に話した些細な雑談内容を、しっかりと覚えておられる。そんな入居者さんは、やはりこの方だけだった。
趣味は読書と詰将棋とプロレス観戦。
食事の後はコレクションとも言える大量のプロレスのV H Sコレクションの中から1本を選び鑑賞されていた。その後は本を片手に詰め将棋のパターンを研究するのが日課であった。消灯後も遅くまで本と向き合う姿を見かけた。
いつまでも好きなことがあるというのは、素晴らしいことだなと思わせてくれる人だったのだ。
そんなAさんの体調が、ある日を境にどんどん悪くなっていった。筋ジストロフィーを発症し、みるみるうちに動けなくなっていく。
ベッドに寝たきりで、自分で寝返りもできない状態になるにはそれほど時間がかからなかった。
ビデオを流していても、音を聞くだけだ。将棋の本は読めるような状態で無くなった。そして、クレーバーなAさんは、自分の状態を冷静に受け止めてもおられた。
深夜の見回りで、排泄介助をおこなっている時に呟かれた言葉に切なくなる。
“もう、頭の中で色々考えることしかできんようになった。それもだんだんわからんようになるんやろうな!”
自分が老いる姿、特に自分のことがよくわからなくなることを、わかってしまうことは恐怖だろう。クレーバーなだけに、それを冷静に受け入れようとされている姿をみるのは辛かった。
やがて、Aさんも他の入居者さんのように、僕の名前も、たわいない雑談の内容もわからなくなる、ある意味それがAさんの救いなのだとも思った。
人が認知症を発症するのは、神が与えてくれた贈り物なのだという。当たり前のことができない苛立ちから解放してくれるマジックなのだろう。
「日常生活が、制限されなく生活できる状態」とは、いつの状態なのだろうか。
Aさんにとって、介護老人施設に入居する段階で、すでにそういうことなのかもしれない。あるいは、これから体験する状態がそうなのかもしれない。
所詮、人間は一人では生きてはいけない。多かれ少なかれ、誰かの助けを借りて、人を巻き込みながら生きていかなければならない生き物である。
自分の生きたいように生きる。それがどんな状態なのかを決めるのは結局は自分自身なのではないだろうか。
その決断かできなくなる時期と、命が尽きる時期の乖離を少しでも縮める。健康寿命を考えるときに重要となるのはそこであろう。
自分の思い通りに生きるという決断と健康寿命
今年60歳の僕は数年前から強度の弱視である。白杖なしに外出はできないし、本を読むこともできない。街の景色も、人の顔もよくわからない。
しかし、自分の健康寿命が尽きたかといえば、決してそうは思っていない。
古本が読めないのは経済的に厳しいが、Kindleの読み上げ機能を使って以前とかわらぬくらいの本を読んでいる。趣味だったマラソンはもはや厳しい、しかしジムのランニングマシーンで走るし、健常な頃より重いバーベルを持ち上げている。メニュー表はよく見えないが、うまいものを食べ歩くのも好きである。
確かに自由度は狭くなったが、それなりに人生を楽しんでいると思うし、できなくなったことを補うように、新しいことに挑戦したいとも考えている。
人生、60年も生きていれば大なり小なり昔と同じようにはいかないものだ。この先、その都度その都度、自分を受け入れながら、自分で判断して、やりたいことをやる。
その気力を失わないような生き方をしたい。健康寿命を伸ばすために、その覚悟を持って生活してゆこう。