60代で読むべき「挑戦」についてのバイブル
先日、K D D Iの共同創設者で、連続起業家である千本倖生(せんもちさちお)さんの自伝「千に一つの奇跡をつかめ」という本を読んで感銘を受けました。
千本さんのことを知らない方も多いと思うので略歴を記すと下記のような人ですl
・46歳の電電公社の部長時代に、電電公社の電信通信の独占状態に疑問を持ち、新しい通信事業会社の必要性と構想を京セラ社長の稲盛和夫に説き、第二電電株式会社(現在のK D D I)を設立。稲盛氏社長、千本氏専務での共同経営者となる。
・その第二電電を、その後の通信の自由化の流れの中で、専用線事業、市外電話事業、携帯電話事業(現在のA U)へと次々に事業参入をさせ、我が国の代表する通信事業会社へと成長させた。
・副社長であったK D D Iを退社し、一旦経済界から退き大学教授として教鞭をとっていたが、57歳の時にイーアクセスを創業、5年で東証一部に上場、さらにイーモバイル(現在Yモバイル)の運営を行う。
・72歳で、同社を退社後、取締役会長としてエネルギー事業会社レノバの経営に参画。代表取締役会長として、再生エネルギー事業への参入、マザーズから 東証一部上場を指導。
・80歳をこえた現在もレノバ名誉会長を務めている。
千本さんの名前を知らなくても、千本さんが経営者として育てた会社の名前は誰でも知っている大会社だと思います。
さぞかし頭の切れる戦略家で、スマートな会社経営をおこなう才能の持ち主なのだろうと本のページをめくり始めました。(実際は目が不自由なので、Kindleの読み上げ機能で聴き始めたのです!)
その中身は負けの連続、しかし窮地に追い込まれるたびに、決して屈しない冒険活劇のようで、ハラハラドキドキの連続です。
当然といえば、当然なのでしょうが、千本さんの手がける事業はどれも公益性が高いプラットフォーム事業のため莫大な投資と、しがらみを一つずつ解決しなければ前に進まない案件ばかりです。
自我の欲求を満たすといった精神では、到底なし得ることはできない様々なエピソードが書かれています。
千に一つの軌跡を掴め
この本には様々なエピソードが書かれていますが、その中で特に痺れた内容を2つ紹介します。
電電公社総裁への直談判
千本氏が稲盛氏に電電公社独占の通信事業に対抗して、電電公社の社員でありながら、新たな通信事業の立ち上げの必要性と説き、承諾を得たのちに行った行動の一つに、公社総裁のである真藤氏に直談判をしたエピソードです。
当時の千本氏は電電公社の近畿地区技術部門の部長職ではありましたが、30万人をこえる大企業の中での全社的位置付けは課長職の一人に過ぎない存在でした。当然雲の上の人である総裁に直接アポを取ることなどできるはずもありません。
大阪に日帰り出張がある真藤氏のスケジュールを見つけ、 帰りの便と同じ便を予約しておき、伊丹空港(大阪空港)で待ち伏せをしたそうです。
真藤氏の秘書と顔見知りであったことから、チェックイン手続きをする秘書に近寄り、予め隣席に座るはずの秘書の席を譲ってもらうよう根回しました。
離陸前に無礼を詫びながら総裁の臨席に向かい、身分を明かし座りました。
訝しげな顔の総裁から、離陸後に要件をたづねられると、会社を辞めてライバル会社をつくる計画と、その許諾を求めたのです。
その瞬間、氏は鋭い眼光を私に向けました。そして
「君が?」
と疑わしそうに呟きましたが、私が本気だと悟ったのでしょう、こう問い返してきました。
「一人で、ではないだろう?」
「はい」
「誰とやるつもりだ」
「京セラという会社をご存知でしょうか?そこの稲盛さんと一緒にやるつもりです」
その名を聴いて、氏の険しい顔がふっと緩んだように見えました。
「そうか、稲盛くんとやるのか・・・彼と組むのならうまくいくかもしれんな」
こんな会話があったそうです。
真藤総裁は、立場上それを認めるわけにはいかないが、稲盛くんと一緒なら黙認するよと言われたと記されています。
真藤総裁は、石川播磨重工業の社長退任後、電電公社の総裁となり、その改革を託された人物です。
石川播磨工業時代は、三菱重工、川崎重工との熾烈な戦いを制し、業界のトップに担ぎ上げた経営者でした。
電電公社最後の総裁であり、N T T最初の社長でもある氏が、事業の独占がいつまでも続かないこと、業界の成長にとってはライバル不在なのはマイナスであることは誰よりも理解があったと思えます。
英雄、英雄を知るとは、こういうことなのだろうと思うのですが、47歳という年齢で自ら所属する巨人企業に真っ向から挑み、そのトップに直接挑戦状を叩きつけるこのシーンはとにかく痺れました。
元KDDI副社長で慶応大学教授がワシントン直行便のチケット代がない話
もう一つのエピソードは、KDDIを退職後に勤めていた慶應大学の教授も辞めて、再度イーアクセスを創業した時の初期の資金調達のエピソード
イーアクセスは、インターネット時代 にプロバイダーとADSL回線を一括で契約して提供する卸売会社なのですが、この事業も莫大な先行投資が必要な事業でした。
事業を軌道に乗せるには、潤沢な投資資金を確保する必要があり、事業着手に必要な資金とその後、さらに事業を進めるために必要な資金を2段階で確保しておく必要があったのです。
第一弾の資金は、モルガン・スタンレー、ゴールドマンサックス、他から45億の投資を引き出します。
その出資金は半年で順調に底をつき、予め予定していた第2の調達にかかろうとしたその時、アメリカのネットバブルが弾け、予定していた投資会社からの投資が受けられなくなりました。
なんと恐ろしいことなんでしょう!
どんなに知恵を絞っても、アイデアは浮かびません。このままでは会社は潰れてしまいます。
パートナーと二人で出した決断は、日本支社にどれだけ打診しても取次いでもらえないワシントンにある投資会社の本社にダメもと、アポなしで打診にいくことだったのです。
アポなし直撃は筆者のおはこのようですね
しかし、東京―ワシントンの直行便のエコノミークラスのチケットも購入するお金がないといった状況です。
数年前まで、KDDIの副社長、数ヶ月前まで慶應大学の教授です。現実はシビアです、45億を使い切ってのこのシチュエーションに痺れます。
そこで二人は、香港経由で朝着いて、夜戻るという条件付きの格安チケットを購入してワシントンへ強行渡米します。
当然、現地でも担当役員への取次はしてもらえないのですが、その役員の部屋の前に座り込み、直談判の機会を伺います。帰りの飛行機の時間が迫る中、待つこと2時間、部屋からでできた役員は驚きます。
決定は覆ることはないが、二人の行動に敬意を示す意味で10分間だけ話を聴こうということになりました。
熱意のプレゼンは、腕組みをした形式の10分を、前のめりの90分に変え、もう一度検討をし直すという確約を得て、ぎりぎり帰りの便に間に合うといった展開になったのです。
その後、再審査の結果はG Oで、これにより30億の投資を集めることに成功。
イーアクセスは、5年後、当時の上場企業としては創業以来最短という記録で一部上場をはたしています。
「挑戦」とはどういうことか、バイブルとなる本書の魅力
この本から学ぶべきことは沢山あります。凡人の自分にはとても真似のできないと思えるようなものでいっぱいです。
その中でも、もっとも学びが深いのは「挑戦」という言葉の意味です。
この言葉は、ともすれば日常茶飯事、至るとことで使われている言葉です。本書を読むと、日頃使うそれがとても陳腐に感じられるのです。
これが本当の挑戦なのか・・・といった感じです。
守るべきものは「己の信念」という姿に痺れる
氏が起業家として、我が国では電電公社の独占事業に風穴を開けようと決意した時、彼は47歳の一介のサラリーマンに過ぎない存在でした。
蕎麦屋を始めるのとは訳が違います。
京セラの稲盛社長に、相談をした時の稲盛氏の第一声は
“そんなことが、可能なのかね?”
そして
“どのくらい、なのかね?”
それに対して
”やりようによっては可能です。2年ほどの期間に1000億くらいは必要です”
と答えています。
自社のプロジェクトの起案ではありません。会社を飛び出して事業を興す話ですから規格外です。
自分の立場だとか、名誉とかは問題にはしていません。行動基準は「信念」のみといった感じです。
もう一つのエピソードもそうです。
僅か10数年で日本を代表するメガ企業の運営をし、それを辞め、大学教授になった60歳目前の人間が、ほとんど見込みのない出資を求め、日帰りのエコノミークラスのチケットを片手に、直談判に出かけるなんて、まるでインディージョンズです。
年齢も、自分の地位も名誉も・・・・
自分の信念に従って行動することの凄みを感じます。
挑戦とは、用意周到極限にまで準備すること
もう一つ、挑戦の意味を学ぶのはその用意周到さです。
1つ目のエピソードでは、真藤総裁に宣戦布告をするまでに、京セラの稲盛氏を巻き込むことに成功しています。
そして、なぜ真藤総裁の隣席に座り自分の存在を明確化したのかも、実は後々自分の行動を握りつぶされないための布石でもあったのです。
2つ目のエピソードでは、ワシントンの投資会社を直撃する前に、モルガン・スタンレーやゴールドサックスマンから45億の投資を受けている計画を通しています。
さらにそれを練り直し、10分間で首を横に振ったNG案件を前のめりにさせる準備をしていたからです。
やはり、この本からは挑戦することの凄みを感じます。
まとめ
僕は、自分も含め60代を応援するつもりで日々記事を書いているつもりです。
現在59歳ですが、思えば千本氏は今の自分と同じくらいの年に、イーアクセスを起業し、エコノミーの飛行機でワシントンで日帰り談判をし、その企業を上場させ、ソフトパンクに売却し、その後72歳で、レノバという会社に合流し、その会社も上場させています。
60歳を超えて、2つの企業を上場させ、80歳を超えた今なお現在進行形でる氏の手記は同年代の人には是非手に取って読んでいただきたい名著だと思います。
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